聖 書 集 会

塚本聖書画像 春風学寮では毎週日曜日の午前中を、人類不朽の古典である聖書の学びにあって、若人の人生観を陶冶することを目指しています。 創立者道正安治郎氏は聖書の学びを内村鑑三、塚本虎二両氏に師事し、純粋なキリスト教信仰に基づく寮運営を目指しました。 現在でも全く同じ方針によって春風学寮は日々運営されています。 毎週の聖書集会では小舘美彦寮長を中心に、多彩な個性を持つOB諸氏、寮関係者による聖書の講解がなされます。
「善悪の知識の木」
2021年5月23日(日)春風学寮日曜集会

創世記
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
・・・
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
・・・
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

序 復習+α
今日の箇所はこう始まる。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
ここには神が人間を創造したときの様子が具体的に描かれているが、もちろんこれも物質現象を説明しようとした言葉ではない。では何を言おうとしている言葉か。やはり、人間の特別な価値を伝えようとしている言葉であろう。「命の息」は原語のヘブライ語では「ニシュマト ハイイム」で、その意味は「命の魂」とでもいうべきものである。この「命の息」は人間だけでなく全ての生物に存在し、この「命の息」があるからこそ、全ての生物は生きている。そしてその「命の息」は神から与えられたものであるから、全ての生物の命は尊いものであり、価値があると聖書は考えるのである。しかし、その「命の息」が実際に生物に与えられる様子が描かれているのはここだけであり、しかもそれは人間に関するものでしかない。だとすれば、この描写もまた人間の価値を特別なものとして位置づけるための記事であろう。すでに学んだとおり、人間は神が持っているそれと似た人格を与えられている。だからこそ他の生物よりも、一段階尊い。そのことをここは改めて強調しようとしているのだと思われる。

1.エデンの園の謎
さて、今日の箇所では、人格を与えられた人間というテーマがさらにほりさげられていく。先ずは、2:8〜9を読んでみよう。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
いわゆる「エデンの園」の創造である。神は、世界の一隅のエデンというところに、人間が暮らすための完璧な場所をお造りになった。それが「エデンの園」である。エデンという言葉は元々「楽しみ」とか「贅沢」とかいう意味であるから、この園は後に「楽園」と呼ばれることになる。神は人間が何不自由なく暮せるようにと、人間のために「楽園」を造ったのだ。
ところが神は最後に不可解なことをする。「園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」のである。そして人間にこう命じる。
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
はてさて、これはいったいどういうことであろうか。神はいったい何のためにこのような、死に至るような木をわざわざ植えて、その木の実を食べることを禁じたのであろうか。これは極めて大きな問題なので、一つ一つ謎を読み解いていく必要がある。

2.なぜ神様は「善悪の知識の木」を植えたか
この謎を解く鍵は、神が人間だけに人格を与えたという前回からのテーマである。人格とは何であったか。それは本能の束縛を超えて自由に愛を選ぶことのできる主体、つまりは自由意志のことであった。この人格の意味をよく考えるなら、神がエデンの園の真ん中に敢えて危険な木を植えて、「食べるな」という命令を発したのか、その理由が理解できる。神は人間が与えられた人格(自由意志)をきちんと使うことができるかどうか試そうとしているのだ。人間が自由意志によって神を信じ、神の命令に従う道を選ぶか、それとも神を信じず、神の命令に逆らう道を選ぶか、それを試すための試練として神はこの木を植えたのだ。神を信じて神の命令に従うならば、それは愛の道(神の本質は愛)であり、それは平和・命へとつながっていく。しかし、神を疑って神の命令に背くなら、それは罪の道であり、争い・死へとつながっていく。神は人間が自由意志を用いて正しい道を選ぶことができるかどうか試すために「善悪の知識の木」を植えたのだ。
すると、一つ疑問が湧いてくる。なぜ神は「善悪の知識の木」などというややこしい木を植えたのであろうか。神に逆らったことの報いが死であるなら、単に「死の木」を植えればよいではないか。ところが神が植えた木は「善悪の知識の木」である。それはなんだか死だけでなく「善悪の知識」をももたらしそうである。いったいなぜ神はこのようにややこしい木を植えたのであろうか。
その理由は、「死の木」などという木を植えたところで、試練にはならないからである。食べると必ず死ぬ「死の木」を植えたところで人間は食べようと思わないであろう。それでは何の試練にもならない。単に死ぬだけでなく、人間が欲しくなるような何か魅力的なものをもたらせばこそ、人はその木からとって食べたいという気を起こし、試練が成立する。神は死の危険を犯してまで食べたいという欲望を誘うためにこそ、ただの「死の木」ではなく、死と共に「善悪の知識」をもたらす「善悪の知識の木」を植えたのである。

3.蛇の役割
しかし、それでも試練には足りない。事実、男も女も初めは「善悪の知識の木」からとって食べようなどと思っていなかった。「善悪の知識の木」を試練に変えるためにはもう一つきっかけが必要である。そこで神が登場させるのが「蛇」である。「蛇」が語りかけることによって「善悪の知識」は極めて魅力的なものへと一変する。その語りかけ部分をもう一度読んでみよう。
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と
神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。
この5節の言葉「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」によって事態は一変する。今や「善悪の知識の木」は極めて魅力的な欲望の対象と化した。なぜなら、食べても死ぬことはないのだし、おまけに「神のように善悪を知るものとなる」ことができるのだから。「神のように善悪を知る者となる」、これほど人の欲望を掻き立てる言葉があるであろうか。今や「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆す」木のように見え始めた。この瞬間に二人の心には、「神のように善悪を知るものとなる」という大それた欲望(心の罪)が芽生えたのだ。
こうして「善悪の知識の木」は男と女に課された大きな試練へと変貌する。神の言葉(死んでしまう)を信じ、神の命令(善悪の知識の木からとって食べてはいけない)に従うのか。それとも「蛇」の言葉(死ぬことはない、神のように善悪を知る者となる)を信じて神を疑い、神の命令に逆らうのか。二人は今や神を信じて神に従う愛の道を選ぶのか、それとも大それた欲望(心の罪)のゆえに神を疑い神に背く罪(行為の罪)を犯すを選ぶのか、という重要な試練の前に立たされることとなったのだ。
ちなみにこの「蛇」は後にサタンと呼ばれ、神と敵対する存在であるかのごとくに描かれるが、その本質は神と敵対する存在ではない。そもそも一元論の聖書の世界には神の敵対者が存在する余地などはない。では「蛇」とはいったい何か。それはまさしく人間に試練を課す者、すなわち誘惑者である。聖書におけるサタンとは、思い切り大雑把に言えば、人を誘惑し、試練に合わせるという役割を背負った神の使いなのである。しかしサタンについては、話がそれるので今日は深入りしないでおこう。

