聖 書 集 会

塚本聖書画像 春風学寮では毎週日曜日の午前中を、人類不朽の古典である聖書の学びにあって、若人の人生観を陶冶することを目指しています。 創立者道正安治郎氏は聖書の学びを内村鑑三、塚本虎二両氏に師事し、純粋なキリスト教信仰に基づく寮運営を目指しました。 現在でも全く同じ方針によって春風学寮は日々運営されています。 毎週の聖書集会では小舘美彦寮長を中心に、多彩な個性を持つOB諸氏、寮関係者による聖書の講解がなされます。

「人は皆罪人か」(春風学寮)2018.9.30.

聖書:ローマの信徒への手紙
3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
3:14 口は、呪いと苦味で満ち、
3:15 足は血を流すのに速く、
3:16 その道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目には神への畏れがない。」

序.自己中心性と罪
 前回は自己中心性が人の幸福を阻害するという話をした。聖書にはこの自己中心性に近い「罪」という概念がある。「罪」と自己中心性とはほとんど同じだが、異なる部分もある。では、「罪」とはいったいどのようなものであろうか。

1.人は皆罪人か
 今読んでもらった箇所は、使徒パウロによって書かれた書簡の一部だが、ここには驚くべきことが書かれている。人間というものは全員罪人であると書かれているのである。9節には「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」とあり、10節には「正しい者はいない。一人もいない。」とあり、12節には「善を行う者はいない。ただの一人もいない。」とある。要するにパウロは、人間は全員罪人であると断言しているのである。
 このように断言されると、反論したくなってしまう。自分は罪人ではないと。自分は正しかったこともあるし、善を行ったこともあると。少なくとも他者に害を及ぼすような悪いことをしたことは一度もないと。私の知人にはそのように述べて、聖書を拒否する人がたくさんいる。「自分は何も悪いことをしていないのになぜ罪人呼ばわりされなければならないのか」と。
 いったいなぜこのような反応が出てくるのだろうか。それは私たち人間が普通に考える罪と、聖書で言うところの「罪」にずれがあるからである。私たちは普通人に害を及ぼしたり、人に迷惑をかけたりする行為を罪と言う。そしてそのような行為を引き起こす性質を自己中心性と呼ぶ。ところが、聖書が「罪」と呼ぶものはそういうこととは少し異なる。では聖書の言う「罪」とは何か。聖書の中心は人間ではない。神である。だから「罪」ということも神を中心に定義される。すなわち、神に背くこと、いやそのような行為にとどまらず、神を侮り、神に背こうとする心の態度こそが聖書の言う「罪」なのである。
 では、神を侮り、神に背こうとする心の態度とは具体的にはどういうことであろうか。これについて知るためには神の本質(神の人格の中心)がどのようなものかを知らなければならない。

2.神の本質とは
 神の本質とは何か。それは、すでに千葉先生から何度も学んだように、愛である。そしてこの愛は私たちが普通に抱く愛とは異なる。私たちが普通に抱く愛はエロスである。エロスとは一言で言えば、自分の価値観に基づく愛である。つまり自分が良いと思った者を大切にする愛である。自分の身内、自分の利益になる者、自分にとって魅力的な者、自分が正しいと思った者・・・そういう人たちを大切にする愛こそエロスである。私たち人間の愛はほとんどがこのエロスである。他方、神の愛はアガペーである。アガペーとは一言で言えば、自分の価値観に基づかない愛、すなわち無私の愛である。つまり、相手がどんな人間であろうと無条件で大切にする愛である。その人が自分とは無関係の者であろうと、自分の不利益になる者であろうと、自分にとって魅力的でない者であろうと、自分には悪いと思われる者であろうと、変わりなくその人を無条件で大切にする、それがアガペーである。神の本質(人格の中心)は、このアガペーなのである。マタイによる福音書にはこうある。
5:44 ・・・敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
ここにあるように、神は悪人も善人も、正しい者も正しくない者も共に愛してその上に太陽を昇らせ、雨を降らせる。神は、本来悪人や正しくない者が大嫌いである。しかし、そのような自身の価値観を捨ててまで、無条件でその人を愛する。悪人も善人も、正しい人も正しくない人も愛する。これこそ神の本質、無私の愛(アガペー)である。
 神の本質はそのような無私の愛であるから、当然神が自分に似せてお造りになった人間にも無私の愛(アガペー)の実行を要求する。つまり、神ご自身や隣人を無私の愛をもって愛しなさいと命じるのである。聖書には十戒を初めとする様々な掟(律法)が記されているが、これらは要するに神や隣人を無私の愛をもって愛しなさいという神の至上命令をどのように実践すればよいかを具体的に表したものである。だからこそイエスはマタイによる福音書でこう言うのである。
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』とは、自分を捨て去るほどに全身全霊で神を愛しなさいということである。つまり無私の愛(アガペー)をもって神を愛しなさいということである。『隣人を自分のように愛しなさい。』とは、自分を愛するような絶対的な愛をもって隣人を愛しなさいということである。つまりこれもまた無私の愛(アガペー)をもって隣人を愛しなさいということである。律法のすべての掟はこれらの二つの掟に基づいているとイエスは言っている。つまり、律法の中心は無私の愛を実践しなさいということであると言っているのである。
 というわけで、神の本質は無私の愛(アガペー)である。それゆえに神は人間にも無私の愛の実践を命じる。律法は私たちに無私の愛を実践させるために作られた具体的な掟の集合体なのである。

