聖 書 集 会

塚本聖書画像 春風学寮では毎週日曜日の午前中を、人類不朽の古典である聖書の学びにあって、若人の人生観を陶冶することを目指しています。 創立者道正安治郎氏は聖書の学びを内村鑑三、塚本虎二両氏に師事し、純粋なキリスト教信仰に基づく寮運営を目指しました。 現在でも全く同じ方針によって春風学寮は日々運営されています。 毎週の聖書集会では小舘美彦寮長を中心に、多彩な個性を持つOB諸氏、寮関係者による聖書の講解がなされます。

「イエスの活動開始」(春風学寮2019.1.13.

聖書:マタイによる福音書

◆ガリラヤで伝道を始める
4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
4:14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
 ◆四人の漁師を弟子にする
4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。
4:21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
4:22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
 ◆おびただしい病人をいやす
4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

序 神様の導き
 今読んでいただいた箇所は、悪魔に誘惑されたすぐあとのイエスの行動を描いた箇所です。つまり悪魔の誘惑に耐え抜いたイエスがいよいよ公の活動を開始する箇所です。ちょうど今、私たちは新たなる一年の活動を始めようとしているところですので、これほど今日の礼拝にふさわしい箇所はないとさえ言えましょう。別に計画したわけではありません。イエス様の特徴がよく現れているところを選りすぐって順番に話をしてきたら自然にそうなったのです。これはきっと神様の導きです。
 では早速テキストを読んでいきましょう。

1.気にかけるべき人々
12〜13節をもう一度読みます。
4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
ここにあるように、イエスは最初の活動場所をガリラヤと呼ばれる地方(ゼブルン・ナフタリとも呼ばれる地方)に定め、その地方のカファルナウムという町に居を構えました。ここはユダヤ人が支配する領域の最北端です。いったいなぜでしょうか。その理由は、15〜16節から理解できます。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていることから明らかなようにガリラヤにはたくさんの異教徒が住んでいました。つまり聖書の伝える神とは異なる神、聖書の言葉で言うならば偶像を崇拝する人々がたくさん住んでいたのです。なぜでしょうか。それはこの地方が肥沃な土地に恵まれていた上に、交通の要所であったために、絶えず外国からの攻撃を受け、しばしば外国の占領下に置かれたからです。この地方を占領した大国をざっと挙げて見ますと、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、マケドニア、エジプト、シリア、そしてローマです。これだけの国から占領されたわけですから、そこにはたくさんの外国人(異邦人)が住むようになったわけです。
 いや、異邦人が住んでいただけではありません。異邦人が住むようになれば、当然異邦人と結婚するユダヤ人が増えてきます。そして異邦人と結婚するならば、当然異邦人の宗教を受け入れなければなりません。こうしてガリラヤではユダヤ人の間にさえ、異教を信仰する者が増えていきました。つまり偶像を崇拝する者が増えていったのです。ですからガリラヤに住むユダヤ人たちは、他の地域に住む純粋なユダヤ人たちから汚れていると言われ、非常に軽蔑されていました。16節では、ガリラヤの住民たちは「暗闇に住む民」だとか「死の影の地に住む者」というようにひどい言葉で呼ばれていますが、それは彼らが、諸外国がもたらした様々な宗教を受け入れてしまい、様々な偶像を崇拝していたからでした。
 イエスが居を構えたカファルナウムという町についても説明しておきましょう。この町は今でこそのどかな田舎町ですが、当時は繁栄の絶頂にある商業地でした。そしてそこの住人たちの大半は、まさしく富の追求を人生の目的と考えており、宗教もその目的を実現する手段と考えていました。だから商売につながると思えば、どんな宗教でも進んで取り入れたのです。遺された遺跡の研究によれば、魔術を使って富をふやそうと考えた人もたくさんいたということです。ですから、カファルナウムの人々はどんなに裕福でも純粋なユダヤ人たちからは汚れていると軽蔑されていました。
 イエスはこのような地方の町を選んで居を構えたのです。だとすれば、イエスがなぜこの地方を最初の活動場所に選んだのかも理解できるような気がします。イエスは何よりもユダヤ人の同胞からもっとも蔑まれている人々、言い換えれば、社会の中心から外れている人々(社会的弱者)に対して愛を届けたかったのではないでしょうか。事実、イエスは生涯にわたってこの姿勢を貫きます。イエスが最も熱心に愛を届けたのは、社会の中心から外れたところにいる人たちに対してでした。例えば、貧乏人、病人、娼婦、徴税請負人、そして異邦人。イエスが社会の中心にいる人たち(社会的強者)に愛を注ぐことは滅多にありませんでした。なぜでしょうか。もちろん愛がそうしたものだからです。イエスの活動は神の御心である愛を全面的にあらわそうとするものでした。そしてその愛は強い者や優れた者を愛するエロスとは異なる無差別の愛(アガペー)でありました。だとすれば、イエスが社会的弱者に優先的に愛を注ごうとしたのはごく当然のことではありませんか。
 そこで今日の一つ目のメッセージをいただきましょう。それは、もし何か公的な活動を行おうとするなら、まずは社会的な弱者(中心から外れたところにいる人たち)に目を向けなさいということです。部活動であれ、サークル活動であれ、就職活動であれ、研究活動であれ、論文作成であれ、アルバイトであれ、おおよそ公的な活動を行うときには社会的な弱者、つまりは中心から外れたところにいる人に目を向け、その人たちに奉仕しようとする、イエスは間違いなく私たちにそう勧めています。これはそうすれば成功するとか、そうすればためになるとかそういうことではありません。それどころか、そんな風に行動したりしたら、他の人たちとは対立することになり、損することになるかもしれません。世の中はたいてい強者に目を向け、強者を中心として動いていくからです。それでも、いやそれだからこそ、イエスは社会的弱者に目を向けろと勧めます。そうすることが愛(アガペー)であり、神様のみ心だからです。このことをはっきりと言い表したイエスのすばらしい言葉を紹介しましょう。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」実に素晴らしい言葉ではありませんか。イエスはここで「偉くなる」とか「一番上になる」とかいう言葉を使っていますが、それは世間で出世するという意味ではありません。神様から認められるということです。神様から認められたい者は、民を支配しようとするのではなく、民に「仕える者になり、・・・僕になりなさい」と勧めているのです。イエスが生涯を通してそうであったように。

2.目指すべき人格
 次に注目したいのは、17節の「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉です、と言いたいところですが、この言葉はあまりに重要な言葉で、それについて語っているとゆうに一時間かかってしまいます。ですからここについては別の機会に譲るとして、今回は18〜20節に注目しましょう。
4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。
ここに書かれていることは実に驚くべきことです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とイエスが呼びかけただけで、「二人はすぐに網を捨てて従った」のです。つまりペテロとアンデレは漁師の仕事も家族も瞬時に投げ出して、イエスについて行ったと言うのです(この後に書かれているヤコブとヨハネもそうです)。いったいなぜ彼らはそのように重大な決断を瞬時にできたのでしょうか。
 これについて教えてくれるのは、マタイによる福音書13章のたとえ話です。引用してみましょう。
13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
「宝」と「高価な真珠」はいずれも天の国の比喩です。つまりこれらのたとえ話はいずれも、もし天の国を見つけたなら、人はすべてを投げ捨ててでもそこに入ろうとするということを伝えようとするものです。このたとえ話を当てはめてみるならば、なぜペテロとアンデレが瞬時に全てを捨ててイエスに従ったのか理解できるでしょう。彼らはイエスの内に天の国を見たのです。イエスと話し、イエスとわずかな時間を共に過ごしただけで、天の国にいるような気分(平安)を体験した。だからこそ、全てを捨ててイエスに従ったのです。
 そのように言われても、ぴんと来ないと思いますので身近な具体例を思い浮かべてみましょう。共に過ごすだけで天の国にいるような平安を体験させてくれる身近な人とはいったいどのような人でしょうか。真っ先に思い浮かべることができるのは両親です。私たちは両親が共にいてくれるというだけでひどく安心します。大人になるとこの感覚は薄れていきますが、幼いころには、母親と共にいるだけで満たされた気分になったはずです。なぜでしょうか。母親の絶対的な愛を感じたからです。どんなことがあっても母親は自分を守ってくれる、自分の見方になってくれるとそう感じたからこそ、母親が共にいてくれるだけで、満たされた気分になったのです。
 ペテロとアンデレはそれと同じような体験をしたに違いありません。イエスと話し、イエスと過ごすうちに、かつて母親に見出したような絶対的な愛を感じた、いやそれ以上の愛を感じた。そのようにして天の国にいるかのような平安を体験した。だからこそ、何もかも捨ててイエスに従ったのではないでしょうか。
 だとすれば、ここから二つ目のメッセージをいただくことができます。それは、人に安心を与えられるような人格を目指しなさいということです。愛の特徴の一つは、周囲の人たちに安心を与えることです。もし周囲の人に不安を掻き立てるようであれば、そこには愛がないと言えましょう。イエスは、言葉を少し交わしただけで多くの人をひきつけました。それはイエスが周囲の人に心からの安心(平安=ヘブライ語でシャローム=ギリシア語でエイレーネー)を与えることができたからでした。もちろん私たちにイエスほどの平安を与えることはできないでしょう。しかし、少なくとも人に不安を与えない人格にはなることができると思います。
 では具体的にはどうすれば、人に不安を与えないような人格(あるいは安心を与えるような人格)になることができるのでしょうか。これについて考えるのは私たちに残された宿題と言えましょう。