4.罪の報いは死
さて二人はこの試練を乗り越えることができたであろうか。3:6の後半にはこうある。「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」と。二人はあっけないほど簡単に「蛇」を信じて神を疑い、神の命令に逆らった。つまり神の与えた試練を乗り越えることはできなかったのだ。
その結果はどうだったであろうか。神が正しかったのか。「蛇」が正しかったのか。確かに二人は賢くなった。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものと」するほどになったのである。この後22節で神はこうつぶやく。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。」だとすれば「蛇」の言葉はこの点では正しかったということだ。二人は、確かに「善悪の知識」を手に入れたのだ。しかし神は、別に嘘をついたわけではない。単に食べたものは「善悪を知るものとなる」と言わなかっただけだ。つまりこの点ではどちらが正しかったのかという判定はできない。
では、二人は死んだであろうか。即死はしなかった。この点でも「蛇」は正しかったように見える。しかし、この後の様子を見るならば、二人は確かに死に向かって歩み始めていないだろうか。賢くなった男と女が次にしたことは何か。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
いろいろと複雑に書かれているが、要するに男と女は自分たちが神に背いたことを隠そうとしているのである。男は、裸であるから神が恐ろしくなり、隠れたと弁明しているが、それは事実ではあるまい。本当は、自分が悪いことをしたとわかっているから隠れているのである。善悪を知る者となった二人は、神の命令に背くことが罪であると心の底ではわかるようになってしまった、だからこそそれを隠そうとして神から隠れて逃げ回っているのだ。罪を犯してそれを隠そうとする。これは死の兆候ではないだろうか。
では三番目に行ったことは何か。罪の擦り付け合いであった。
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」なんと情けない言葉であろうか。自分の罪を反省するどころか、その罪の責任を最愛の存在である女になすりつけている。いやそれどころか、女を与えてくれた神にさえなすりつけている。これは最悪の責任転嫁である。女は女でその責任を蛇になすりつける。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」これは弱いものへの責任転嫁であり、これまた最悪と言ってよいほどの責任転嫁である。このように、賢くなった二人が三番目にしたことは、罪の擦り付け合いであった。いやもっと正確に言えば、自己正当化と責任転嫁であった。善悪を知る者となった二人は今や、自分の罪をごまかし、自分を正当化するためにその責任を他者になすりつけるという卑劣な存在になってしまった。これもまた死の兆候ではないだろうか。
このように二人の行動を追っていくなら、彼らは確かに死に向かって歩み出したと言える。自分の罪を隠し、自分を正当化しようとして、他者に責任を転嫁しようとするなら、その先にあるのは相互不信と争いであろう。この先に殺人や戦争が生じるのは想像に難くない。「善悪の知識の木」からとって食べた二人は確かに賢くなった。しかし同時に死に向かって突き進む存在となってしまった。このようにテキストを深く読み込んでいくならば、神は正しかったのであり、蛇が嘘をついていたと理解できる。
では、いったいなぜ二人は死への道を歩みだしてしまったのか。それは善悪の知識を得たために自分の体に心の罪(神に背こうとする心、自分を神とする自己中心性)が定着してしまったからである。聖書は、罪を行為としての罪と心の罪とに分けて考える。旧約聖書では、この分類は曖昧であるが、新約聖書の頃になるとこの二つははっきりと分けられる。そして、心の罪こそが問題であり、これこそが死の原因であると確定されるのである。神に背いて「善悪の知識」を手に入れてしまった二人は、単に行為としての罪を犯してしまっただけでなく、その瞬間に心の罪(自己中心性)を体に定着させてしまった。その結果死へと突き進むようになってしまったのである。
ちなみに罪は、旧約聖書の言語である古代ヘブライ語ではハッタース、新約聖書の言語である古代ギリシア語ではハマルティアであるが、その元々の意味はいずれも「的外れ」である。絶えず神の御心(愛)に逆らい、自己中心的な判断を下してしまう心のありようが罪であるとするなら、「的外れ」ほどぴったりな罪の表現方法はあるまい。

5.善悪の知識とは何か
すると改めて問題になるのが「善悪の知識」である。二人に心の罪(自己中心性)を定着させてしまった「善悪の知識」とは何であったのか。これを単に知恵と考えることも可能であるが、今日は最新の学説に基づいてもう少し深く学んでみよう。
ここで用いられている「善悪」という言葉は、古代ヘブライ語では「トーブ」「ラーア」であり、それは単に倫理的善悪を表す言葉ではない。おおよそあらゆる意味において良し悪し・優劣を意味する言葉である。だから、ここで言う「善悪の知識」とは、おおよそあらゆることの良し悪し(優劣・価値)を判断するための二分法的知恵を意味する言葉なのである。つまり、「善悪の知識の木」からとって食べた二人は、ここにおおよそあらゆることについて独力で良し悪しを判断するための二分法的知恵を手に入れたのである。
そのように解釈するなら、「善悪の知識の木」から食べた前後の二人の描写がすべて説明できる。「善悪の知識」を獲得する前、男と女は、裸であるにもかかわらず恥ずかしいとは思わなかった。これは、まさしく互いの良し悪しを二分法に基づいて判断しなかったからだ。二人は互いのことを好きだと思いながらも、互いを良し悪しに二分化して考えることはなかった。だからこそ、裸であるにもかかわらず恥ずかしいと思わなかったのだ。ところが二人は、「善悪の知識」を得て以降、「自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」つまり二人は、自分たちが裸であること、特に自分の性器がさらされることを恥ずかしいと思ったのだ。いったいなぜだろうか。やはり自分の性器の良し悪しを二分法に従って判断してしまったからではないか。続いて二人は神から隠れようとする。なぜ隠れるのかと神から問われると、神の前で裸であることが恐ろしいからと答えている。しかしこれは、先にも触れたとおり、うそであろう。そもそも神の前で裸が恐ろしいとはわけのわからぬ返答である。だから、もっと重要な理由は、神の命令に背いたことの良し悪しを二分法にもとづいて判断したことにある。そうであればこそ、二人は自分たちの背きを知られまいとして、こそこそと隠れたのではあるまいか。さらに二人は罪の責任の擦り付け合いを始めるが、これまた二分法に基づいて自分の行いを正当化し、他者のほうが間違っていると判断したが故の行為である。
このように解釈してみると、「善悪の知識」が何なのかは明らかである。それはまさしく、おおよそありとあらゆることの良し悪し(優劣・価値)を判断するための二分法的な知恵なのである。この知恵自体は悪いものではない。しかしこの知恵が心の罪(自己中心性)と結びつくならば、それは心の罪を人の心に定着させ、絶えず自己中心的な判断を下すよう促すものとなってしまう。だからこそ二人は、自分の行為の悪さを認識しただけでなく、それをごまかし、自己正当化し、他者を間違っているとみなし、他者に責任を転嫁するという卑劣な行為に出たのだ。
さらに聖書は、これ以降男と女の子孫は全て二人と同様にその身に心の罪を宿すようになってしまったと伝える。二人が手に入れた「善悪の知識」(二分法の知恵)はその子孫にも受け継がれ、その子孫にも心の罪(自己中心性)を定着させる機能を果たし続けていると伝えるのである。そのゆえにこの世には悪が満ち満ちているのだと。これを人類の「堕落」と呼ぶ。