3.罪とは何か
 このことがわかれば、「罪」が何であるかもはっきりとわかってくる。「罪」とは神に背くことであったが、神に背くとは要するに、神の本質である無私の愛(アガペー)に背くことなのである。つまり、神が無私の愛(アガペー)をもって神と隣人を愛しなさいと命じているのに、そのように愛そうとしないこと、これが罪なのである。具体的に言えば、自分とは無関係の者、自分に不利益をもたらす者、自分にとって魅力的でない者、自分には悪いと思われる者を愛そうとしないことが罪なのである。一言で言えば、自分の外側にいる他者を愛そうとしないことこそが、聖書が「罪」と呼ぶものなのである。
 注意してもらいたい。自分を愛することは少しも「罪」ではない。自分の体や心を養い、鍛え、自分の利益を図ることは少しも罪ではない。自分の身内や自分に利益をもたらす者や自分にとって魅力的な者や自分にとって正しいと思われる者を愛すること(エロス)も少しも「罪」ではない。「罪」であるのは、自分の外側にある他者を愛そうとしないこと、そのような他者を嫌ってしまうこと、憎んでしまうこと、無視してしまうこと、蔑んでしまうこと、道具のように利用してしまうことなのである。
 さて、そこで考えてみよう。果たして私たちはそのような「罪」のうちに生きていないだろうか。自分の外側にいる他者はどうでもいいと思って生きていないだろうか。無私の愛(アガペー)をもって神と隣人を愛そうとして生きているだろうか。たぶんいないだろう。だとすれば、私たちは、聖書の言うところの罪人なのである。
 しかしそれは私たちだけではあるまい。恐らく人間のほとんど全てが自分の外側にいる他者などどうでも良いと思って生きていると私は思う。先週藤本君が面白いことを言った。藤本君は、自分の当番のとき以外にもトイレやキッチンを掃除してくれているので、私は彼に「いつもありがとう」とお礼を言った。すると彼は、何と言ったか。「あれは汚れていると自分が快適に暮せないからやっただけです。単に自分のためにやったのであって、少しも感謝されるべきことではありません。」何と鋭い自己観察。そこには謙遜もあるのかもしれないが、本質的にはその通りだと私は思う。藤本君は無私の愛で掃除をしたわけではなく、自分のために、自分が快適に暮らせるようにと掃除をしたのだろう。しかしこれは何も藤本君に限ったことではあるまい。藤本君に限らず、人が隣人に親切にするのは、ほとんどの場合、自分のためであると思う。自分の利益や名誉、あるいは自己満足を高めるためにこそ人は隣人に親切にするのだ。隣人を純粋に愛するゆえに隣人に親切にする人は恐らくほとんど誰もいない。言ってしまえば、人に対する親切はほとんどが自分のために行う偽善なのである。そしてこのことこそ、私たち全員が無私の愛をもって神と隣人を愛しなさいという神の命令に背こうとする存在であることを物語っている。つまり、人はほとんど全員が罪人であることを証明しているのである。
 ついでに言えば、聖書における「正しい」(義)とは、神に従うことであり、それはつまり神の律法に従うことであり、要するに神と隣人を無私の愛で愛することである。そして「善行」とは、神と隣人に対する無私の愛を実行することである。であれば、「正しい」人などほとんど誰もいないし、「善」を行う人などほとんど誰もいないことになる。だからこそ、パウロは、10節で「正しい者はいない。一人もいない。」と述べ、12節では「善を行う者はいない。ただの一人もいない。」と述べたのである。