3.現代への呼びかけ
 最後に、「おびただしい病人をいやす」という見出しがつけられているシーンをもう一度読んでみましょう。
4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
ここにありますように、イエスは「民衆のありとあらゆる病気」を癒しました。その結果イエスのうわさはシリア中に広まり、シリア中の人々がイエスのもとにやってきました。そして、「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」わけです。
 ここに書かれていることがどの程度事実であったのかもはや確認することはできません。しかし、これに類することが起こったことは紛れもない事実です。イエスは確かに何らかの方法でたくさんの病人たちを癒し、支持者を短期間で急増させていきました。そうであればこそ、ユダヤ人の指導者たちは脅威に感じ、イエスを十字架にかけざるを得なくなったのでした。
 では、イエスはこのような行動を通じて私たちに何を訴えているのでしょうか。自分があらゆる病気を治すことができる神の子であると訴えようとしているのでしょうか。それも一つだと思います。しかしここにはもっと重要なメッセージがあると思います。それは、一切の差別をせずに、どんな人でも受け入れ、どんな人にも奉仕することの重要性です。すでに説明しましたとおり、ガリラヤという地域には異教徒がたくさん住み、異教徒と結婚したユダヤ人もたくさん住んでいました。宗教を金儲けの手段と考えて魔術を駆使する者たちさえいました。だから彼らは純粋なユダヤ人から汚れているとさげすまれていたわけですが、イエスはそのような人たちを一切蔑みませんでした。蔑まないどころかすすんで彼らを受け入れ、彼らに奉仕したのです。この開かれた態度の重要さをイエスは伝えようとしているのではないでしょうか。そして私たちに向かってこう呼びかけているのではないでしょうか。広い心を持ってどんな人でも受け入れなさい、異なる価値観を持っている人や間違った考えを持っている人たちさえも受け入れなさい、そして彼らに対しても態度を変えることなく奉仕しなさいと。
 現代ほどこの呼びかけに応答することが重要な時代はありません。なぜなら現代は、たくさんの難民が生み出され、その難民たちを受け入れなければならない時代だからです。そしてたくさんの外国人労働者が流入し、彼らを受け入れなければならない時代だからです。それにつれて排外主義を唱える極右政党が勢力を伸ばし、ヘイト・スピーチが横行する時代だからです。外国人を受け入れるということは非常に難しいことです。そのようなことを実行すれば、たいていの場合は損をします。だから政府も、世間の人々も、なかなか外国人を受け入れたがらない。しかしイエスは、損得勘定など考えません。愛に従って行動する、ただそれだけです。そして私たちにもそのように生きるように呼びかけているのです。難民や外国人労働者を受け入れ、彼らに奉仕しなさいと。それが愛の道なのだと。
 ところで外国人のような異なる価値観をもつ人々を受け入れるのは非常に難しいことです。いったいどうすれば、私たちは異なる価値観をもつ人々を受け入れていくことができるのでしょうか。これまたイエス様が私たちに残した宿題であり、私たち一人一人が考えていくべきことなのですが、一つだけ効果的な方法を紹介しましょう。それは、ドイツのフッサールという哲学者が考え出した現象学的還元という方法です。なんだか小難しい言葉ですが、その内容はいたって簡単です。客観的真理なんて人間には把握できないという前提に立って、自分が正しいと思っていること(信念)を全て括弧に入れてしまう。それが現象学的還元です。人はそれぞれに自分の考え方(信念)を持っており、その考え方が正しいと思っています。だからこそ別の考え方を持っている人と対立してしまう。これを信念対立と言います。この信念対立がある限り人は絶対に異なる考え方を持つ人を受け入れることはできません。ですからこの信念対立の大元である信念(自分の考え方)を全て括弧に入れて、それ抜きで物事を考えてみよう、そうすれば異なる考え方を持つ人々を受け入れる道が見えてくるはずだ、とこれが現象学的還元の構想です。この現象学的還元を利用するなら、ほとんどの人を受け入れることができ、この世の中の対立はほとんどなくなってしまうはずなのです。ところが、人間は自分の信念を括弧に入れることがなかなかできない。どうしても自分の考え方こそが正しいと思ってしまう。これこそ人間の罪の現われでありましょう。しかし諦めてはいけません。中にはこの現象学的還元を取り入れて、絶えず異なる考え方の人を受け入れていく柔軟性を身につける人もいます。皆さんにはぜひそのような人になって欲しいと思います。
 というわけで今日はイエスの活動開始のシーンを読み、そこから三つのメッセージをいただきました。一つ目は「社会的弱者に寄り添え」、二つ目は「人に安心を与える人格を養え」、三つ目は「異なる考えの人々も受け入れよ」です。いずれも愛の重要な現われですので、苦労をいとわず実践してみて下さい。

4.ドイツの偉大なる政治家
 最後に今日のメッセージに関連する重要な演説を紹介したいと思います。それは、ドイツの元大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカ―の行った有名な「荒れ野の40年」という演説です。この演説は1985年5月8日のドイツの終戦記念日に行われたもので、その内容は先の第二次世界大戦を振り返り、ドイツがいかに残虐な罪を犯したかを確認し、その罪の償いをいかに行ってきたか、そしてこれからもどのようにして罪を償い続けていかなければならないかを述べたものです。これは本当に感動的な演説で、出版されたものを読みながら私は何度か涙を流してしまいました。そしていくらかのはした金を払って戦争の罪を償った気分になっている日本の政治家たちを思い、あるいは罪の意識すら感じていない日本の政治家たちを思い、何度もため息をつかされました。同じ政治家でありながら、なぜこれほどまでに違うのかと。ことはお金を払ったかどうかという問題ではないのです。本当に悪かったと反省しているかどうかなのです。このことが日本の政治家たちには全然分かっていない。ヴァイツゼッカーはこの点をはっきり自覚しています。
 その感動的な演説の中で、今回のテーマに関連する部分を紹介しましょう。ドイツは先の戦争においてたくさんの外国人を故郷から連れ出し別の地に移住させました。そしてドイツ人自身も故郷を離れ別の地で暮すことを余儀なくされました。こうして彼らは、故郷を離れて暮すことがどんなにつらいことかを自ら体験しました。だからこそ彼は言うのです。「今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人々に対し、門戸を閉ざすことはない」と。「いかなる思想であれ、いかなる批判であれ、たとえそれがわれわれ自身に厳しい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護する」と(まさに現象学的還元です)。そして若者たちにこう呼びかけて演説を締めくくります。「ヒトラーはいつも偏見と敵意と憎悪を掻き立てることに腐心しておりました。しかし若い人たちにはお願いしたい。どうか、他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることがないようにしていただきたい。ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オルターナティブをとなえる人々や保守主義者、黒人や白人、これらの人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることがないようにしていただきたい。互に敵対するのではなく、互に手を取り合って生きていくことを学んでいただきたい。」(岩波ブックレットNO.55)
 これは、ガリラヤで活動を開始したイエスと全く同じ立場ではありませんか。ドイツは敗戦というつらい体験を通して、ようやくイエスのメッセージに辿り着いたのです。だからこそ彼らは今なおできるだけ多くの難民を受け入れようとしているのです。今日のイエスのメッセージに応答することは、戦争の悲惨を体験した全ての国の義務であるように思われます。 

 

クリスマス前夜講話「クリスマスをなぜ祝うか」(春風学寮)2018.12.9.

「天使のパン」トマス・アクィナス作詞、セザール・フランク作曲

Panis angelicus
天使のパンが
fit panis hominum;
人のパンとなり、
dat panis coelicus figuris terminum:
天上のパンが最終的な形となったのだ
O res mirabilis!
ああ、なんと驚くべきことだろう
manducat Dominum
神を味わうことができるとは、
pauper, pauper servus et humilis.
この貧しい、貧しい、いやしい僕が。

序.クリスマスをなぜ祝うのか
 クリスマスはおめでたいということで祝うのですが、なぜおめでたいのでしょうか。それはもちろんイエス・キリストがお生まれになったからおめでたいのだとだれもが知っているわけですが、イエス様がお生まれになるといったいなぜおめでたいのでしょうか。こう問われるともう分からないのではないでしょうか。
 その理由は言葉では簡単に説明することができます。すなわち、「イエス様は私たち人間を罪から救ってくださる、私たち人間から罪を取り除いてくださる。」だからこそイエス様は最高に素晴らしい方、神様の子なのであり、そのような方が誕生した日だからこそクリスマスはおめでたいのです。世界中の人々が喜んでクリスマスを祝うわけです。
 ところで、罪から救ってくださるからと言って私たちはそんなにうれしいでしょうか。罪を取り除いてくださるからってそんなに感激するでしょうか。正直たいしてうれしくもないし、さして感激もしないでしょう。ですから日本人である私たちには実のところ、クリスマスは何がおめでたいのか、なんでイエス様の誕生を祝う必要があるのか、分からないのです。それはお正月や夏祭りのように何となくおめでたい気分にさせてくれる、きっかけに過ぎません。
 いったい、なぜ私たちはイエス様が罪から救ってくださると言われても何の感動も覚えないのでしょうか。その理由は日本人には罪とは何かが分からないからです。もっと言えば、日本人には罪の恐ろしさが分からないからです。さらに言えば日本人には自分が罪の中にいることが分からないからです。だからイエス様が罪から救ってくださることの素晴らしさに何の感動も起らない。ここに問題の急所があります。もし罪とは何かを知り、少しでも罪の恐ろしさが少しでも実感できたら、そして自分もその恐ろしい罪の中にいるということが実感できたら、そしてイエス様がその罪から救い出してくださるということが分かれば、イエス様の素晴らしさも分かるはずです。そうなればイエス様の誕生を心から祝う気持ちになれるはずです。クリスマスの本当の喜びを味わうこともできるようになるはずです。というわけで、問題の急所、罪とは何か、罪の恐ろしさとはどんなものかをまずは見ていきましょう。

1.罪とは何か
 では改めて問いましょう。罪とは何でしょうか。日本人にとって罪とは他人に迷惑をかけることです。日本人の親全員が必ずと言っていいほど子供に教える唯一と言ってもよいほどのルール、それは「他人に迷惑をかけるな」でしょう。日本人にとって罪とはまさしくこの「他人に迷惑をかける」ことなのです。具体的に言えば他人に暴力をふるったり、他人の者を盗んだり、人を殺したりすることが罪なのです。言い換えれば、対人関係を乱すのが日本人の考える罪なのです。
 しかし、聖書の教える罪とはそういうものではありません。もちろん対人関係を乱すことも罪の一つですが、聖書の言う罪はもっと根源的な人間の心の性質です。それでは聖書の言う罪とは何かと言いますと、それは、神様に背いてしまう性質、神様から離れてしまう性質、いやもっと言えば、神様を信じなくなってしまう性質です。このように説明されるならば、罪とは何か少しは理解できたと思います。そして自分もまた罪の中にいるということが少しは理解できたのではないでしょうか。はたして私たちは神様を信じて生きているでしょうか。そんな人は滅多にいないのではないでしょうか。世の中にはキリスト教徒をはじめ、いろいろな宗教家、信仰者がいますが、その人たちですら心の底で本当に神様を信じて生きているかどうかとなると極めて怪しいものです。宗教界ですらそうなのですから、ましてや宗教とは無縁に生きている人たちが神様のことを本気で信じているはずがない。このように考えるなら、私たちもまた罪の中にいるということがわかると思います。