6.神が人間に期待したこと
しかし、ここで一つ疑問が湧いてくる。もし「善悪の知識」(良し悪しを判断するための二分法的知恵)を持つことを禁じられていたのだとすれば、男と女はいったい何を基準にして、自由意志を行使するよう期待されていたのであろうか。すなわち、神は人間が自由意志によってどのような基準に基づいて行動を選ぶことを期待していたのであろうか。蛇を通じて神がもたらした試練がどのようなものであったかを思い出してみれば、すぐにわかる。それは、神を信じ、神の命令に従うのか、それとも神を疑い、神の命令に逆らうのか、という試練であった。この試練に基づいて考えるなら、神が人間に何を判断基準にして欲しかったのかは一目瞭然である。神は人間に神への信頼(信仰)を判断基準に据えて欲しかったのである。神の言葉はしばしば人間には完全には理解できない。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という言葉も、男と女には全く理解しがたいものであった。にもかかわらず、神は彼らに神への信頼に基づいて神の言葉に従うことを期待していた。二分法的な知恵ではなくて、神への信頼(信仰)に基づいて自由意志によって神の言葉に従うことを選び取る、これこそ神が人間に期待していたことなのだ。

7.まとめ
というわけで、少しややこしくなったのでまとめてみよう。神は人間に人格(自由意志)を与えた。そしてその自由意志を人間が正しく行使することができるか試そうとした。すなわち神を信じて神の言葉に従う道を選ぶことができるか、それとも神を疑い、神に背く道を選ぶのか試そうとしたのだ。人間が神への信頼(信仰)に基づいて自由意志を行使することができるかどうか試そうとしたのである。ところが人間は神に背く道を選んでしまった。その結果二人は、二分法的知恵を手に入れ、心の罪(自己中心性)を心に定着させ、死の道を歩み始めてしまった。ここに二人は神への信仰ではなく、二分法的知恵に基づいて自己中心的判断で生きる道を歩むようになってしまったのだ。そしてこの心の罪は彼らの子孫にも受け継がれ、この世界は堕落した世界となってしまった。以上が今日の個所の要約である。
それではこの記事を通して聖書が伝えようとしている知恵とはいったい何であろうか。その一つは、人類はすでに堕落してしまっているということである。人間は、太古の昔から心に心の罪を宿している。つまり自分を神とし、神に逆らおうとする自己中心性を宿している。だからこの世界は、悪に満ちている。人類は昔も今もこの堕落の中を生きている。そして争いと死に向かっている。これが今日の個所が伝えようとする知恵の一つ目である。二つ目は、だからこそ、自分よりも神を信じ、自分の判断よりも神の言葉に従って生きよということである。堕落した人間の判断はほとんどことごとく、二分法的知恵に基づく自己中心的判断である。そのような自分の判断に従う結果は争いと死でしかない。だからこそ、自分よりも神を信じ、自分の判断よりも神の言葉に従って生きよ、とこれが今日の個所が伝えようとする二つ目の知恵である。
さて、これらの知恵は果たして正しい知恵であろうか。アメリカ、中国、ロシア、イスラエル、北朝鮮の指導者のコメントを聞いていると全くその通りだと思わざるを得ない。彼らは勝手に敵を作り上げて、われわれは正しく、やつらは間違っていると述べ続ける。これはまさしく二分法的知恵に基づく自己中心的価値判断である。この先にあるものは争いと死でしかあるまい。そして世界は彼らによって支配されている。これはまさしく世界が堕落していることの証拠ではないか。過去の人類の歴史もこれと似たり寄ったりだったのではないか。個人についてはどうであろうか。二分法的知恵によって自己中心的判断を下さない人がどこにいるであろうか。強弱、貧富、美醜、賢愚に基づいて自己正当化を図り、他者をあざけらない人がどこにいるであろうか。このことのために世界は差別と偏見で満ち満ちている。これまた堕落の証明ではないか。
自分を神としたいという自己中心性と二分法的知恵が結びつくとき、そこには永続的な自己中心性(心の罪と堕落)が生じる。だからこそ、自分よりも神を信じ、自分の判断よりも神の言葉にしたって生きよと聖書は訴える。この知恵は、おそらく今も有効なのではあるまいか。

寮生の感想
O「善悪の知識を得て、自分のやったことが悪いことであると気づくようになったのは、やはり良いことなのではないですか。そのような知識があればこそ、悔い改めたり、神の言葉に従うことを選び取ったりしていけるのではないですか。」
寮長「鋭い。確かにそういうこともあります。だから、先ほども言ったとおり、「善悪の知識」〈二分法的知恵〉自体は決して悪いものではないのです。悪いのは、それが神なき自己中心性と結びついてしまった時で、実際問題として両者が結びつくことが非常に多い。例えば、ほとんどの人間は、間違ったことをした場合、心の奥ではそのことに気づいているにもかかわらず、それに目を向けようとせず、それをごまかして自己正当化をするために二分法的知恵を用いてしまう。この記事の男と女のように。あるいは「隣人を自分のように愛しなさい」と命じられて、その命令が善いことだとわかっていてもほとんどそれに従わない。それどころか、それを実行しないことを正当化するために二分法的知恵を用いてしまう。政府や社会が悪いからそのようなことはやりようがないと。だからこそ神様はそれを手に入れることを禁じたのだと思います。」
S「「善悪の知識」が自己中心性を定着させてしまうというところが今一つ納得できません。「善悪の知識」(二分法的知恵)を得たからと言って、必ずしもそれが自己中心性を定着させるとは限らないでしょう。」
寮長「これまた鋭い。確かにそこに必然的原理はないでしょう。二分法的知恵自体は、何度も言うように悪いものではありませんから、それが自己中心性と結びつく必然性はどこにもない。にもかかわらず現実には、太古の昔からそうなってきましたし、私たち自身の行動や思考を振り返っても、両者はしっかりと結びついている。いつかも述べたように聖書の知恵は、原理的に証明できるものではなく、歴史、経験、心の洞察からその正しさを理解するほかはないのです。」

生物と人間@
2021年4月25日春風学寮日曜集会

創世記
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
2:1 天地万物は完成された。
2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

序 聖書の生物観
 今回は聖書の生物観について学んでみよう。つまり、生物とは何か、人間とは何か、という問題について聖書はどう考えているか学んでみようと思う。今回の箇所で神様は、先ずこう述べている。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」ここには極めて重要な二つの知恵が含まれている。一つは、神様が自分にかたどって、自分に似せて、人間を創造したということ。もう一つは、神様がその人間に他の生物の支配をゆだねたということである。この二つの知恵は、聖書の重大な特徴を形成する知恵であるばかりか、私たちの生活に重大な影響を及ぼす知恵でもあるので、詳しく学んでおく必要がある。というわけで、先ずはその一つ目の知恵、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」について詳しく学んでみよう。