4.なぜ神は愛することを命じるか
 すると、疑問が生まれてくる。いったい神はなぜ人間に人間ができそうもないような無私の愛を律法にし、それを実践しろと命じたのであろうか。
その第一の理由は、私たち人間に幸せになって欲しかったからである。申命記にはこうある。
5:32 あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。
5:33 あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる。
ここに明記されているように、神の命令を忠実に実行するならば、つまり無私の愛を忠実に実行するならば、私たちは命と幸いを得る。神によれば、無私の愛を実践することこそが命と幸いを得る唯一の道なのである。神はその道がどんなに困難であろうとも、人間にその道をとおって幸せになってもらいたかった。だからこそ、敢えて極めて困難な無私の愛の実践を命じたのだ。(無私の愛を実践することがなぜ、私たちに命と幸いをもたらすのかは先週話したとおりである。すなわち、無私の愛の実践が私たちの自己中心性を打ち崩していくからである。私たちの幸福を阻害するものは自己中心性であった。無私の愛の実践はその自己中心性を打ち崩し、私たちが自分を活かしきり、他者から認められるという道を切り開く。だからこそ、無私の愛の実践は私たちを命と幸いへと導くのだ。)
 第二の理由は、人をして自身の罪に気づかせ、へりくだらせるためである。私たち人間はすぐに思いあがり、驕り高ぶる。力が強ければ思い上がり、頭が良ければ思いあがり、自分が正しければ思い上がる。最も性質(たち)が悪いのは、過去の実績や業績に基づいて自分が偉い(偉大だ)と思って思い上がるパターンである(スポーツ界の大御所に多い)。しかし、無私の愛を実践しなさいを中心とする律法があったとしたらどうか。人は絶えず無私の愛を実践できない自分と出会うことになる。自分のうちには「罪」しかないことを思い知らされることになる。そうなれば、自分は偉いと思いあがることなどできないではないか。パウロはローマの信徒への手紙にこう書いている。
7:7・・・律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
7:8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
パウロはここで、「むさぼるな」という掟があったために初めて自分は自分にむさぼりの「罪」があることに気づいたと告白している。まさしくこの通りである。私たちは律法があって初めて自分たちの「罪」に気づく。無私の愛を実践しなさいという律法があって、初めてそのように愛することができない自分の「罪」に気づく。そして自分の「罪」に気づいたとき、人は初めて驕り高ぶらずにへりくだることができるのである。このように、人間に自身の罪を気づかせ、へりくだらせるためにこそ、神は律法を定め、無私の愛を実践しなさいと命じたのだ。
 しかし、神が律法を定めて無私の愛の実践を命じた最大の理由は、人のうちに神への信仰を引き起こすためである。神から隣人を自分のように愛しなさいと命じられて、それが実行できないことに気づくとき、人はいったい何をするだろうか。ほとんどの人は神を忘れ、この律法を無視しようとするだろう。しかし、中には神に謝る人が出てくるかもしれない。「無私の愛を実践することができない自分をお赦し下さい」と謝る人が出てくるかもしれない(悔い改め)。あるいは神に祈る人が出てくるかもしれない。「無私の愛を実践するための知恵と力をお与え下さい」と祈る人が出てくるかもしれない(祈り)。このような神に対する悔い改めと祈り、言い換えれば信仰こそ神が人間に最も期待するところである。そのような信仰者が多く出てくることを期待すればこそ、神は実行することが不可能であるような無私の愛の実行を人間に命じ、そのための律法を定めたのだ。
 いったいなぜ神は人のうちに信仰が起こることを願うのであろうか。それは、信仰が人のなしうるほとんど唯一の無私の愛だからである。神を信じるとはどういうことであろうか。それは自分の無力さを全面的に認め、自分のすべてを自分の外側の存在である神にゆだねてしまうことである。そこには自分の外側の存在を大切にするという要素はないが、少なくとも自分の外側の存在を受け入れるという要素がある。これは、無私の愛に極めて近い心のありようではないか。そうであればこそ、神は人の心に信仰が起こることを望み、信仰を持つ者に救いをもたらすのである。