2.罪の恐ろしさ、神を信じないことの恐ろしさ
 これで罪とは何か理解できたし、私たちが皆罪の中にいることも納得できたと思います。しかし罪の恐ろしさはまだ理解できていないと思います。いったい罪とはそれほどに恐ろしいものなのでしょうか。「神様に背く」・「神様から離れてしまう」・「神様を信じなくなる」とはそんなに恐ろしいことなのでしょうか。この恐ろしさが理解できないならば、罪から救ってくださるイエス様の素晴らしさは全然わからないでしょう。
 それでは罪、すなわち「神様を信じなくなる」ことはなぜ恐ろしいのか。その根本的理由は神様を信じなくなるならば、人間は真の命を失ってしまうからです。神様は万物をお創りになった命の根源です。ですから神様を信じなくなるなら、命の根源である神様から命をいただけなくなってしまう。その結果死へと向かっていくことになります。以前にも学びましたように、罪の報いは死なのです。しかもここで重要なことは、神様が与えて下さる命は、ただの肉体的な命ではない、霊的な命でもあるということです。神様を信じなくなるとこの霊的な命を神様から受け取れなくなってしまう。その結果霊的な死へと向かうことになってしまう。だから、「神様を信じなくなる」ことは恐ろしいのです。
 しかし、霊的な死と言われても、これまたぴんと来ないと思います。そこでこの霊的な死というものをもう少し掘り下げてみたいと思います。神様を信じなくなることによって生じる霊的な死とは具体的にはいったいどういうことなのでしょうか。

3.霊的な死の諸相
 神様を信じなくなると先ず起こることは何か。それは神様の掟を本気で守ろうとしなくなってしまうということです。神様の掟や命令の中心は、神様と隣人を愛しなさいですから、言い換えればそれは本気で神様と隣人を愛そうとしなくなるということを意味します。つまり神様を信じなくなると先ず起こることは、私たちの心から愛が失われてしまうということなのです。こう言うと、神様を信じなくたって愛することはできると反論する人がいます。確かに愛することはできるかもしれません。しかし愛することを重視して生きるようになるでしょうか。愛することを人生の中心において生きるようになるでしょうか。ならないでしょう。人は神様を信じてこそ、神様の掟を重視し、その中心である愛を人生の中心に据えて生きることができるのです。神様を信じていないなら、愛することなんて二の次三の次、人によっては生涯愛とは無関係ということとなってしまう。ところでこのように愛を後回しにして生きるならば、いったいどういうことが起こるでしょうか。すでに学びましたように、愛とはただの愛情のことではありません。それは敵をも含む全ての人を分け隔てなく大切にする無私の愛(アガペー)のことです。この愛が後回しにされるならば、人は自分とは関係のない人には無関心になってしまいます。それから自分とは異なる考えや価値観を持つ人をひたすら裁くようになってしまいます。そして最後には自分と利害が対立する人に対しては怒りと憎しみしか湧いてこなくなってしまうということになります。こうした状態こそ霊的な死の現れの一つです。これらのことは、神様を信じなくなった現代のあちこちで実際に起こっていることではありませんか。
 神様を信じなくなると起こることの第二は平安と自由の喪失です。もし神様を信じるならば、私たちは根源的な平安を持つことができます。その結果恐れや不安から解放され、自由に生きていくことができるようになります。それはそうでしょう。神様を信じるということは神様の愛を信じるということです。もし神様の愛を信じられるなら、私たちは心に絶対の安心を持つことができる。そうなれば、何ものも恐れずに済むではありませんか。大学の教授だって、会社の上司だって、首相や大統領だって、暴力団や軍隊だって、恐れずに済むではありませんか。失敗や挫折だって恐れずに済むではありませんか。極端な話が死ですらも恐れずに済むではありませんか。ところが神様を信じないならこれと正反対の状態が生じます。神様が愛してくださるという根源的平安が失われ、それに代わって恐れと不安が心に生じてくるのです。すると全てが恐ろしくなってくる。教授や上司はおろか、同僚や友人や結婚相手にさえ恐れと不安が生じてくる。失敗や挫折がひどく恐ろしく思えてくる。そして死が絶対的な恐怖をもたらすようになってくる。するとどうなるか。身を守るために、何か強いものに頼らざるを得なくなってくる。それはお金や知識であるかも知れず、それらをもたらしてくれる有力な人物や組織であるかもしれません。いずれにせよ、そうした強いものに頼らずにいられなくなってきます。そうした強いものに頼るようになるならば、そうしものに服従して生きざるを得ません。自分を守ってくれるものに逆らうわけにはいかないからです。そのとき人は自由を失ってしまうのです。これが霊的な死のもう一つの現れです。この現われについて最もわかりやすく教えてくれるのはテレビドラマ『ドクターX(大門未知子)』に出てくる医師たちです。この医師たちは、人事権を握っている教授や院長の言うことであれば、どんなに間違っていることでも「御意」(ぎょい)と言って従います。患者の命を危険に晒すようなことにまで従ってしまうのです。これこそ霊的な死でしょう。私はこんなことはドラマの中だけのことだろうと思っていましたが、知り合いの医師の話を聞いて見ますと、結構このとおりのことが行われているということが明らかになりました。最近多くの医科大学で女子の受験生だけに高い基準を当てはめ、わざと不合格にするという不正行為が学長などのトップの主導で行われていることが明らかになりましたが、このことを知れば、『ドクターX』の内容は誇張こそあれ、うそではないことがわかると思います。しかし、こうしたことが行われているのは医学会だけではありません。いろいろな組織と仕事をしてみますと、ほとんどあらゆる組織で多かれ少なかれ同様のことが行われていることを知ることができます。最近では、日大のアメフト部の学生が監督の命令に従って不正なタックルをした事実が明らかにされましたが、このようなことは氷山の一角に過ぎない。おおよそ組織というものにおいては、人は人事権を握っている人に従わざるを得ない、たとえその人が間違った命令をくだそうとも、その人に従わずにはいられないのです。これこそ恐るべき霊的な死です。
 最後にもう一つ、神様を信じなくなると起こる現象を紹介しましょう。それは、命を大切にする気持ち(命への敬意)が失われてしまうということです。はたして私たちには本当に命を大切に思う気持ちがあるのでしょうか。全ての命は神様からいただいた神様の命の一部なのだと考えれば、どんなに小さな命でも大切にしなければならないという思いが心に湧いてきます。どんなに嫌いな人でも、どんなに愚かな人でも、どんなに劣った人でも、神様の命を与えられているのだと考えるならば、その人を尊重する気持ちが生まれてきます。あるいは、自分は何のとりえもないくだらない人間だと思うようなことがあっても、この自分の命も神様の命の一部なのだと思うならば、自分の命を大切にしなければならないと思うでしょう。しかし神様を信じないならば、全ての命はただの物理的な生物現象としか思えなくなってきます。すると命への敬意なんて一気に失われてしまいます。小さな命なんてどうでもよくなってくる。嫌いな人のことなんてどうでもよくなる。愚かな人なんてどうだってよくなってくる。情けない自分の命だって大して大切に思えなくなってくる。殺人や自殺が増えてくる。これこそ神様を信じなくなることによって生じる霊的な死の第三の現われです。この具体例としてどうしても触れておきたいのは、老人問題です。老人問題こそ神様を信じなくなった現代人の霊的な死が典型的に表れているところだと思います。いったいぜんたい現代の私たちは老人に対して心から敬意を抱いているでしょうか。もちろん子としての義務感から年老いた親のことを大切にすることはよくあります。しかし、私たちに見ず知らずの老人を大切にしようという気持ちがあるでしょうか。そのような気持ちは更々ないのではないでしょうか。いや、それどころか、私たちは見ず知らずの老人たちのことを役立たずの厄介者と思ってはいないでしょうか。老人は役たたずの厄介者だから、もういらないと思っていないでしょうか。役に立たない者はもういらない、驚くべきことに、現代では実に多くの人がそう思っている。そして悲しいことに老人自身ですら自分は役立たずの厄介者だから早く亡くなった方がみんなのためだと思っているのです。だから日本の老人ホームに行くと、異様に暗い。本当にみんなが自分には何の価値もないと絶望してしまっている。日本の老人ホームへ行けば、神様を信じないことによって生じる霊的な死というものがどういうものであるかよく理解することができます。(+相模原の障害者殺人事件)
 以上三つの角度から、神様を信じなくなること(罪)によって生じる霊的な死を見つめてみました。すなわち、愛の喪失、平安と自由の喪失、そして命への敬意の喪失です。神様を信じなくなることによって生じる霊的な死の現われは他にもたくさんあります。しかし、以上の三つの現われについて知るならば、罪(神様を信じないこと)がいかに恐ろしいことであるか、そしてその恐ろしい力がいかに私たち現代人の中に沁み込んでいるか、十分おわかりいただけたと思います。そしてこのような恐ろしい罪から私たちを救い出してくださるのが、イエス・キリストなのです。だとすれば、イエス・キリストは本当に素晴らしい方であり、その誕生は心から祝うべきことであると思わないでしょうか。