1.人間と他の生物の違い
 先ずは、「我々」という言葉を片付けておこう。聖書の神様は唯一神なのになぜ自分を「我々」と呼ぶのだろうか。これは、ヘブライ語の畏敬複数という文法の用法で、王侯のような高い身分の人たちが自分のことを指して言うときに用いる敬語の一種である。きわめて高い身分の人たちは自分に対してさえ敬語を使う。日本に『吾輩は猫である』という小説があるが、ここで使われている「吾輩」は畏敬複数なのだそうだ。この用法はけっこう世界中にあるらしい。まあ、こんなことはどうでもよいことなのだが、「我々」という表現につまずかないように、一応説明しておく。
 重要なのはもちろんこの文の意味である。「我々に似せて、人を造ろう」と神様は言い、その後その通りに人間を創造したと創世記は記しているが、これはいったいどういうことなのであろうか。人間は本当に神様の形に似せて造られたのであろうか。もちろんそんなことはない。前回学んだように、聖書は基本的に物質現象について書いた書物ではない。だからこの言葉を文字通りに受け取ると科学との不毛な対立に陥ってしまう。だから、先ずは、人間は神様の形に造られたのではないということを確認しておこう。ではこの言葉は、いったいどんな知恵を伝えようとする言葉なのであろうか。
 物質現象については無視して、本質的ことだけを取り出せば、この言葉は神様が人間に自分と類似した性質を与えたことを意味している。では、神様と人間の類似点とは何であろうか。ヒントは、人間と他の全ての生物との違いである。神様は全ての生物の中で人間だけをご自身に似せて造った。ということは、他の生物にはなく、人間だけにあるものを見つければ、それが人間と神様の類似点であるということになる。では他の生物になく、人間だけにあるものとは何であろうか。すぐに思いつくものは言葉である。しかし言葉を発するその大元とは何であろうか。それはもちろん人格(自由意志を持つ主体、ここではパーソナリティのことを意味しない)である。そうなのだ。他の生物にはなくて人間だけにあるものとは人格である。他の生物たちは本能に従って生きている。彼らはいわば本能の奴隷である。ところが人間はそうではない。本能に反することを自由に選ぶことができる。言葉を駆使して、本能よりも尊いものについて考え、本能以外の行動を自由に選ぶことができる。この性質を自由意志と言い、自分で選んだ行動について責任を引き受けることのできる統一的な主体を人格と言う。他の生物になくて人間にあるものとは、そのような自由意志を行使することができる人格である。そして神様と人間の類似点もこの人格である。だとすれば、「我々に似せて、人を造ろう」という言葉が何を意味しているのかもうお分かりであろう。神様は人間を自分のような自由意志を持った人格的存在に造ろうと言っているのだ。そして実際そのように人間を創造したと創世記は伝えようとしているのだ。
 だとするとこの言葉が伝えようとする知恵が何であるかも分かってくる。神様は人間に自分と同じような人格(≒自由意志)をお与えになった、だから人間は人格のゆえに本能以外の行動を自由に選ぶことができると伝えたいのである。もっと言えば、人間が人間らしく生きるためには、本能を超えた行動を選ぶべきであると伝えたいのである。この点こそが人間が人間であるゆえんであると伝えたいのである。

2.人格と自由
 ところで人格についてはさらに掘り下げて学んでおく必要がある。人格とは、本能に縛られずに行動を選ぶことができる自由意志を持った主体であると先ほど説明した。
では、本能に縛られずに自由に選ぶことができるものとは何であろうか。食欲とか性欲とか睡眠欲とか快楽欲とか保身欲とか、そういった自分の身体を満足させるための欲望が本能であるが、それらに束縛されずに自由に選ぶことができるものとはいったい何であろうか。結論をさきに言えば、実は愛しかない。愛は自分を犠牲にしてでも他者のためにつくす行為である。その目的は、全面的に自分にはなく他者にある。だから、愛こそは(愛だけが)本能から解放された真に自由な行為なのである。
 しかし、愛の行為は別に特殊な行為ではない。私たちが日常的に行っている行為も、他者のために自分を犠牲にするような行為であるならば、それは愛の行為である。世の中には、様々な行為がある。ビジネス、学問、芸術、スポーツ、教育、料理、掃除、洗濯・・・。どんな行為であれ、もしそれを自分のために行っているならば、自分の名誉や金儲けや修行のためにやっているとするなら、その行為は依然として本能に束縛された行為である。しかしもしそれを他者のために、他者の幸せを目的として行っているなら、その行為はもはや本能から解き放たれた、愛の行為である。つまり、愛を行うことだけが自由の道ではあるけれど、愛を行う機会は私たちの日常生活のいたるところに転がっており、私たちはさまざまな方法や形でそれを実践することができるのである。本能から解放される自由の道は、いくらでもあるということだ。
 ついでながら、自由ということについても理解を深めておこう。人は一般に好き勝手に振舞うことが自由であると考えている。好きなように食べ、好きなように遊び、好きなように買い物ができることを自由と考えている。しかし、聖書が説き、そして西欧の人々が見出した自由とはそのようなものではない。真の自由とは、まさしく今述べたようなこと、すなわち本能の束縛から解き放たれて、愛を選ぶということなのだ。この違いを皆さんには、きちんと認識してもらいたい。
 そこで人格に話を戻すなら、人格とは、厳密に言えば、本能に縛られずに、自由に愛を選ぶことができる主体であると言うことができる。思い切り簡単に公式化すれば、人格=自由=愛である。これは、以降人類を支え、導き、発展させることになる超重要な思想的原理である。この原理に基づき、人間らしく生きるとはどういうことかを追求して西欧の知は発展してきた。創世記はこの思想的原理に生きることの重要性を人類に最初に伝えたのだ。

3.人格と個性
 すると一つ疑問が生じる。人格が愛を選ぶことのできる主体であるとするならば、人の人格は全て同じなのであろうか。人格の意味をこの意味のみに限るならそうである。ところが、先ほどもちらりと触れたとおり、人格にはもう一つ別の意味がある。すなわちパーソナリティという意味が。
以下、両者の関係を少し説明しよう。自由に愛を選ぶことができる主体という意味での人格は、全ての人間に普遍的に備わる同じものである。しかしその人格は同時に生来の個性を与えられていて(遺伝子?)、時と共に周囲の環境から影響を受けてその個性をさらに発展させていく。こうして人格は、愛を選ぶことができる主体を超えて、個性を持ったパーソナリティへと成長していくのだ。だから、人格には、自由に愛を選び取ることができる主体という意味と、個性を備えたパーソナリティという二つの意味があるのである。
 そこで、パーソナリティという意味での人格の理解も深めておきたい。単なる個性とパーソナリティという意味での人格との違いは何であろうか。個性とは単に変っていることであり、周囲の人々と違っているということである。例えば、たくさんタバコを吸うことやたくさんお酒を飲むことや足しげくパチンコに通うことも個性であると言いうる。ヘビースモーカーとか大酒のみとかギャンブラーとかいった人たちは、個性的な人たちだと称することができるのである。しかし、彼らを人格者と言うことができるであろうか。もちろん言うことはできまい。だから、人格という言葉には個性とは異なる要素があるのである。
 ではその要素とは何か。それこそ愛の有無である。個性が愛と結びついているとき、人はその個性を人格と呼び、そのような個性を持った人を人格者と呼ぶ。例えば、スポーツマンを例に取ろう。プロ野球選手であれ、オリンピック選手であれ、単に良い成績を上げるだけなら人格者とは呼ばれない。年間最優秀選手賞を取ろうが、金メダルを取ろうが、それだけでは人格者とは呼ばれない。しかし、その選手が障害者や被災地の人たちに元気を与えるためにいいプレイをしようとしているような場合や優れた指導力を発揮してたくさんの後輩を育てたりした場合には、その人は人格者と呼ばれる。このようにその人の個性が何らかの形で愛と結びついたとき、初めて人格と呼ばれ、愛と結びついた個性を持った人が人格者と呼ばれるのである。
 そこで聖書に話を戻すなら、神様は自分にかたどって、自分に似せて、人間を創造した。その意味は人格を持つ存在として創造したということであるのだが、そこに込められた知恵(メッセージ)は、まさしく人格的存在として生きよということであった。しかし、そしてその意味するところを厳密に言い表すならば、本能に縛られずに自由に、そして自分の個性にふさわしいやり方で、愛を選び取りつつ生きよとなるのである。
 これはそのまま春風学寮の教育方針の一つでもある。春風学寮は、皆さんが本能に縛られずに、自分の個性にふさわしいやり方で愛を選び取ることを促すために存在する寮である。すなわち皆さんの人格的発展を促すことこそが春風学寮の目的なのである。