5.まとめ
 それでは、このような聖書の罪に関する教え(人はみな罪びとであるという教え)から、私たちはいったいどのようなメッセージを受け取ればよいのだろうか。最も重要なメッセージはやはり、「神により頼む信仰を持て」ということであるが、そのようなことを言ったからといってすぐに信仰を持てるはずもないので、それ以外のメッセージをあげよう。
 第一はやはり自分には、無私の愛(アガペー)など実践できないということをはっきりと自覚することである。私たちは正しいようなことをすることがある。善のようなことをすることがある。愛のようなことを実践することがある。しかし、それらは本質的には少しも愛(アガペー)ではない。それらは皆つまるところ自分のためにやっているのであり、自己愛の延長線上にあるものでしかない。つまり、私たちが行う正義や善行やらは、偽善でしかないのだ。このことをはっきり自覚して、決して思い上がったりしないこと、絶えずへりくだっていること、これが今日の箇所から受け止めるべき第一のメッセージであろう。
 第二は、人のことを偽善者呼ばわりして馬鹿にしないことである。私たちは普通偽善者に対して非常に厳しい。それは私たちの心の純粋さの表れであるのだが、他方では自分の偽善性に気づいていないことの表れでもある。人間には偽善しかできないことを知り、自分にも偽善しかできないことを知るならば、偽善者を馬鹿にすることなどとてもできないはずである。自分も偽善者の一人であることを自覚し、偽善者を馬鹿にしないこと、これが今日の箇所から受け取るべき第二のメッセージである。
 第三は、偽善になることを恐れず、積極的に律法を実行しようとすることである。繰り返すが、律法は無私の愛を実践するにはどうしたらよいかを具体的に展開したものである。だから、もしこの律法を敢えて実行し続けるならば、私たちはより深く自分の「罪」(無私の愛が実行できないこと)に気づくことになる。そしてそこから自分の「罪」が清められていくということが起こってくる。つまり無私の愛に近い心を持てるようになっていくのである。つまり自己中心性から解放されていくのである。つまり、幸福への道が切り開かれていくのである。
 というわけで、まとめるなら、自分の「罪」を自覚し、へりくだり、人を蔑まず、律法の実践に挑んでいくこと、これが今日のメッセージである。このメッセージに賛同していただけたら幸いである。

 

「聖書の示す幸福論」(春風学寮) 2018.9.22

聖書:マタイによる福音書

26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
26:40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
26:42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
26:43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
26:44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
26:45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
26:46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

序:聖書の反体性
 すでに少なからず聖書を読んでいるのでお気づきと思うが、聖書の言うことはしばしば私たちが普通に考えることと反対である。例えば普通の人間社会は長男を重んじるけれど、聖書はしばしば弟や末っ子を重んじる。カインとアベルの話でも神様は弟を選んで重んじているし、ヤコブの11人の兄弟の中でも神様は末っ子のヨゼフを選んで重んじている。あるいは普通人間社会では豊かなことが重要であるが、イエスは「貧しい人々は幸いである」(ルカ6:20)と言う。あるいは聖書は人のおろかさや弱さを讃え、賢さや強さを戒める。極めつけは愛敵である。普通人は家族や仲間を愛するが、イエスは「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と言う。いったいなぜ聖書はこのように常識とは反対のことばかり言うのだろうか。
 その理由は簡単で、聖書の言葉のほとんどが神を中心とする発想から生まれたものだからである。普通私たちは神を中心において物事を考えはしない。そうではなくて自分を中心において物事を考え、行動する。それにあわせて人気のある世の書物はすべて読者の自分中心を応援してくれる書物である。金持ちになる方法、出世する方法、賢くなる方法、健康になる方法などなどについて書かれた本が世にはたくさんあり、中には何百万部も売れる本があるが、これらはみな読者の自分中心を応援してくれる書物である。だから人気がある。ところが聖書はまったく逆である。聖書は読者の自分中心を少しも応援せずに、むしろ逆に読者の自分中心を破壊しようとする。そして読者の中心に神をすえようとする。だから聖書は繰り返し繰り返し人間が普通よしと考えることに対してだめと言い、だめと考えることをよしと言うのである。当然人気もない。聖書は世界一のベストセラーだが、決して人気のある書物ではない。ほとんどの人が持っているだけでまともに読んでいない!