4.イエス・キリストは私たちをどのように罪から救い出すか
 でもこれでもまだきっとイエス様の素晴らしさは十分には分かっていないはずです。なぜならイエス様がこのような罪からどのように私たちを救いだしてくださるのか、どのように神様を信じる心を蘇らせてくれるのか、まだ説明していないからです。いったいキリストはこのような恐るべき罪(神を信じない心)から、私たちをどのようにして救い出してくださるのでしょうか。この点が理解でき、この点を実感できたときにのみ、私たちは心よりイエス様の素晴らしさを知ることができ、クリスマスを本当に祝うことができるようになります。
 ではイエス・キリストは私たちをどのようにして罪から救ってくださるのでしょうか。実はイエス様が神様を信じる心を蘇らせてさせてくれる方法はたくさんあります。例えば奇跡の癒し。イエス様が行った奇跡的な癒しの数々はどうやら否定しようもない歴史的事実であるようです。そしてそれらは全てイエス様の神様に対する完全な信仰のゆえに可能となったことでした。イエス様は言っています。
17:20 イエスは言われた。「・・・はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイによる福音書)
 これは明らかに誇張表現ですが、実際イエス様は自身の完全な信仰によって数々の奇跡を引き起こしました。そしてその弟子たちもまた同様に深い信仰によって数々の奇跡を引き起こしました。これらの記事を読むならば、私たちの心にはいくらかなりとも神様のことを信じる気持ちが湧き起こってくるのではないでしょうか。
 あるいは教え。イエス様はその卓越した教えによっても神様を信じる心をよみがえらせてくれます。イエス様の教えの数々はとても人間が考え出したものとは思われません。なぜならそこには人間特有の自分を守ろうとする保身的要素が全然ないからです。例えば「敵を愛しなさい」とか、「何を着ようか食べようか思い悩むな」とか、「全てのことを感謝し、喜びなさい」とか・・・。これらの教えには自分を守ろうとする保身的要素が一切ない、そこには100パーセント純粋な愛しかない。孔子や仏陀やソクラテスだって、これほど純粋な愛の教えは語れませんでした。このような教えに触れるだけでも私たちはそこに神様の息吹を感じることができます。ところがさらにイエス様はそのような教えを語っただけでなく、生涯にわたって実践しました。イエス様は本当に敵を愛し、本当に衣食住のことで思い悩まず、本当に全てのことに感謝し、喜んで生きたのです。このような彼の生きざまを知れば、私たちはそこに神様の姿を見ずにいられないではありませんか。
 しかし、最も神様を信じる心を蘇らせてくれるのは、何といっても十字架上のイエス様です。十字架にかかったみじめ極まりないぼろぼろのイエス・キリスト、これこそが私たちを罪から救う(私たちに神様を信じる心を蘇らせてくれる)最大の力なのです。と、こう言っても何ら説得力はないでしょう。ためしに今十字架上の惨めなイエス様を思い浮かべてみてください。はっきり言って単に幻滅するだけでしょう。罪から救う、神様を信じる心を蘇らせるというくらいだからさぞかしすごい力を発揮するのだろうと思いきや、なんの力も発揮しない。十字架上のイエス様は私たちの救い主に対する期待を見事に裏切ってくれます。罪を滅ぼすはずのお方が罪に完全に滅ぼされてしまっているように見える。これははっきり言って幻滅です。話は飛んで恐縮ですが、ひところはやった「北斗の拳」という漫画の姉妹編に「蒼天の拳」というのがあります。この漫画では北斗神拳の達人である主人公の恋人の女性がいつもイエス様の十字架に祈っています。そのかたわらに立って主人公は言うのです。「こんなよわっちい神様が何を助けてくれるのかねえ」と。この言葉はいい言葉です。なぜならこの言葉はイエス様の十字架を思い浮かべたときに私たちが一般に感じる素直な気持ち(幻滅)をよく表しているからです。
 しかしこんな風に幻滅を感じてしまうのは自分が強いときだけです。この北斗神拳の達人も強いからこんな言葉を言えるのです。もし自分が弱い時に十字架のイエス様を思い浮かべたなら、事情は全然違ってきます。どういうわけかこのボロボロの弱っちいイエス様にほっとする気持ちを感じるのです。そして不思議なことに、自分の落ち込む度合いが深ければ深いほど、十字架上のイエス様に私たちは安らぎを見いだすようになります。いったいなぜでしょうか。もしイエス様が勝利の栄光に満ちた、力強く、威厳のある王として終わっていたなら、傷ついた私たちの心には何の安らぎももたらさないでしょう。そのようなイエス様と自分との間に断絶が生じるからです。ところが十字架上でボロボロになったイエス様と傷ついた私たちの間に断絶は生じません。そこには紛れもない親和性がある。このために、そのようなイエス様を見つめていると、何だかイエス様が私たちの心に寄り添っているかのように思えてくる。だからこそ不思議な癒しを感じるのです。これこそ、イエス様を通して神様の愛と私たちがふれあう瞬間です。この触れ合いを体験するならば、その人はもう神様を信じないではいられなくなるのではないでしょうか。
 イエス様の十字架は病気を治してくれるわけではありません。幸運を導いてくれるわけでもありません。事業を成功させたり、夢を実現させたり、恋を成就させたり、そういう結果を導いてくれるわけではありません。イエス様の十字架に向き合っても現実は相変わらず現実のまま、苦しいままです。つまり十字架にはご利益なんて何もないのです。しかし十字架を通して私たちの心は神様の愛に触れることができます。それと共に神様を信じられるようになるのです。このことによって私たちは先ほどお話した恐ろしい罪の表れ(霊的な死)から解放されるのです。すなわち、愛の喪失と平安と自由の喪失と命への敬意の喪失から解放されるようになるのです。これ以上に素晴らしいことと言って他にあるでしょうか。下手なご利益よりも何十倍何百倍も素晴らしいことではありませんか。
 まとめれば、イエス様は私たちの心に神様を信じる心を与えてくれる、そうすることで私たちの心に愛と平安と自由と、そして命への敬意を与えてくれる。つまりイエス様は私たちの心に真の命を与えてくれる。だからこそイエス様は素晴らしい方なのです。だからこそイエス様が誕生したクリスマスは盛大に祝われるべきなのです。このことを覚えて、喜びを持ってクリスマスを祝って欲しいと思います。
 最後に冒頭に読んだ「天使のパン」という詩について解説しましょう。この詩の要旨は要するに、「天使だけが味わうことのできるパンが今や人間も味わうことができるパンになった、なんと驚くべきことか」というそれだけの内容です。この詩はいったい何を意味しているのでしょうか。今日の話を聞けばもうわかると思います。それは、天使だけが味わうことができる神様が今やイエス様を通して人間も味わうことができるようになったということを意味しているのです。「O res mirabilis!ああ、なんと驚くべきことだろうmanducat Dominum神を味わうことができるとは」というこの一節こそはクリスマスを祝う意味を最も簡潔に表現した言葉です。だからこそこの曲は世界中の教会でクリスマスに歌われるのです。最後にこの曲を聞いて終わるとしましょう。

 

「信仰の力」(春風学寮) 2018.10.7

聖書:エレミヤ書
31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

序 復習
 前回は、罪について話した。神の御心(本質)は無私の愛(アガペー)であり、当然人間にも無私の愛を実践するように命じる。神が人間に与えた律法はこの愛を実践するための具体的な方法であった。しかし人間はその命令に従うことができない。無私の愛を実践することができない。自分の外側にある存在(神や自分とは無関係な人・自分にとって魅力的でない人、自分に不利益をもたらす隣人、正しくないと思われる人)を愛することができない。これが罪であった。このような罪観からすれば、人は全員罪人であると言う結論が導き出される。だからパウロは、「人は皆罪人である」(ローマの信徒への手紙3:9)と断言したのであった。

1.罪の報い
 こう言われると、「別に罪人だっていいさ」と思ってしまうであろう。「別に無私の愛なんて実践しなくてもいいさ」と思ってしまうであろう。しかし、そのように結論を急ぐ前に、罪の性質についてもう少し理解を深めておきたい。
 パウロは、ローマの信徒への手紙でこう言っている。
 6:23 が支払う報酬は死です。
 この言葉に典型的に表れているように、聖書は「罪の報いは死である」といたるところで語っている。他方で聖書は、神の命令に従うことの報い、すなわち無私の愛を実践することの報いは命であるということもいたるところで語っている。つまり聖書においては、罪=死、無私の愛=命という考えが当然の真理として語られているのだ。私たち人間の寿命はせいぜい長くて120年である。120年もすれば誰しも必ず死ななければならない。一体なぜ人間は死ななければならないのか。肉体は時と共に衰えるものだから人が死ぬのは当たり前だと日本人の多くは諦めようとする(実際には諦められないで、苦労する)。しかし聖書はそうは考えない。人間は罪を宿しているからこそ死ぬと考えるのだ。そして罪から解放されるなら、死からも解放されると考えるのだ。
 それだけではない。聖書はこの世の諸悪の根源を罪であると考えている。ガラテヤの信徒への手紙でパウロはこう語っている。
5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
 「肉」とは罪のことである。罪が心に宿っていると以上のような様々な悪いことが起こってくると聖書は語っている。「姦淫、わいせつ、好色、泥酔、酒宴」は過度の欲望とまとめられる。「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み」は人間関係の悪化とまとめられる。「偶像崇拝、魔術」は間違った目標とまとめられる。つまり、罪にとらえられて、無私の愛の命令を実行できないでいると、人は自然に過度の欲望を求めるようになり、人間関係を悪化させていくことになり、間違ったものを目指すようになるとパウロは言うのだ。実にその通りだと思わないだろうか。「罪の報いは死である」という主張は受け入れられないかもしれないが、罪が諸悪の根源であるという主張は受け入れられると思わないだろうか。私たち人間には無私の愛がない。だからこそ過度に自分の欲望を追求したり、人間関係を悪化させたり、間違った目標を目指して人に害を及ぼしたりするのではないだろうか。まさしく無私の愛がないこと(≒自己中心性)こそ諸悪の根源だと思わないだろうか。
 だとすれば、「別に罪人だっていいさ」とは言えないはずだ。「別に無私の愛なんて実践しなくていいさ」とは言えないはずだ。何としても罪から解放され、無私の愛を実践できるようにならなければならないと思わずにいられないはずなのだ。しかし、私たちには無私の愛など存在しない。一体どうすればいいのだろうか。