4.人格の発展
 では、人格はどのようにして発展させていけばよいのであろうか。その重要な方法の一つを教えてくれるのが、今回の聖書箇所の最後の部分である。
 2:1 天地万物は完成された。
 2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
 2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
要するに、神様は六日間働いて天地を創造し、七日目に休まれたと書いてある。これもまた物質現象のことではない。物質現象について書いているならこれほどのでたらめはない。ではこの言葉は何を伝えようとしているのであろうか。ここに込められた知恵とは何なのであろうか。
 それは、恐らく、人間は六日働いて七日目に休むべきだということである。「神様は六日働いて天地を創造し、七日目に休息なさった。だとすれば神様の似姿として造られた人間もまた、六日間働いて七日目に休むべきである」とそう伝えようとしているのであろう。
 では、いったいなぜ人は六日間働いて一日休む必要があるのだろうか。そうすることが身体の健康に必要だからであろうか。そういうこともあるであろうが、それが中心的な理由ではない。何度も言うが聖書は物質現象について書かれた書物ではないのだから。ではなぜ六日に一度休む必要があるのか。それを教えてくれるのは、3節の最後である。そこには「第七の日を神は祝福し、聖別された」とある。この言葉からすれば、七日目に休む必要があるのは、神様から祝福を受け、聖別されるためなのである。祝福とは力を与えることであり、聖別とは清められることであるから、七日目に休む必要があるのは、神様と向き合い、神様から力を与えてもらい、神様によって清められるためなのである。いったいなぜ七日に一度神様から力をもらい、清められる必要があるのであろうか。それは人間が自分の力だけでは本能の束縛を断ち切ることができず、愛を選び取ることができないからである。人は神様から力をいただき、清められてこそ初めて本能の束縛を振り切り、愛を選ぶことができる。そしてそのような愛の選びを繰り返したときに初めて人格を発展させていくことができる。だからこそ、七日に一度は神様から力を受け、清められる必要があるのである。
 春風学寮が日曜集会を重視するのはそのためである。週に一度の日曜日だけは、聖書を通じて神様と向き合う。それは、そうすることで私たちが知らず知らずの内に神様によって清められ、力を与えられるからなのだ。もちろん聞き手に聖書をまじめに学ぼうという意識がなかったり、話し手がまずい話をしたりすれば、そのようなことは起こらない。しかし、もし聞き手が誠実に聖書の言葉に耳を傾けようとし、話し手がそれなりに分かりやすく聖書の説き明かしを行うなら、そこには不思議と神様の働きが現れ、私たちは愛を選び取るための力と清めを与えられる。これこそ春風学寮が日曜礼拝を重視する理由の重要な一つである。
 ちなみに、休日のことを英語ではholidayと言うが、holidayの語源はholy dayであり、holyとは「隔たった、完全な、神聖な」という意味である。つまり休日は本来「労働から隔たり、完全な聖なる神様と向き合う日」のことなのである。そうすることによって神様から力と清めをいただく日こそが休日なのである。単にリラックスしたり、好きなことをやったりして心身を休めるのが休日ではないのである。さらに言えば、本当に心身を休めるためには、神様と静かに向き合うほうが有効なのである。事実、休日に好きなことをやったり、リラックスしたりすれば、次の日には仕事に行きたくなくなってしまう。しかし神様と向き合って、力と清めをいただくなら、次の日のいやな仕事にもなんとか立ち向かっていくことができる。このような日曜日集会を続けていくなら、みなさんもそのようなことをいつの日か体験するだろう。

まとめ
 というわけで、最後に重要ポイントをまとめよう。@人は人格的存在として造られた。だから、人格的存在として生きるべきである。A人格的存在として生きるとは、本能に縛られずに自分の個性にふさわしいやり方で愛を選び取りながら生きることである。Bそのような生き方を続けていくには、週に一度神様と向き合い、神様から力と清めを与えてもらう必要がある。皆さんは人格的存在としていき、人格を発展させていくことを私は心より望む。
(参考:北森嘉蔵「創世記」)