1.聖書を読む意味
 ではこのような聖書を読んでいったい何の意味があるのだろうか。ここはきわめて重要な点であるので慎重に考えてみよう。聖書が読者の自分中心を破壊し、神中心を打ちたてようとする書物なのだとすれば、私たちがそれを読んで実践するならば、得をするのは神であり、私たちには何の得もないように思われる。はたしてそうだろうか。
 この問題を考えるためには人間の幸福とは何かという問題に答える必要がある。私たちが本当に幸せを感じ、生の充実を感じるときとはどのようなときであろうか。私が思うには(そしてこれはヘーゲルの結論でもあるのだが)、それはある目標を設定し、その目標に向かって自分を活かしきり、なおかつそのことが他者から正当に認められたときである(深い心の交流)。それが達成されるのは学問や芸術やスポーツにおいてであるかも知れず、仕事においてであるかも知れず、家事子育てにおいてであるかも知れず、あるいはボランティア活動においてであるかも知れず、あるいは友人や恋人との交流においてであるかもしれない。最近ではネットが普及しているので、ネットの仮想空間においてさえそのようなことは可能である(ユーチューバー)。とにかく、ある領域で自分なりの目標を設定し、その目標に向かって自分を活かしきり、他者から正当に認められたときこそ、人は生の充実を感じ、本当に幸せであると感じる(単に目標を達成することでは不十分。他者からそれを正当に評価されなければ幸福にはならない。誰にも認められないと人は鬱になる。人に認められなくともよいというのはほとんどうそ)。
 このように、人が幸せになる方法は明らかであり、その機会はいくらでも転がっている。ところが、実際に幸せになることができる人は極めて少ない。これはいったいなぜだろうか。私の考えるところによれば、その原因は自己中心性である。自己中心性はあらゆる側面から私たちの幸福追求を困難にする。それでは自己中心性はどのようにして私たちの幸福追求を困難にするのであろうか。以下、その例をいくつか挙げてみよう。
 自己中心性が幸福追求を困難にする第一の例は、鍛錬の阻害である。他者から認められるほどに自分を活かしきるためには、明らかに一定の鍛錬(トレーニング)が必要である。自分を捨てるような鍛錬があってこそ人は自分を活かしきることができるのだ。ところが人は往々にしてこのトレーニングをさぼる。そして目先の快楽に走ってしまう。さらに虫のいいことには、トレーニングなしで人から認められようとする。これぞ自己中心性の現れである。トレーニングなしで評価されることもたまにはある(天才、ラッキー、美男美女)。しかしそのようにして得た評価は真の幸福にはなりえない。なぜならそれは自分が努力して勝ち得た評価であるという充実感を生み出さないからだ。このように、人が自分を活かしきるためには鍛錬が不可欠であるのに、自己中心性はその鍛錬を阻害してしまう。だからこそ自己中心性は人の幸福追求を困難にするのだ。
 第二の例は、自己評価の阻害である。人が幸福になるためには先ず何よりも自分の能力や性質を正当に評価し、その正当な評価に基づいて自分の活動する領域を選び、目標を設定しなければならない。そのような目標が設定されてこそ、人は自分を活かしきることができ、他者から評価されることも可能になるのである。ところが自分の能力や性質を正当に評価することは極めて難しい。人は自分を評価しようとする場合、たいていは自分を過大評価するか過小評価してしまう。過大評価をするならば自分の実力にふさわしくない高すぎる目標が設定されてしまうし、過小評価するならば、簡単に実現できる低い目標しか設定されなくなってしまう。自分を高く評価しすぎることも、自分を低く評価しすぎることも、自己中心性の現れである。あるいは自分の性質や能力を全然見誤ってしまうこともある。好みというのが入ってくるからだ。例えば、人は美人ではないのにアイドル歌手になりたいと思ったり、記憶力が悪いのに弁護士になりたいと思ったり、運動神経が悪いのにオリンピックで金メダルを採りたいと思ったりする。自分の現状を無視する結果を引き起こす好みはやはりしばしば自己中心性の現れである。このような好みにしたがって、自分が活かしきれるはずはまずないし、人から評価されることも先ずない。というわけで、自己中心性は自分の正当な評価を阻害する。そのようにして人が幸福になるのを難しくしてしまうのだ。
 自己中心性が幸福の追求を困難にする第三の例は、他者(社会)への無理解である。自分を活かしきり、そのことを他者から正当に評価されるためには他者をきちんと理解できなければならない。他者が何を求めているか、他者が何を嫌がっているかをできるだけ正確に理解できなければならない。ところが人は他者を理解することが極めて苦手である。だからこそ他者の望んでいないことをやって他者から正当に評価されないということが起こってくる。自分勝手なことをやって自分の能力や性質を殺してしまうということが起こってくる。例えば皆がヘルシーフードを求めているときに、汗水たらして油のこってりしたステーキを焼いても誰にも喜ばれないだろう。みんながAKBを聴きたいと思っているのに、バッハを演奏したって喜ばれないだろう。にもかかわらずこういうことはこの世界のいたるところで起こっているのだ。なぜか。その理由はもちろん人間の物の見方が基本的に自己中心的であるからだ。他者の立場に立って考えるということが人間生来の本能に反するからだ。つまり、他者を理解できないということも人間の自己中心性の現われなのだ。このように、自己中心性は他者への無理解を生み、他者への無理解は人の幸福追求を決定的に阻んでしまう。他者への無理解こそは自己中心性が幸福追求を困難にする典型的な例なのだ。
 このように自己中心性というバイアスは様々な側面から人が自分を活かしきることを妨げ、なおかつ他者から正当に評価されることをも妨げる。つまりは私たちの幸福を妨げる。しかも忘れてならないのは、このような自己中心性は人間の本能であるということである。人は放っておくとすぐに自己中心的になる。この自己中心的本能を補正してくれるのが聖書の神中心の言葉なのである。聖書は究極の他者である神中心の言葉を語ることによって私たちを自分中心からシフトさせる。そうすることで私たちの自己中心性を補正し、私たちが真に自分を活かしきる道を切り開いてくれるのである。
 聖書の始めの創世記において、神様はアブラハム(始めの名前はアブラム)に向かってこう言っている。
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
 ここで神様はアブラハムに向かって「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」と言っているが、この言葉に込められた最も深いメッセージは何か。それこそ自己中心性を捨て去りなさいということである。人は誰でも生まれ故郷で父親と母親と暮したい。それが生きとし生けるものの本能である。しかし、それは神の目から見れば自己中心性である。神はそのように生きることよりももっとアブラハムを幸せにするプランを持っている。だからこそ言うのだ。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」と。まとめるなら神様はここで、自己中心性を捨てるなら、あなたに最高の幸せを与えると言っているのだ。そしてこれこそは、聖書全体の基調となるメッセージである。(この解釈は学術的研究の成果と照らし合わせても妥当である。研究によれば、神がアブラハムに生まれ故郷を離れよと命じた理由は生まれ故郷では偶像崇拝が横行していたからであった。偶像崇拝とはすでに学んだように自分の欲望を実現してくれる自分の思い通りになる神を崇拝することであり、それはまさしく自己中心性の現れである。)
 聖書はこの言葉に端的に表れているように、次々に私たちの自己中心性を破壊するような言葉を投げかけてくる。しかしそれは何も私たちを不幸にしようとしているからではない。むしろそうすることで幸福に導こうとしているのだ。今風の言葉で言えば、真の自己実現へと導こうとしているのだ。だから、皆さには聖書の言葉がいかにわたしたちの常識とかけ離れていようとも、努めてそれに耳を傾ける習慣をつけてもらいたい。そうすれば、私たちは自己中心性を乗り越える習慣や思考方法を身につけることができる。その結果、自分を正当に評価できるようになる。他者をより理解できるようになる。そして自分を活かしきる道が見えてくる。これらのことができて人は初めて真の幸福へと近づくのである。