2.人間は救われるべき存在である
 そこで聖書は言うのである。人間は救われるべき存在であると。人間は無私の愛を持っていないのだから、いくら努力しても諸悪を取り除くことはできないし、死から解放されることもできない。結局人間は何らかの外的力(神)によって助けてもらわないならば、諸悪からも死からも解放されない存在であると聖書は言うのである。ローマの信徒への手紙でパウロはこう嘆いている。
7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。・・・
7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
 わかりやすく翻訳すれば、パウロはこう言っている。「自分は律法を善いものと思い、それにしたがって善をなそうと思っている(心の法則)のだが、どうしてもそれを実行することができない。自分は罪の法則(無私の愛に背く性質)のとりこであって、死に定められているからだ。自分ではどうがんばってもそこから抜け出せない。だから、誰かに救ってもらいたい」と。これが聖書の人間観である。聖書によれば、人間は自力では罪の支配を抜け出せないので、だれか(神)に救ってもらわなければならない存在なのである。
 さて、私たちはこの主張を否定することができるであろうか。人間は知恵を凝らして、諸悪や死と戦う。科学を駆使し、制度を整えることによって諸悪をなくし、寿命をなんとか延ばして、死を回避しようとする。それらの努力は決して否定されるべきものではない。尊重されるべきものである。しかし、それらの努力はなんとなく空しいように思えないだろうか。科学や制度を駆使することによって果たして諸悪はなくなっていくのであろうか。科学や制度を駆使して寿命を延ばして、死を回避することができるのであろうか。私には焼け石に水のようにしか思われない。そのように考えると、私は聖書の主張に同意せざるを得なくなるのである。「人間は救われるべき存在である」と。

3.新しい契約
 そのことを大前提として聖書はこう主張する。「幸いなことに、神は救いの手を差し伸べてくださっている」と。冒頭に読んでいただいた部分は、神が預言者エレミヤを通じてそのような救いを約束した言葉である。重要な箇所なので少し詳しく読み込もう。
31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
 ここで神は、かつての旧い契約(=約束)に代わって、新しい契約を結ぶ日が来ると言っている。旧い契約とは、旧約聖書で何度も述べられている「律法に従いなさい。そうすればあなたがたは命と幸いを得る」(出エジプト記9〜24章、申命記5〜6章)という契約である。この契約をイスラエルの民は守ることができなかった(この旧い契約を記し、それをイスラエルの民が守れなかった歴史を記したのが旧約聖書である)。つまり人間には無私の愛が実行できないことが明らかになった。だから神はイスラエルの民と新しい契約を結ぶことにしたというわけだ。では、新しい契約とはどういう契約か。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
33節の「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」これが新しい契約である。「わたしの律法を彼らの心に記す」とはいったいどういうことか。それは、イスラエルの民の心に無私の愛(アガペー)を刻み込むということである。ひいては、人間の心に無私の愛を刻み込むということである。これが新しい契約なのである。これは、明らかに神が人間を罪から救い出す約束をした、神が人間に救いの手を差し伸べたということである。

4.新しい契約の成就
 では、神はどのようにしてこの契約を成就したのであろうか。どのようにして人間の心に無私の愛(アガペー)を刻み込んだのであろうか。このプロセスを記録したのが新約聖書である。この書は、神が新しい契約を成就した事実を記した文書であるために新約聖書と呼ばれる。では新約聖書にはどう書いてあるか。ヨハネによる福音書にはこうある。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
 要するに、神は世(人間)を罪から救い出し、死から救い出すために独り子イエスをこの世に遣わされたということこの箇所は言っている。しかし、これでもまだよく分かるまい。独り子イエスがこの世に遣わされるといったいどうして人間が罪から救われるのだろうか。ヨハネによる福音書にはさらに次のような文がある。
14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。・・・
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
 ここは新約聖書の心臓部と言ってよいほど重要な個所であるから、丁寧に読んでいこう。
14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
 とは、要するにイエスが神の子(救い主)であることを信じなさいということである。それが信じられないと言うなら、イエスが行った数々の奇跡を思い出すことによってそれを信じなさいとイエスは述べている。
それではそのように信じると何が起こるのか。続く12節に書いてある。
14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。
 「わたしが行う業」とは、イエスが行った数々の無私の愛の行為である。つまり、イエスを神の子であると信じるなら、人間はイエスのような無私の愛が実践できるようになる、いや、イエス以上に大きな無私の愛を行えるようになる、とイエスは言っている。ではいったいなぜイエスを信じる者にはそのような愛が実践できるようになるのか。16〜17節に書いてある。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
 「弁護者」(パラクレートス)とか「真理の霊」とか言われている者は、イエスの霊(聖霊)のことである。イエスを信じる者の心には、イエスの霊が共に宿ることになる。だからこそ、イエスを信じる者は無私の愛が実践できるようになるとイエスは言うのだ。
 実際、ただの無教養なイスラエルの庶民に過ぎなかったイエスの弟子たちは、イエスを神の子と信じることによって、イエスの霊を受け、イエスに勝るとも劣らない無私の愛を無数に実行した。その驚くべき行為の数々は四つの福音書や使徒言行録に記録されている。
 まとめるならこうである。イエスを神の子(救い主)と信じる者にはイエスの霊が宿る、その結果彼はイエスの霊の力によって罪から解放され、無私の愛を心に持ち、実行できるようになる。これこそが新約聖書に記された神の契約成就のプロセスであり、神が人間の心に無私の愛を刻みつける方法である。

5.信仰の力
 このように学んで見ると、人間の救いの鍵を握っているのは信仰であるということがわかってくる。すでに確認したように、人間の心のうちには無私の愛などない。だから人間は無私の愛など実践することはできない。だからこそ私たちは様々な悪を引き起こしてしまい、死に至ってしまう。しかし、もしイエスを信じるなら、たとえ心に無私の愛を持っていなかったとしても、イエスの霊の力によって心に無私の愛を持つことができる。そしてイエスの霊の力によって諸悪を取り除き、死を回避することができる。つまり、信仰こそは全ての問題を解決し、救いを成就する要なのである。
 だとすれば私たちは何としてもイエスを信じなければならない。しかし、イエスを神の子(救い主)であると信じることはなかなかできることではない。イスラエルの民の一人である人間が神の子であり、救い主であると信じることはあまりに私たちの常識からかけ離れているからである。いったいどうすればそのように非常識な話を信じることができるのだろうか。
 このハードルを乗り越えるための第一歩は、信仰が意志的行為であるということを確認しておくことである。あまり知られていないことだが、信仰とは意志的行為、つまり自分の意志で思いのままになる行為である。見るとか聴くとかにおうとか、これらは皆感覚的行為であって自分の意志ではどうにもならない。見えないものを意志の力で見えたと言うことはできないし、聞こえないものを意志の力で聞こえたと言うことはできない。ところが信じるという行為はそうではない。自分の意志で信じようと思えば、誰にでも信じることができる。「よーし、今日からイエスを信じるぞー」と決意して、その通りに信じるなら、誰にでも信じることができるのである。だから、たとえ非常識に思えたとしても、多少無理をしてイエスは神の子であると信じようと意志を発動して欲しい。そうすれば、信じられるのである。
 第二歩目は、イエスを救い主と信じることは、イエスに頼ることであると理解することである。人間は困ったときには、普通力(経済力、能力、体力、武力)に頼る、友人親類縁者に頼る、自分に頼る。しかしそのようなときにイエスに頼り、イエスを通して神に祈ることこそイエスを救い主と信じることなのである。俗な言葉で言えば、困ったときのイエス頼みである。こういうことなら、私たちにも容易にできるのではないだろうか。
 このようにしてイエスを救い主であると信じるならば、イエスの霊がその人の心に宿り、その力が働き始めるのである。
 ではどうすれば自分の心にイエスの霊が宿っているということを知ることができるのだろうか。イエスの霊が宿ったとしても、感覚的には何の変化も起こりはしない。聖書には、雷のような音が聞こえ、炎のような舌が降りてきたと書いてあったり、鳩のように舞い降りてきたと書いてあったりする。そのような明らかな変化が起こることもあるようだ。事実、自分の中にイエスの霊が入ってくるのがわかったと語る人を、私も何人か知っている。しかし、ほとんどの場合、イエスの霊が自分の中に入ってきたかどうかは感覚的にはわからない。それはそもそも霊の問題なのだから、感覚的にとらえられることはできないはずである。しかし、精神的にはある重大な変化が起こる。その変化とは、自分の罪に気づき始め、悔い改めが起こるということである。イエスの霊が私たちの心に宿るならば、私たちは何よりも先ず自分の罪がわかるようになってくる。自分が無私の愛に逆らう存在であり、愛とは異なる、愛に反することばかりやっているということがわかってくる。そしてそのことが恥ずかしくなってくる。これが悔い改めである。イエスの霊が心に宿るならば、何よりもまずこういったことが起こってくる。だから、イエスを神の子(救い主)であると信じて、その後で自分の罪に気づき、それを恥じるようになったなら、それは自分の中にイエスの霊が宿ったという証拠だ。人は他人の罪にはすぐに気づく。そして他人の罪はすぐに批判し、裁いてしまう。ところが自分の罪には全然気づかない。ましては自分の罪を反省して謝罪するなどということは全然できない。根本的な自己反省や謝罪といった悔い改めは人間にはできないことなのだ。ところが、イエスの霊が宿るならば、それができるようになる。イエスの霊の力によって悔い改めという根本的な自己反省や謝罪ができるようになる。だから、もし自分の罪に気づき、それを悔い改められるようになったなら、それは聖霊が心に宿っているという証拠なのである。そしてそれは、無私の愛への第一歩が踏み出されたということなのだ。
 ある女性の体験を紹介しよう。彼女はイエスを救い主として受け入れ、信じるようになったのだが、なかなかイエスの霊の力を感じなかった。それで、こう祈った。「イエス様、あなたの霊である聖霊を授けて下さい」と。しかし彼女は何の変化も感じなかった。ところがその三週間後、彼女は子供のころに人から受けた苦しみや自分が人に与えた苦しみを次から次へと思い出すようになった。そして自分が受けたそのような苦しみは、そのほとんどが自分の間違った態度に起因していることに気づかされ、終には泣き出してしまった。そして祈らずに入られなくなった。「自分が人を傷つけたことを赦して下さい」と。すると不思議なことに、心が楽になり、これまでに経験したこともないような平安が与えられた。
 これがイエスの霊の力である。自分の罪に気づかされ、悔い改めずに入られなくなる、そして悔い改めることによって平安がもたらされる。これこそが、イエスの霊が心に宿ったという確かな証拠なのだ。ちなみにこのようなイエスの霊の働きは聖化と言われている。