寮生の感想

M君「真の自由の意味や休日の本来の意味を知って驚いた。」
寮長「キリスト教の前提がないと、わからないのも当然ですね。」
F君「本能ではなくて、愛を選んで生きよ」というのは確かに正しいように思えるけれど、なんか押し付けがましいなあ。」
寮長「これは神様にしか言えないことです。人が他の人に対してこんなことを言ったらだめです。神様が呼びかけている、それに対して私たちはどう応答するか、そこが問われているのです。聖書では、神様が絶えず呼びかけてきます。その呼びかけと誠実に向き合っていくことで、人は初めて成長していくのだと思います。」
D君「パーソナリティの定義が心に残りました。僕はバレエをやっていますが、バレエではいつもパーソナリティを表現しろと指導されます。今日の話で、なぜそのように指導されるのか、わかったような気がします。」
ON君「伝統工芸では、自分を無にしてひたすら伝統のまねをするようにと指導されます。しかしそのようにひたすら自分を無にして作り続けることで、逆説的にもそこに何ともいえない微妙な作者の個性が出てくる。今日のパーソナリティの話と通じているように思われました。」
S君「今日の話を聞いて思い出したのは、ヘルマン・ヘッセの「アウグストゥス」という小説です。この小説で、主人公のアウグストゥスが生まれたとき、母親は「この子は誰からも愛されますように」と祈った。その祈りがかなえられ、アウグストゥスは誰からも愛されるようになったけれど、アウグストゥス自身はひどい人格になり、どんどん不幸になっていった。それで母親は、今度は「この子が誰でも愛することができますように」と祈った。するとまたその祈りがかなえられ、アウグストゥスは誰をも愛するようになった。ところが、彼は誰からも愛されなくなり、それどころかいじめられるようになってしまった。しかしアウグストゥスは愛されていた頃より、愛している今のほうが断然幸せだと気づいたという話。「愛を選んで生きよ」という神様の呼びかけと通じていると思う。」
寮長「恐らくそのような小説は、聖書の神様の愛の呼びかけがあって初めて生まれてくるのだと思います。他人からいじめられても、愛するほうが幸せだという発想は人間の頭からだけでは決して生まれてこないでしょう。」
K君「仏教の人格のとらえ方との違いが面白いと思いました。仏教では人格のようなものは業の現れであって、空しいものであると考えられている。ところが聖書はずいぶんと人格に肯定的ですね。ちょっと人格に期待しすぎなのではと思ってしまいます。」
寮長「今日読んだ箇所は、まだ聖書の初めだから、人間の悪いところが全然現れていません。だからそう思ってしまうのも止むを得ないのですが、この後人間は人格(自由意志)を濫用してしまう。それを罪というわけですが、これは大きな問題なのでこれからじっくり学んで行きましょう。」
OT君「僕は休日の過ごし方にはっとさせられました。実は先日僕は、がんばった自分へのご褒美だと思って、思いっきり本能に浸ってしまいました。ゲームをしたり、おいしいものを食べまくったり、すると翌日には、今日の話の通り、本当に後悔しました。何でもっと有意義な過ごし方ができなかったのだろうかと。」
寮長「いやあ、あまり自分を責めないでください。がんばった自分にご褒美をあげることも大切です。たまには本能に浸ったってよいのですよ。今日の話は、本能だけではだめだという話で、別に本能を否定しているわけではありません。また、休日に本能に浸ってはいけない、リラックスしてはイケないというわけでもありません。ただ、それだけでは本当に生きる力にはならないから、週に一度は神様と向き会った方がよいというのが後半の話の本旨です。現代は週休二日制だから、一日はリラックスして、一日は神様と向き合うという過ごし方ができます。ひょっとすると、それが人間にベストな休日の過ごし方かもしれない。いずれにせよ、神様が本能を否定しているわけではないことは次回に話します。お楽しみに。」

 
聖書と科学
2021年4月11日春風学寮日曜礼拝

聖書:創世記
1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
1:13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。

序 真の近代人になろう
@科学的思考と宗教的思考
 聖書と科学では、扱う対象がぜんぜん異なる。科学が扱うのは、物質であり、物質が展開する現象についてである。言い換えれば、それは目に見えるものや耳に聞こえるもの、すなわち感覚がとらえることができるものを扱う。感覚的にとらえることのできるものを測定し、統計を作り、公式的原理を導き出す。それが科学である。では聖書が扱うものとはいったい何か。物質や現象以外の重要問題を扱うのが聖書である。聖書の筆者たちは、ときに大真面目に物質現象を扱っているように思われることがある。今読んだ創世記の冒頭などは、その典型的な例である。ところがそのような場合でも、彼らの中心的関心事はそこにはなく、それ以外のところにあるのである。
 では聖書の中心的関心事である物質や現象以外の重要問題とは何か。これについては三つある。一つは究極的な問題である。世界はどのように始まり、どのように終わるのか。人はどのように生まれ、死んだらどうなるのか。このような究極的な問題についてはいくら物質や現象を研究しても答えは出ない。それに対してはっきりと答えを述べるのが聖書である。二つ目は、霊的な(精神的な)問題である。聖霊とか悪魔とか人間の魂とか精神とか・・・、こういった霊的な問題についてもいくら物質と現象を研究したところで答えは出ない。神についてもそうである。神はなんだかんだ言っても霊的な存在である。物質や現象を測定してその存在を証明することはできない。ところが聖書はこれらの霊的な問題についてもはっきりとした答えを述べる。三つ目は、本質的な問題である。この世界にはどのような意味(目的)があり、私たちの命や人生にはどのような意味(目的)があるのか。最も価値のあるものとは何であり、私たちは何を目指して生きていけばよいのか。意味、目的、価値・・・、このような本質的な問題にも科学は太刀打ちできない。いくら物質や現象を研究してこのような本質的な問題に答えを出すことはできないからである。ところが聖書はこれらの問題についてはっきりと答えを述べる。世界や人生の意味(目的)はこれこれこうだ!最も価値のあるものはこれこれこうだ!だからこれこれを目指して生きよ!と。
 もちろんこれらの答えは科学の出す答えと異なってその正しさをはっきりと証明できるものではない。にもかかわらず、人間は人生経験によって、歴史によって、そして心を観察することによって、その正しさを確信することができる。科学はその正しさを測定と統計によって証明するが、聖書はその正しさを人生経験と歴史と心理を通して証するのである。
A一つの思考のみに依存する危険
 日本人の多くは聖書の展開するような宗教的思考を作り話だと言って馬鹿にする。そして科学ないしはその子分である常識だけを頼りに生きていこうとする。これはとんでもない間違いである。なぜなら、本当に重要な問題の答えは、科学ではなくて聖書のような宗教的思考が与えてくれるのだから。世界や人生の意味(目的)とは何かとか、最も価値のあるものは何かとか(本質的な問題)、死んだらどうなるのかとか、この世界は最後にはどうなるのかとか(究極的な問題)、人間の精神とは何かとか、神とは何かとか(霊的問題)とかいった最重要問題について答えを教えてくれるのは聖書が展開するような宗教的思考なのだから。
 だから、聖書を読むなどして宗教的思考を身につけない人たちは、このような最も重要な問題について深い洞察ができずに混乱に陥る。その結果、いったい自分が何のために生きているのかわからない、という深刻な悩みを抱くようになる。あるいは逆に、そういう重要な問題にはなるべく目を向けないようにして、お金儲けや遊びや快楽へと逃げ込むようになる。国を治めたり、会社を経営したり、家庭を営もうとするときには、建設的なビジョンが持てずに、目先の利益にしか目を向けられなくなる。あるいはこの世界や人生には何の意味もないのだという虚無主義に陥る。かく言う私も聖書に出会って宗教的思考を身につけるまでは、この世界には何の意味もないと思っていた。強い者だけが生き残る弱肉強食の世界であると思っていた。弱い者は、食って眠って繁殖して消え去っていくだけのものだと思っていた。宗教的思考を無視して、科学的思考のみを頼りに考え、人間をただの物質と考えるなら、これは当然の結論であろう。以上いろいろなことを述べたが、要するに、これほどまでに科学的思考のみを頼りに生きていくことは危険であるということだ。
 他方、聖書に展開されるような宗教的思考だけを頼りに生きていくのも危険である。そのような態度を取る人たちは、科学的成果を軽視するために、客観的思考ができず、独善に陥り、自身の主観的な正義によって人を裁くようになる。歴史を振り返れば、そのような宗教的独善によってなんと多くの殺人や戦争が行われてきたことか(十字軍、30年戦争、宗教裁判・・・)。先の大東亜戦争も天皇を現人神とする宗教的独善によって引き起こされたという見方もできる。オウム真理教徒が、自身の勝手な正義観によって数々の無差別殺人を行った事件は記憶に新しい。これらのことを思い出すならば、宗教的思考だけを頼りに生きていくことがどんなに危険であるか、すぐに理解できるであろう。
 というわけで、私たちには科学的思考と、聖書に代表されるような宗教的思考との両方が必要である。どちらか一方しか持たないでいると人間は、偏った人間になる。今ざっと見ただけでもわかるように、科学的思考しか持たないなら、人は人生の最重要問題に関する洞察力を失い、混乱に陥り、目先の利益に走る。他方宗教的思考しか持たないならば、独善に陥り、それによって人を裁くようになる。そうならないように、科学的思考を宗教的思考の両方を身につける。それが、真の近代人になるということである。