2.自己中心性と幸福追求の関係
 ところで昔からある大きな問題を一つ解決しておきたい。その問題とは幸福を求めることも自己中心性の表れではないのかというものである。この疑問に答えるためには、幸福が何を意味するかをもう少し掘り下げる必要がある。もし幸福が自分の生理的欲求の充足であるならば、その追求は間違いなく自己中心性の表われである。例えば赤ん坊の幸福は単に自分の食欲を満たすことであるからこのような幸福は純粋に自己中心的である。しかしもし幸福が人に認められることであるとするならば、そこには他者性が入ってくる。例えば、子供の幸福はもはや単に食欲を満たすことではなく、親に認められることである。このような幸福では幸福の中心が明らかに自分の満足よりも親の満足にシフトしている。これが青年期になると幸福の中心はさらにシフトして友人や恋人を満足させることへとうつる。そして大人になれば、幸福の中心はさらにシフトして不特定多数の見知らぬ人や社会全般になる。不特定多数の人をいかに満足させるか、社会全般をいかに満足させるか、すなわち社会という舞台でいかに自分を活かしきり、いかに他者から正当に認められるかが幸福となるのである。
 このような事実をよくよくふりかえってみるならば、幸福の追求が自己中心性の表われであるなどと簡単に言えないことは明らかであろう。幸福追求が自己中心的かどうかは幸福が何であるかにかかっており、そして幸福は高度になればなるほど、自己中心的ではなくなる。それにしたがってその追求も自己中心的なものではなく、他者中心的なものとなっていくのである。