6.まとめ
 まとめるならこうだ。人間は罪のとりこであり、無私の愛を持つことなどできない。そのために、死や様々な悪を取り除くことができない。しかし、イエスを救い主(神の子)と信じるなら、イエスの霊が心に宿ってくださる。そしてその力によって、自分の罪に気づき、自分の罪を悔い改められるようになる。そしてやがては、無私の愛が心に刻み付けられ、無私の愛が知らず知らずのうちに周囲に成就するということが起こってくる。こうして、罪から解放され、同時に死と諸悪から救われるということが成就する。だから、意志力を発動して、イエスを救い主と信じてみよう!イエスにより頼んでみよう。これが今日のメッセージである。そしてこれは新約聖書の中心メッセージでもある。
 最後に、マーリン・キャロザースという牧師の素晴らしい言葉を紹介して終わりとしよう。
私たちは信仰によって救われ、信仰によって癒され、信仰によって義と認められ、信仰によって守られ、信仰によって歩み、信仰によって立ち、信仰によって生き、信仰によって神の約束を受け継ぎ、信仰によって豊かになり、信仰によって祈り、信仰によって世に勝ち、信仰によって神を賛美することができる。これが聖書の教えです。(『讃美の力』p.48)

 

「人は皆罪人か」(春風学寮)2018.9.30.

聖書:ローマの信徒への手紙
3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
3:14 口は、呪いと苦味で満ち、
3:15 足は血を流すのに速く、
3:16 その道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目には神への畏れがない。」

序.自己中心性と罪
 前回は自己中心性が人の幸福を阻害するという話をした。聖書にはこの自己中心性に近い「罪」という概念がある。「罪」と自己中心性とはほとんど同じだが、異なる部分もある。では、「罪」とはいったいどのようなものであろうか。

1.人は皆罪人か
 今読んでもらった箇所は、使徒パウロによって書かれた書簡の一部だが、ここには驚くべきことが書かれている。人間というものは全員罪人であると書かれているのである。9節には「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」とあり、10節には「正しい者はいない。一人もいない。」とあり、12節には「善を行う者はいない。ただの一人もいない。」とある。要するにパウロは、人間は全員罪人であると断言しているのである。
 このように断言されると、反論したくなってしまう。自分は罪人ではないと。自分は正しかったこともあるし、善を行ったこともあると。少なくとも他者に害を及ぼすような悪いことをしたことは一度もないと。私の知人にはそのように述べて、聖書を拒否する人がたくさんいる。「自分は何も悪いことをしていないのになぜ罪人呼ばわりされなければならないのか」と。
 いったいなぜこのような反応が出てくるのだろうか。それは私たち人間が普通に考える罪と、聖書で言うところの「罪」にずれがあるからである。私たちは普通人に害を及ぼしたり、人に迷惑をかけたりする行為を罪と言う。そしてそのような行為を引き起こす性質を自己中心性と呼ぶ。ところが、聖書が「罪」と呼ぶものはそういうこととは少し異なる。では聖書の言う「罪」とは何か。聖書の中心は人間ではない。神である。だから「罪」ということも神を中心に定義される。すなわち、神に背くこと、いやそのような行為にとどまらず、神を侮り、神に背こうとする心の態度こそが聖書の言う「罪」なのである。
 では、神を侮り、神に背こうとする心の態度とは具体的にはどういうことであろうか。これについて知るためには神の本質(神の人格の中心)がどのようなものかを知らなければならない。

2.神の本質とは
 神の本質とは何か。それは、すでに千葉先生から何度も学んだように、愛である。そしてこの愛は私たちが普通に抱く愛とは異なる。私たちが普通に抱く愛はエロスである。エロスとは一言で言えば、自分の価値観に基づく愛である。つまり自分が良いと思った者を大切にする愛である。自分の身内、自分の利益になる者、自分にとって魅力的な者、自分が正しいと思った者・・・そういう人たちを大切にする愛こそエロスである。私たち人間の愛はほとんどがこのエロスである。他方、神の愛はアガペーである。アガペーとは一言で言えば、自分の価値観に基づかない愛、すなわち無私の愛である。つまり、相手がどんな人間であろうと無条件で大切にする愛である。その人が自分とは無関係の者であろうと、自分の不利益になる者であろうと、自分にとって魅力的でない者であろうと、自分には悪いと思われる者であろうと、変わりなくその人を無条件で大切にする、それがアガペーである。神の本質(人格の中心)は、このアガペーなのである。マタイによる福音書にはこうある。
5:44 ・・・敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
ここにあるように、神は悪人も善人も、正しい者も正しくない者も共に愛してその上に太陽を昇らせ、雨を降らせる。神は、本来悪人や正しくない者が大嫌いである。しかし、そのような自身の価値観を捨ててまで、無条件でその人を愛する。悪人も善人も、正しい人も正しくない人も愛する。これこそ神の本質、無私の愛(アガペー)である。
 神の本質はそのような無私の愛であるから、当然神が自分に似せてお造りになった人間にも無私の愛(アガペー)の実行を要求する。つまり、神ご自身や隣人を無私の愛をもって愛しなさいと命じるのである。聖書には十戒を初めとする様々な掟(律法)が記されているが、これらは要するに神や隣人を無私の愛をもって愛しなさいという神の至上命令をどのように実践すればよいかを具体的に表したものである。だからこそイエスはマタイによる福音書でこう言うのである。
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』とは、自分を捨て去るほどに全身全霊で神を愛しなさいということである。つまり無私の愛(アガペー)をもって神を愛しなさいということである。『隣人を自分のように愛しなさい。』とは、自分を愛するような絶対的な愛をもって隣人を愛しなさいということである。つまりこれもまた無私の愛(アガペー)をもって隣人を愛しなさいということである。律法のすべての掟はこれらの二つの掟に基づいているとイエスは言っている。つまり、律法の中心は無私の愛を実践しなさいということであると言っているのである。
 というわけで、神の本質は無私の愛(アガペー)である。それゆえに神は人間にも無私の愛の実践を命じる。律法は私たちに無私の愛を実践させるために作られた具体的な掟の集合体なのである。

3.罪とは何か
 このことがわかれば、「罪」が何であるかもはっきりとわかってくる。「罪」とは神に背くことであったが、神に背くとは要するに、神の本質である無私の愛(アガペー)に背くことなのである。つまり、神が無私の愛(アガペー)をもって神と隣人を愛しなさいと命じているのに、そのように愛そうとしないこと、これが罪なのである。具体的に言えば、自分とは無関係の者、自分に不利益をもたらす者、自分にとって魅力的でない者、自分には悪いと思われる者を愛そうとしないことが罪なのである。一言で言えば、自分の外側にいる他者を愛そうとしないことこそが、聖書が「罪」と呼ぶものなのである。
 注意してもらいたい。自分を愛することは少しも「罪」ではない。自分の体や心を養い、鍛え、自分の利益を図ることは少しも罪ではない。自分の身内や自分に利益をもたらす者や自分にとって魅力的な者や自分にとって正しいと思われる者を愛すること(エロス)も少しも「罪」ではない。「罪」であるのは、自分の外側にある他者を愛そうとしないこと、そのような他者を嫌ってしまうこと、憎んでしまうこと、無視してしまうこと、蔑んでしまうこと、道具のように利用してしまうことなのである。
 さて、そこで考えてみよう。果たして私たちはそのような「罪」のうちに生きていないだろうか。自分の外側にいる他者はどうでもいいと思って生きていないだろうか。無私の愛(アガペー)をもって神と隣人を愛そうとして生きているだろうか。たぶんいないだろう。だとすれば、私たちは、聖書の言うところの罪人なのである。
 しかしそれは私たちだけではあるまい。恐らく人間のほとんど全てが自分の外側にいる他者などどうでも良いと思って生きていると私は思う。先週藤本君が面白いことを言った。藤本君は、自分の当番のとき以外にもトイレやキッチンを掃除してくれているので、私は彼に「いつもありがとう」とお礼を言った。すると彼は、何と言ったか。「あれは汚れていると自分が快適に暮せないからやっただけです。単に自分のためにやったのであって、少しも感謝されるべきことではありません。」何と鋭い自己観察。そこには謙遜もあるのかもしれないが、本質的にはその通りだと私は思う。藤本君は無私の愛で掃除をしたわけではなく、自分のために、自分が快適に暮らせるようにと掃除をしたのだろう。しかしこれは何も藤本君に限ったことではあるまい。藤本君に限らず、人が隣人に親切にするのは、ほとんどの場合、自分のためであると思う。自分の利益や名誉、あるいは自己満足を高めるためにこそ人は隣人に親切にするのだ。隣人を純粋に愛するゆえに隣人に親切にする人は恐らくほとんど誰もいない。言ってしまえば、人に対する親切はほとんどが自分のために行う偽善なのである。そしてこのことこそ、私たち全員が無私の愛をもって神と隣人を愛しなさいという神の命令に背こうとする存在であることを物語っている。つまり、人はほとんど全員が罪人であることを証明しているのである。
 ついでに言えば、聖書における「正しい」(義)とは、神に従うことであり、それはつまり神の律法に従うことであり、要するに神と隣人を無私の愛で愛することである。そして「善行」とは、神と隣人に対する無私の愛を実行することである。であれば、「正しい」人などほとんど誰もいないし、「善」を行う人などほとんど誰もいないことになる。だからこそ、パウロは、10節で「正しい者はいない。一人もいない。」と述べ、12節では「善を行う者はいない。ただの一人もいない。」と述べたのである。