1.聖書の読み方
 このような知恵は、そのまま聖書の読み方に応用できる。つまり、聖書を読む場合には、物質や現象に関する真実を求める科学的思考で読んではいけないということを教えてくれるのである。例えば、今日の箇所をもう一度読んでみよう。ここには物質と現象に関する記述が満ち溢れているように見える。
 1:1 初めに、神は天地を創造された。
 1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
これらは一見物質や現象に関す記述である。だから古代や中世の人々は、これらの記述をそのまま真実であると信じた。しかし私たちはそのような読み方をしてはならない。明らかに科学に反する記述は物質や現象の記述としては間違っていると考えてよいのである。
 しかし科学に反するからと言って、これらの記述の全てをナンセンスであると全て切り捨ててもいけない。物質や現象に関しては間違っているこれらの記述も、それら以外のことについては、重大な知恵を伝えているからである。すなわち@究極的な問題に関する知恵、A霊的問題に関する知恵、B意味(目的)や価値に関する本質的問題に関する知恵を含んでいるからである。私たちの人生を導くこれらの重要な知恵をこの創世記の冒頭はすでに含んでいる。それらの知恵を読み取ろうとする宗教的思考で読むことこそ、聖書の正しい読み方なのである。
 ではここにはどんな知恵が埋まっているのか。創世記はまず「神は、天地を創造された」と述べる。ここでまず私たちを困らせるのは神という言葉である。聖書は神が存在するということを当然の前提として話を進めていく。つまり「神は存在する」というのが、聖書の提示する最も根本的な知恵なのである。科学的思考のみを頼りにすることに慣れている私たちは、「神なんているのかよ」と思ってしまう。しかし、神が存在するかどうかという問題に科学が答えられるだろうか。もちろん無理である。神は物ではない。むしろ霊的存在である。そのような存在の実在を証明したり、否定したりすることなど科学にはできないのだから。そのような存在を感覚的に観察し、統計を取り、その存在原理を抽出することなど不可能なのだから。
 では「神は存在する」という知恵を正しいと簡単に認めてしまってよいのだろうか。これまた間違いであると言ってよい。なぜなら、先ほども述べたように、聖書の差し出す知恵は人生経験と歴史と心理を通じてその正しさを明かししていくものだからである。だから、その知恵を正しいと認めるためには、私たちもまた人生体験を積み、歴史を学び、人の心理を深く洞察していかなければならない。「神は存在する」というような大きな知恵は、そのような一定期間の鍛錬があってこそ受け入れるべきことであり、またそうでなければ受け入れられないはずのことなのである。ですから皆さんがここで求められていることは、結論を急がずに、先ずは、神は存在するのかという問いを持ち続けることである。

2.神とはどのような存在か
 では神とはどのような存在か。それはここからだけではわからない。それは聖書全体を通して学んでいくべきことなのだが、幸い聖書にはこの問題についてはっきりと答えた箇所があるので、そこを引用してみよう。新約聖書のヨハネの手紙一の4章を開いてほしい。そこにはこうある。
 4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
 4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
ここに神がどのような存在かはっきりと記されている。神は愛であり、人間を愛し、人間に愛をもたらす存在なのである。これこそ聖書全体を貫く、もう一つの根本的な知恵である。
 「神は愛である」、これまた受け入れがたい言葉である。神が存在するということだけでも受け入れがたいのに、神が愛であるという知恵はさらに受け入れがたい。なぜなら私たちは神の愛を感じたことなど一度もないからだ。しかし、聖書を記したユダヤ人たちは神の愛を感じて生きていた。そして彼らは今も神の愛を感じつつ生きている。キリスト教徒も同じだ。2000年前から今日にたるまで彼らは神の愛を感じながら暮している。彼らは日常生活のいたるところに、そして歴史の展開のあちこちに、さらには心の中の奥深くに神の愛を見出しつつ生きているのである。というわけで、聖書から私たちが学ぶべき第二の知恵は、「神は愛である」ということである。

3.世界の意味
 神は愛である。この知恵を確認した上で、創世記1:1に戻るなら、この個所が何を伝えようとしているかわかってこないだろうか。それは、要するに、愛の神が愛するためにこの世界を創造したということを伝えようとしているのである。「初めに、神は天地を創造された」という無味乾燥な記述は、神は愛であるという知恵に照らして読むならば、一気にその意味を理解することができる。それは、愛の神が愛するために世界を創造したということを伝えようとする記事なのである。神がもし愛なのだとすれば、必ず愛する対象が必要になってくる。そこで神は自分が愛を注ぐ対象として世界を創造した。つまり、この世界は神がその愛を注ぐための対象として造られた。これこそ天地創造の記事に込められた第三の知恵である。
 そのような視点から続く箇所を読んでいくならば、それらが意味するところも結構簡単に理解することができる。すなわち続く箇所は全て、愛の神が実際に自身の愛によって万物を一つ一つ心を込めて創造していく様を描いているのである。
 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
 1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
 1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
 1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
 1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
 1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
 1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
 1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
 1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
 1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
創世記の筆者は、実際にこのとおりにいろいろな物質や生物が創造されたと主張したいわけではない。そう信じていたかもしれないが、彼が本当に語りたいことは物質や現象についてではないのだ。では筆者は何を語ろうとしているのか。神は愛であるという基本に基づいて考えれば答えは簡単である。神は一つ一つのものを愛によって素晴らしいものに造ったと主張しようとしているのである。光ができたのは実際にはビッグバンのためである。空や海や山ができたのは、実際には何十億年にもわたる地球のマグマ活動のためである。植物が誕生したのは、実際にはアメーバからのたゆまぬ進化のためである。しかしたとえそうであろうとも、それらのすべての現象の背後には神の愛が働いている。つまりこの世界の物質や生物の一つ一つは根本的には神の愛の働きによって作られた、だからこそこの世界の万物は美しく素晴らしいのだと、と創世記の作者は主張したいのだ。