3.究極の幸福
 さて、以上見たとおり、人の幸福は人が成長するにつれてより高度なものになっていく、より他者中心的なものになっていく。では最も高度な、最も他者中心的な幸福とはどんなものであろうか。それはもちろん、究極の他者である神中心の幸福である。すなわち神の満足を幸福であると感じることである。そしてその究極の幸福のモデルはもちろんイエス・キリストである。
 イエスは自己中心性を一切捨て去り、神の意志への完全な服従を貫いた。そしてそこにかえって究極の幸福を見出したのである。そのことを典型的にあらわすシーンが冒頭に呼んでいただいたマタイによる福音書26:36〜46である。ここは極めて重要なところなので、その最初の部分をもう一度読んでみよう。
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
 このシーンは明らかにイエスの中での自己中心性と他者中心性の相克を描いたものである。イエスはここで「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と言っている。「杯」とはイエスが十字架にかかることである。それを取り除いてくださいと嘆願しているのだから、この言葉にはイエスの人間としての自己中心性が表われていると見てよいだろう。ところが最後にはイエスは、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と言っている。この言葉には神への服従という究極の他者中心性がこめられている。そしてイエスは結局後者を選び、十字架にかかった。そしてこの十字架こそがイエス自身に復活をもたらし、無数の人間に魂の救いと永遠の命をもたらす契機となったのである。ここには人の目指すべき究極の幸福モデルがある。すなわち究極の他者である神を中心に生きる幸福である。究極の他者である神を中心に生きるならば、自分はまったく捨去られなければならない。しかし、それは不幸であるかといえば、そうではない。むしろ、自分を捨て去ることによってこそ私たちは魂の救いと永遠の命という最高の幸福を与えられるのだ。イエスはそのことを実際に示してくれた。ミルクをもらうことだけを幸福と考えて生きる赤ん坊とは何と異なる人間像がここにはあることか。

4.まとめ
 そこで現実に戻ろう。そして自分たちがどのような地点にいるかを考えよう。皆さんは明らかに青年と大人の中間地点にいる。友人や恋人に認めてもらいたい一方で、もっと多くの人々、ひいては社会に認めてもらいたいというひそかな願いも抱いている。しかし友人や恋人に認めてもらうことはなかなか難しいことであり、ましてや不特定多数の人や社会に認めてもらうことはなお難しい。その難しさを思うと私たちはついつい幸福追求を後退させたくなってしまう。単に自分中心の狭い満足を幸福と考えてこじんまりと生きたくなってしまう。
 そんなときこそ聖書の他者中心を力強く肯定する言葉が必要なのであり、イエス・キリストという究極の他者のために生き、究極の幸福を手にした実在の人物が必要なのである。神様を信じようと信じまいと、究極の他者を想定して生きることは人間が健全な幸福を追求していく上で不可欠であり、イエス・キリストは人類の幸福の究極モデルとして不可欠なのである。
 ぜひ聖書の言葉に触れ続け、イエス・キリストを見つめ続け、自分の自己中心性と戦い続けていただきたい。