4.なぜ神は愛することを命じるか
 すると、疑問が生まれてくる。いったい神はなぜ人間に人間ができそうもないような無私の愛を律法にし、それを実践しろと命じたのであろうか。
その第一の理由は、私たち人間に幸せになって欲しかったからである。申命記にはこうある。
5:32 あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。
5:33 あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる。
ここに明記されているように、神の命令を忠実に実行するならば、つまり無私の愛を忠実に実行するならば、私たちは命と幸いを得る。神によれば、無私の愛を実践することこそが命と幸いを得る唯一の道なのである。神はその道がどんなに困難であろうとも、人間にその道をとおって幸せになってもらいたかった。だからこそ、敢えて極めて困難な無私の愛の実践を命じたのだ。(無私の愛を実践することがなぜ、私たちに命と幸いをもたらすのかは先週話したとおりである。すなわち、無私の愛の実践が私たちの自己中心性を打ち崩していくからである。私たちの幸福を阻害するものは自己中心性であった。無私の愛の実践はその自己中心性を打ち崩し、私たちが自分を活かしきり、他者から認められるという道を切り開く。だからこそ、無私の愛の実践は私たちを命と幸いへと導くのだ。)
 第二の理由は、人をして自身の罪に気づかせ、へりくだらせるためである。私たち人間はすぐに思いあがり、驕り高ぶる。力が強ければ思い上がり、頭が良ければ思いあがり、自分が正しければ思い上がる。最も性質(たち)が悪いのは、過去の実績や業績に基づいて自分が偉い(偉大だ)と思って思い上がるパターンである(スポーツ界の大御所に多い)。しかし、無私の愛を実践しなさいを中心とする律法があったとしたらどうか。人は絶えず無私の愛を実践できない自分と出会うことになる。自分のうちには「罪」しかないことを思い知らされることになる。そうなれば、自分は偉いと思いあがることなどできないではないか。パウロはローマの信徒への手紙にこう書いている。
7:7・・・律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
7:8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
パウロはここで、「むさぼるな」という掟があったために初めて自分は自分にむさぼりの「罪」があることに気づいたと告白している。まさしくこの通りである。私たちは律法があって初めて自分たちの「罪」に気づく。無私の愛を実践しなさいという律法があって、初めてそのように愛することができない自分の「罪」に気づく。そして自分の「罪」に気づいたとき、人は初めて驕り高ぶらずにへりくだることができるのである。このように、人間に自身の罪を気づかせ、へりくだらせるためにこそ、神は律法を定め、無私の愛を実践しなさいと命じたのだ。
 しかし、神が律法を定めて無私の愛の実践を命じた最大の理由は、人のうちに神への信仰を引き起こすためである。神から隣人を自分のように愛しなさいと命じられて、それが実行できないことに気づくとき、人はいったい何をするだろうか。ほとんどの人は神を忘れ、この律法を無視しようとするだろう。しかし、中には神に謝る人が出てくるかもしれない。「無私の愛を実践することができない自分をお赦し下さい」と謝る人が出てくるかもしれない(悔い改め)。あるいは神に祈る人が出てくるかもしれない。「無私の愛を実践するための知恵と力をお与え下さい」と祈る人が出てくるかもしれない(祈り)。このような神に対する悔い改めと祈り、言い換えれば信仰こそ神が人間に最も期待するところである。そのような信仰者が多く出てくることを期待すればこそ、神は実行することが不可能であるような無私の愛の実行を人間に命じ、そのための律法を定めたのだ。
 いったいなぜ神は人のうちに信仰が起こることを願うのであろうか。それは、信仰が人のなしうるほとんど唯一の無私の愛だからである。神を信じるとはどういうことであろうか。それは自分の無力さを全面的に認め、自分のすべてを自分の外側の存在である神にゆだねてしまうことである。そこには自分の外側の存在を大切にするという要素はないが、少なくとも自分の外側の存在を受け入れるという要素がある。これは、無私の愛に極めて近い心のありようではないか。そうであればこそ、神は人の心に信仰が起こることを望み、信仰を持つ者に救いをもたらすのである。

5.まとめ
 それでは、このような聖書の罪に関する教え(人はみな罪びとであるという教え)から、私たちはいったいどのようなメッセージを受け取ればよいのだろうか。最も重要なメッセージはやはり、「神により頼む信仰を持て」ということであるが、そのようなことを言ったからといってすぐに信仰を持てるはずもないので、それ以外のメッセージをあげよう。
 第一はやはり自分には、無私の愛(アガペー)など実践できないということをはっきりと自覚することである。私たちは正しいようなことをすることがある。善のようなことをすることがある。愛のようなことを実践することがある。しかし、それらは本質的には少しも愛(アガペー)ではない。それらは皆つまるところ自分のためにやっているのであり、自己愛の延長線上にあるものでしかない。つまり、私たちが行う正義や善行やらは、偽善でしかないのだ。このことをはっきり自覚して、決して思い上がったりしないこと、絶えずへりくだっていること、これが今日の箇所から受け止めるべき第一のメッセージであろう。
 第二は、人のことを偽善者呼ばわりして馬鹿にしないことである。私たちは普通偽善者に対して非常に厳しい。それは私たちの心の純粋さの表れであるのだが、他方では自分の偽善性に気づいていないことの表れでもある。人間には偽善しかできないことを知り、自分にも偽善しかできないことを知るならば、偽善者を馬鹿にすることなどとてもできないはずである。自分も偽善者の一人であることを自覚し、偽善者を馬鹿にしないこと、これが今日の箇所から受け取るべき第二のメッセージである。
 第三は、偽善になることを恐れず、積極的に律法を実行しようとすることである。繰り返すが、律法は無私の愛を実践するにはどうしたらよいかを具体的に展開したものである。だから、もしこの律法を敢えて実行し続けるならば、私たちはより深く自分の「罪」(無私の愛が実行できないこと)に気づくことになる。そしてそこから自分の「罪」が清められていくということが起こってくる。つまり無私の愛に近い心を持てるようになっていくのである。つまり自己中心性から解放されていくのである。つまり、幸福への道が切り開かれていくのである。
 というわけで、まとめるなら、自分の「罪」を自覚し、へりくだり、人を蔑まず、律法の実践に挑んでいくこと、これが今日のメッセージである。このメッセージに賛同していただけたら幸いである。

 

「聖書の示す幸福論」(春風学寮) 2018.9.22

聖書:マタイによる福音書

26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
26:40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
26:42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
26:43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
26:44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
26:45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
26:46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

序:聖書の反体性
 すでに少なからず聖書を読んでいるのでお気づきと思うが、聖書の言うことはしばしば私たちが普通に考えることと反対である。例えば普通の人間社会は長男を重んじるけれど、聖書はしばしば弟や末っ子を重んじる。カインとアベルの話でも神様は弟を選んで重んじているし、ヤコブの11人の兄弟の中でも神様は末っ子のヨゼフを選んで重んじている。あるいは普通人間社会では豊かなことが重要であるが、イエスは「貧しい人々は幸いである」(ルカ6:20)と言う。あるいは聖書は人のおろかさや弱さを讃え、賢さや強さを戒める。極めつけは愛敵である。普通人は家族や仲間を愛するが、イエスは「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と言う。いったいなぜ聖書はこのように常識とは反対のことばかり言うのだろうか。
 その理由は簡単で、聖書の言葉のほとんどが神を中心とする発想から生まれたものだからである。普通私たちは神を中心において物事を考えはしない。そうではなくて自分を中心において物事を考え、行動する。それにあわせて人気のある世の書物はすべて読者の自分中心を応援してくれる書物である。金持ちになる方法、出世する方法、賢くなる方法、健康になる方法などなどについて書かれた本が世にはたくさんあり、中には何百万部も売れる本があるが、これらはみな読者の自分中心を応援してくれる書物である。だから人気がある。ところが聖書はまったく逆である。聖書は読者の自分中心を少しも応援せずに、むしろ逆に読者の自分中心を破壊しようとする。そして読者の中心に神をすえようとする。だから聖書は繰り返し繰り返し人間が普通よしと考えることに対してだめと言い、だめと考えることをよしと言うのである。当然人気もない。聖書は世界一のベストセラーだが、決して人気のある書物ではない。ほとんどの人が持っているだけでまともに読んでいない!