4.まとめ
 というわけで、まとめるなら、今日の箇所が伝えようとしている知恵(メッセージ)は、次の四つである。@神は存在する。A神の本質は愛である。B神は愛するためにこの世界を創造した。C神は万物の一つ一つを愛をこめて素晴らしいものへと創造した。
 これらはいずれも科学によっては決して導き出されることのない知恵である。そしてもちろん科学的に証明することのできない知恵である。にもかかわらずこれらは、数千年にわたるイスラエルの民の体験と歴史とそして心理的洞察によって見出された知恵である。だから、私たちはこれらを安易に否定することも肯定することもできない。私たちは自身の体験と歴史的学びと心理的洞察を深めることによってのみそれらの真偽を確かめることができるのである。                          (参考:北森嘉蔵『創世記』)

寮生の感想
K君「三つ質問があります。@寮長が神の愛を感じた時とはどういうときですか。それから、A哲学的思考と宗教的思考とはどう違うのですか。両方ともよく似ているように思えるのですが。最後にB原理主義と宗教的思考の関係についても教えてください。これまた似ているように思えるのですが。」
寮長「これはいずれも鋭い質問ですねえ。先ずはBについて。原理主義は基本的に聖書などの聖典のうちに絶対に正しい原理のようなものが書かれていて、そこに書かれていることはすべて正しいという考え方です。これは宗教的思考のみを頼りに思索を進めていった場合の極端なパターンです。この原理主義の最大の欠点は先ほど言いましたように、独善に陥り、聖典の原理と相いれない者を裁くようになることです。ここから差別や戦争やテロが生まれてくる。だから、私は原理主義には反対です。
次にAについて。哲学的思考は、基本的には理性をよりどころとしますから、それを突き詰めていくと科学と似たものとなっていきます。事実現代の哲学は数式のオンパレードです。だから、宗教的思考が扱うような問題(究極的な問題、霊的な問題、本質的な問題)にはだんだん答えなくなっていく。プラトンなどは結構そういう問題を扱っていますが、時代が進むにつれて、そういう問題はどんどん扱われなくなっていきました。だから、哲学的思考ではやはり不十分。理性〈ロゴス〉の呪縛から解放された宗教的思考が必要なのです。
最後にBについて。私は子供を癌で亡くしたことがあります。その時には、愛の神など存在しない、人生には何の意味もない、人はただむなしく死んでいくだけなのだと思いました。そう思うと生きる気力が失われ、どんどん生活がすさんでいきました。ところが、聖書のキリストの十字架と復活の記事を通じてひょっとすると死がすべての終わりではないかもしれないと思うようになりました。するとなんだか生きる気力が湧いてきて、生活がどんどん好転するようになりました。このような体験を通じて、私は神の愛を感じるようになったのです。このことについては、いつかもっと詳しく話しましょう。」
S君「神の愛を感じるためには、やはり絶望体験のようなものが必要なのでしょうか。」
寮長「確かに絶望的な体験をすれば、神を信じるか否かという究極の選択を迫られます。だから、そういう体験を持ったほうが神の愛を感じる可能性が高い。しかし、それはあくまでも可能性の問題です。その人の時が熟していけば、聖書のたった一つの言葉によって神の愛が感じられるようになることもあります。結局、きっかけはいろいろです。絶望体験にこだわる必要はないと思いますよ。」

 
聖書の基本(要約と寮生の感想)
2021年4月4日春風学寮日曜集会

出エジプト記
20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。
20:5 「・・・わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」
ヨハネによる福音書
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

1.旧約聖書と新約聖書の違い
 旧約聖書:律法を守る→現世での成功(物質的恵)
 新約聖書:イエスを信じる→来世での永遠の命、現世では霊的恵
もちろん実際にはこれほど単純ではなく、旧約聖書の中にも新約聖書の内容と一致する記事があるし、新約聖書の中にも旧約聖書の内容と一致する記事がある。にもかかわらずその要旨を大胆に単純化するなら、上記の図のようになるのである。
2.誰が聖書を書いたのか
 旧約聖書を書いた直接の筆者は、ユダヤ人の祭司や預言者や王たちである。だから旧約聖書は元々ユダヤ人の言葉である古代ヘブライ語(ヘブル語)で書かれた。対して新約聖書を書いたのはイエスの弟子たちであり、イエスの弟子たちは世界中の人々にイエスのことを述べ伝えようとした。だから新約聖書は異邦人にも通用する当時の国際語である古代ギリシア語(通称コイネー)で書かれた。
 しかし、彼らは自分勝手に聖書を作り上げたのではない。自分たちが先祖から伝え聞いた神様に関する物語(神話)と自分たちが目撃した神様の活動(史実)とそして自分たちが直接示された神様の教え(啓示)を書き写したのである。その意味で聖書の本当の作者は神様であるというのが、聖書の大前提である。
3.聖書と事実
 聖書の筆者たちは、自分たちが先祖から伝え聞いたこと(神話)と実際に目撃したこと(史実)と神様から示されたこと(啓示)を書いている。だから、聖書に書かれていることのすべてが事実であるとは言いがたい。そこには書かれていることは、しばしば神話と史実とそして啓示の混合物なのである。
 だから、聖書に書いてあることのすべてを事実として鵜呑みにしてはいけないし、かといって、そのすべてを作り話として切り捨てることも許されない。いや、はっきり言ってしまえば、事実かどうかにこだわって読むのは、正しい読み方ではない。聖書に記されていることのほとんどは、事実かどうかなど確かめられないのだから。
 では、どのようにして聖書を読むのが正しいのか。正しい聖書の読み方とはどのようなものなのか。筆者が伝えようとしているメッセージを探りつつ読むこと、もっと言えば、筆者の筆を促している神様のメッセージを探りつつ読むこと、これこそ正しい聖書の読み方である。
4.寮の立場 
 春風学寮は、基本的にはキリスト教を支持する立場にある。つまり寮長も寮の理事長も、イエスを信じるならば永遠の命(霊的恵)が与えられると信じている。しかし、春風学寮は、普通のキリスト教とは少しだけ違った立場に立っている。では、どう違うのか。春風学寮は、別にイエスを信じなくたってよいと考えているのである。イエスを信じるに越したことはないが、たとえイエスを信じなくても、イエスについて学び、イエスを深く知りさえすれば、自ずから永遠の命や霊的恵が与えられると考えているのである。そしてイエスを学ぶことを通して、若者たちに永遠の命や霊的恵を若者たちに与えることこそ真の教育であると考えている。
 だから、春風学寮が君たちにイエスへの信仰を強要することなど絶対にない。信仰をもってもらいたいと思ってはいるが、別に信仰を持たなくたってかまわないと考えている。では寮が君たちに望むことは何か。聖書を学び、イエスについて学ぶこと、ただそれだけである。聖書とイエスについて学び、イエスから命と霊的恵(清め)を受けること、これこそこの寮が君たちに最も望むことであり、この寮のよって立つところである。ぜひとも聖書とイエスについて学び、そこから命と霊的恵を受け取っていただきたい。それは将来君たちにとって途方もない精神的財産(spiritual asset)となるはずだ。

寮生の感想
I君「寮長は神様を本気で信じてるんですか?」
寮長「さっきそう言いましたよね。聞いてなかったの?」
I君「あやしい・・・。」