1.聖書を読む意味
 ではこのような聖書を読んでいったい何の意味があるのだろうか。ここはきわめて重要な点であるので慎重に考えてみよう。聖書が読者の自分中心を破壊し、神中心を打ちたてようとする書物なのだとすれば、私たちがそれを読んで実践するならば、得をするのは神であり、私たちには何の得もないように思われる。はたしてそうだろうか。
 この問題を考えるためには人間の幸福とは何かという問題に答える必要がある。私たちが本当に幸せを感じ、生の充実を感じるときとはどのようなときであろうか。私が思うには(そしてこれはヘーゲルの結論でもあるのだが)、それはある目標を設定し、その目標に向かって自分を活かしきり、なおかつそのことが他者から正当に認められたときである(深い心の交流)。それが達成されるのは学問や芸術やスポーツにおいてであるかも知れず、仕事においてであるかも知れず、家事子育てにおいてであるかも知れず、あるいはボランティア活動においてであるかも知れず、あるいは友人や恋人との交流においてであるかもしれない。最近ではネットが普及しているので、ネットの仮想空間においてさえそのようなことは可能である(ユーチューバー)。とにかく、ある領域で自分なりの目標を設定し、その目標に向かって自分を活かしきり、他者から正当に認められたときこそ、人は生の充実を感じ、本当に幸せであると感じる(単に目標を達成することでは不十分。他者からそれを正当に評価されなければ幸福にはならない。誰にも認められないと人は鬱になる。人に認められなくともよいというのはほとんどうそ)。
 このように、人が幸せになる方法は明らかであり、その機会はいくらでも転がっている。ところが、実際に幸せになることができる人は極めて少ない。これはいったいなぜだろうか。私の考えるところによれば、その原因は自己中心性である。自己中心性はあらゆる側面から私たちの幸福追求を困難にする。それでは自己中心性はどのようにして私たちの幸福追求を困難にするのであろうか。以下、その例をいくつか挙げてみよう。
 自己中心性が幸福追求を困難にする第一の例は、鍛錬の阻害である。他者から認められるほどに自分を活かしきるためには、明らかに一定の鍛錬(トレーニング)が必要である。自分を捨てるような鍛錬があってこそ人は自分を活かしきることができるのだ。ところが人は往々にしてこのトレーニングをさぼる。そして目先の快楽に走ってしまう。さらに虫のいいことには、トレーニングなしで人から認められようとする。これぞ自己中心性の現れである。トレーニングなしで評価されることもたまにはある(天才、ラッキー、美男美女)。しかしそのようにして得た評価は真の幸福にはなりえない。なぜならそれは自分が努力して勝ち得た評価であるという充実感を生み出さないからだ。このように、人が自分を活かしきるためには鍛錬が不可欠であるのに、自己中心性はその鍛錬を阻害してしまう。だからこそ自己中心性は人の幸福追求を困難にするのだ。
 第二の例は、自己評価の阻害である。人が幸福になるためには先ず何よりも自分の能力や性質を正当に評価し、その正当な評価に基づいて自分の活動する領域を選び、目標を設定しなければならない。そのような目標が設定されてこそ、人は自分を活かしきることができ、他者から評価されることも可能になるのである。ところが自分の能力や性質を正当に評価することは極めて難しい。人は自分を評価しようとする場合、たいていは自分を過大評価するか過小評価してしまう。過大評価をするならば自分の実力にふさわしくない高すぎる目標が設定されてしまうし、過小評価するならば、簡単に実現できる低い目標しか設定されなくなってしまう。自分を高く評価しすぎることも、自分を低く評価しすぎることも、自己中心性の現れである。あるいは自分の性質や能力を全然見誤ってしまうこともある。好みというのが入ってくるからだ。例えば、人は美人ではないのにアイドル歌手になりたいと思ったり、記憶力が悪いのに弁護士になりたいと思ったり、運動神経が悪いのにオリンピックで金メダルを採りたいと思ったりする。自分の現状を無視する結果を引き起こす好みはやはりしばしば自己中心性の現れである。このような好みにしたがって、自分が活かしきれるはずはまずないし、人から評価されることも先ずない。というわけで、自己中心性は自分の正当な評価を阻害する。そのようにして人が幸福になるのを難しくしてしまうのだ。
 自己中心性が幸福の追求を困難にする第三の例は、他者(社会)への無理解である。自分を活かしきり、そのことを他者から正当に評価されるためには他者をきちんと理解できなければならない。他者が何を求めているか、他者が何を嫌がっているかをできるだけ正確に理解できなければならない。ところが人は他者を理解することが極めて苦手である。だからこそ他者の望んでいないことをやって他者から正当に評価されないということが起こってくる。自分勝手なことをやって自分の能力や性質を殺してしまうということが起こってくる。例えば皆がヘルシーフードを求めているときに、汗水たらして油のこってりしたステーキを焼いても誰にも喜ばれないだろう。みんながAKBを聴きたいと思っているのに、バッハを演奏したって喜ばれないだろう。にもかかわらずこういうことはこの世界のいたるところで起こっているのだ。なぜか。その理由はもちろん人間の物の見方が基本的に自己中心的であるからだ。他者の立場に立って考えるということが人間生来の本能に反するからだ。つまり、他者を理解できないということも人間の自己中心性の現われなのだ。このように、自己中心性は他者への無理解を生み、他者への無理解は人の幸福追求を決定的に阻んでしまう。他者への無理解こそは自己中心性が幸福追求を困難にする典型的な例なのだ。
 このように自己中心性というバイアスは様々な側面から人が自分を活かしきることを妨げ、なおかつ他者から正当に評価されることをも妨げる。つまりは私たちの幸福を妨げる。しかも忘れてならないのは、このような自己中心性は人間の本能であるということである。人は放っておくとすぐに自己中心的になる。この自己中心的本能を補正してくれるのが聖書の神中心の言葉なのである。聖書は究極の他者である神中心の言葉を語ることによって私たちを自分中心からシフトさせる。そうすることで私たちの自己中心性を補正し、私たちが真に自分を活かしきる道を切り開いてくれるのである。
 聖書の始めの創世記において、神様はアブラハム(始めの名前はアブラム)に向かってこう言っている。
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
 ここで神様はアブラハムに向かって「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」と言っているが、この言葉に込められた最も深いメッセージは何か。それこそ自己中心性を捨て去りなさいということである。人は誰でも生まれ故郷で父親と母親と暮したい。それが生きとし生けるものの本能である。しかし、それは神の目から見れば自己中心性である。神はそのように生きることよりももっとアブラハムを幸せにするプランを持っている。だからこそ言うのだ。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」と。まとめるなら神様はここで、自己中心性を捨てるなら、あなたに最高の幸せを与えると言っているのだ。そしてこれこそは、聖書全体の基調となるメッセージである。(この解釈は学術的研究の成果と照らし合わせても妥当である。研究によれば、神がアブラハムに生まれ故郷を離れよと命じた理由は生まれ故郷では偶像崇拝が横行していたからであった。偶像崇拝とはすでに学んだように自分の欲望を実現してくれる自分の思い通りになる神を崇拝することであり、それはまさしく自己中心性の現れである。)
 聖書はこの言葉に端的に表れているように、次々に私たちの自己中心性を破壊するような言葉を投げかけてくる。しかしそれは何も私たちを不幸にしようとしているからではない。むしろそうすることで幸福に導こうとしているのだ。今風の言葉で言えば、真の自己実現へと導こうとしているのだ。だから、皆さには聖書の言葉がいかにわたしたちの常識とかけ離れていようとも、努めてそれに耳を傾ける習慣をつけてもらいたい。そうすれば、私たちは自己中心性を乗り越える習慣や思考方法を身につけることができる。その結果、自分を正当に評価できるようになる。他者をより理解できるようになる。そして自分を活かしきる道が見えてくる。これらのことができて人は初めて真の幸福へと近づくのである。

2.自己中心性と幸福追求の関係
 ところで昔からある大きな問題を一つ解決しておきたい。その問題とは幸福を求めることも自己中心性の表れではないのかというものである。この疑問に答えるためには、幸福が何を意味するかをもう少し掘り下げる必要がある。もし幸福が自分の生理的欲求の充足であるならば、その追求は間違いなく自己中心性の表われである。例えば赤ん坊の幸福は単に自分の食欲を満たすことであるからこのような幸福は純粋に自己中心的である。しかしもし幸福が人に認められることであるとするならば、そこには他者性が入ってくる。例えば、子供の幸福はもはや単に食欲を満たすことではなく、親に認められることである。このような幸福では幸福の中心が明らかに自分の満足よりも親の満足にシフトしている。これが青年期になると幸福の中心はさらにシフトして友人や恋人を満足させることへとうつる。そして大人になれば、幸福の中心はさらにシフトして不特定多数の見知らぬ人や社会全般になる。不特定多数の人をいかに満足させるか、社会全般をいかに満足させるか、すなわち社会という舞台でいかに自分を活かしきり、いかに他者から正当に認められるかが幸福となるのである。
 このような事実をよくよくふりかえってみるならば、幸福の追求が自己中心性の表われであるなどと簡単に言えないことは明らかであろう。幸福追求が自己中心的かどうかは幸福が何であるかにかかっており、そして幸福は高度になればなるほど、自己中心的ではなくなる。それにしたがってその追求も自己中心的なものではなく、他者中心的なものとなっていくのである。

3.究極の幸福
 さて、以上見たとおり、人の幸福は人が成長するにつれてより高度なものになっていく、より他者中心的なものになっていく。では最も高度な、最も他者中心的な幸福とはどんなものであろうか。それはもちろん、究極の他者である神中心の幸福である。すなわち神の満足を幸福であると感じることである。そしてその究極の幸福のモデルはもちろんイエス・キリストである。
 イエスは自己中心性を一切捨て去り、神の意志への完全な服従を貫いた。そしてそこにかえって究極の幸福を見出したのである。そのことを典型的にあらわすシーンが冒頭に呼んでいただいたマタイによる福音書26:36〜46である。ここは極めて重要なところなので、その最初の部分をもう一度読んでみよう。
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
 このシーンは明らかにイエスの中での自己中心性と他者中心性の相克を描いたものである。イエスはここで「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と言っている。「杯」とはイエスが十字架にかかることである。それを取り除いてくださいと嘆願しているのだから、この言葉にはイエスの人間としての自己中心性が表われていると見てよいだろう。ところが最後にはイエスは、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と言っている。この言葉には神への服従という究極の他者中心性がこめられている。そしてイエスは結局後者を選び、十字架にかかった。そしてこの十字架こそがイエス自身に復活をもたらし、無数の人間に魂の救いと永遠の命をもたらす契機となったのである。ここには人の目指すべき究極の幸福モデルがある。すなわち究極の他者である神を中心に生きる幸福である。究極の他者である神を中心に生きるならば、自分はまったく捨去られなければならない。しかし、それは不幸であるかといえば、そうではない。むしろ、自分を捨て去ることによってこそ私たちは魂の救いと永遠の命という最高の幸福を与えられるのだ。イエスはそのことを実際に示してくれた。ミルクをもらうことだけを幸福と考えて生きる赤ん坊とは何と異なる人間像がここにはあることか。

4.まとめ
 そこで現実に戻ろう。そして自分たちがどのような地点にいるかを考えよう。皆さんは明らかに青年と大人の中間地点にいる。友人や恋人に認めてもらいたい一方で、もっと多くの人々、ひいては社会に認めてもらいたいというひそかな願いも抱いている。しかし友人や恋人に認めてもらうことはなかなか難しいことであり、ましてや不特定多数の人や社会に認めてもらうことはなお難しい。その難しさを思うと私たちはついつい幸福追求を後退させたくなってしまう。単に自分中心の狭い満足を幸福と考えてこじんまりと生きたくなってしまう。
 そんなときこそ聖書の他者中心を力強く肯定する言葉が必要なのであり、イエス・キリストという究極の他者のために生き、究極の幸福を手にした実在の人物が必要なのである。神様を信じようと信じまいと、究極の他者を想定して生きることは人間が健全な幸福を追求していく上で不可欠であり、イエス・キリストは人類の幸福の究極モデルとして不可欠なのである。
 ぜひ聖書の言葉に触れ続け、イエス・キリストを見つめ続け、自分の自己中心性と戦い続けていただきたい。