聖 書 集 会

塚本聖書画像 春風学寮では毎週日曜日の午前中を、人類不朽の古典である聖書の学びにあって、若人の人生観を陶冶することを目指しています。 創立者道正安治郎氏は聖書の学びを内村鑑三、塚本虎二両氏に師事し、純粋なキリスト教信仰に基づく寮運営を目指しました。 現在でも全く同じ方針によって春風学寮は日々運営されています。 毎週の聖書集会では小舘美彦寮長を中心に、多彩な個性を持つOB諸氏、寮関係者による聖書の講解がなされます。
イエス誕生の意味
2020年12月19日春風学寮クリスマス礼拝

聖書 マタイによる福音書
◆イエス・キリストの誕生
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

序 クリスマス礼拝
 今日は、クリスマスというイエスの誕生を祝うための礼拝なので、イエス誕生の意味について簡単に学ぼう。

1.聖霊による身ごもり
 イエス誕生の記事はこう始まる。
  1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
一見して明らかなとおりこれは、イエスが人間の女であるマリアと聖霊の子供であることを示す記事である。これが果たして事実なのかどうか、そんなことは考えてもしようがないので、考えない。考えるべきは、この記事は何を意図して書かれたかということだ。それを教えてくれるのは1:21の天使の言葉である。
  1:21 「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
イエスは、自分の民イスラエルを、ひいては自分の同胞である全ての民を、罪から救うために神によってこの世に生み出された。ここにこそイエスが聖霊と人間の間の子供であったという記事の本質がある。
 しかし、そう言われてもさっぱりわからないであろうから説明しよう。罪とは自己中心性である。人は誰でも自己中心的に生きている。その意味で人はみな罪人なのである。そのような人間を自己中心性から救うためにはいったいどうすればよいであろうか。自己中心的な行為を禁ずる掟を定めて、それに反したら処罰すればよいのであろうか。無理である。掟を定めて処罰すれば行動的には自己中心的でなくなるであろう。しかし心の中の自己中心性まで取り除くことはできない。事実イスラエルの民は行動では掟を守りながらも、心の中はどんどん自己中心的になっていった。自分たちこそ最高の民族(選民)であるとおごり高ぶっていったのだ。だから、掟と処罰では人を自己中心性から救うことはできない。
 ではどうすればよいのか。完璧に愛せばよいのである。人は完全に愛されたときに自己中心性を捨て去る。自分が苦しんでいるときに、誰かがその苦しみを分かち合い、その苦しみから助けようとして身を犠牲にしてくれたとき、人はその人のためなら自分を犠牲にしてもよいと思う。それだけでなく、自分も他の人にそのようにしてやろうと思う。こうして人は自己中心性を捨て去る。つまり、完全な愛だけが人を自己中心性から救い出し、その人の心に愛を宿らせるのである。
 では、そのような完全な愛を実行できる存在とはどのような存在であろうか。実は神ではない。神は愛の思いは持っているがその愛を実行することはできない。なぜなら神は、永遠に生きる存在であるために、弱い人間の苦しみを分かち合うことはできないし、自分を犠牲にすることもできないからだ。確かに神ならいくらでも人を助けることができる。いくらでも人を豊かにし、健康にし、永遠の命さえ与えることができる。しかし、神には苦しんでいる人と苦しみを分かち合うことはできないし、その人のために自分を犠牲にするということもできない。神は永遠の存在だから、苦しむことなどできないし、自分を犠牲にすることもできないからだ。そのことは神ご自身がよくご存じであった。そのような自身の限界(完全であるゆえの限界!)を補うためにこそ、神は自身の思いである愛をこの世に遣わし、人間として生まれさせたのである。他人のことはいくらでも助けることができる神の利他的な能力と、自分自身を助けることができない人間の弱い性質とを合わせ持った存在として自身の愛の思いをこの世に生まれさせたのである。そのような存在なら、人間の苦しみを分かち合い、身を犠牲にして人間を助けるという完全な愛を実行できると考えて。かくしてイエスは生み出された。
 このように理解するなら、イエスが聖霊と人間の女との間に生まれた子供であるという記事の意図も見えてくる。この記事は、イエスがまさしく完全に愛を実行できる唯一の存在であることを伝えようとしているのである。すなわち神としての利他的な能力と人間の弱さを合わせ持った唯一の存在であることを伝えようとしているのである。天使がイエスについてインマヌエル(神は我々とともにおられる)と呼ばれると預言したのはこのためである。ルカによる福音書では、イエスが馬小屋で生まれ、羊飼いによって発見されたと書かれているのもこのためである。その後もヘロデ王から逃げ回らなければならないのもこのためである。これらはすべてイエスが、人間としての弱さを背負い、弱い人間と共にあることを示す記事なのである。事実、イエスはまさしくそのような存在として活動し、生涯を終える。

2.東方の三博士
 続くシーンは、東方の三博士と呼ばれる異国の占星術学者の来訪である。
  2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
  2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
この来訪はいったい何を意味するのであろうか。この来訪は、全ての事象がイエスが救い主であることを指し示していると伝えようとする記事である。学者がイエスの誕生を祝いに来たということは、学問がイエスが救い主であると指し示しているということである。彼らが追いかけてきた星が眠っているイエスの上に止まったということは、自然がイエスが救い主であると指し示しているということである。そして、ヘロデ王の相談を受けたユダヤ人の祭司長や律法学者が救い主(メシア)が生まれた場所を聖書から割り出したということは、聖書も宗教者もイエスが救い主であると指し示しているということである。このようにすべての事象がイエスが救い主であると指し示しているということを東方の三博士に関する記事は伝えようとしているのだ。
 しかし、この記事で最も重要なのは、おそらくイエスの誕生を祝いに来た最初の人間が異国の占星術の学者であるということである。このことを通じて筆者のマタイは、イエスが救い主であるということはユダヤ人ではなく、外国人によって立証されていくということを伝えようとした。いやもっと言えば、世界中の人々によって立証されていくということを伝えようとしたのだ。
 つまりこの記事は、どこからどう見てもイエスが世界中の民の救い主であるということを伝えようとしているのである。

3.ヘロデ王
 最後にヘロデの記事について考えよう。ヘロデは当時のイスラエルの王であるが、占星術の学者から救い主が生まれると聞くと、自分の地位が脅かされるのではないかと恐れた。そこで救い主を殺そうと思い、学者たちに救い主を見つけたら知らせるようにと命じた。ところが、学者たちは救い主を見つけたにもかかわらず、そのことをヘロデに知らせずに国へ帰ってしまった。そこで彼は救い主が生まれると預言されていた辺り(ベツレヘム)一帯に住む二才以下の子供をすべて殺すという暴挙に出た。
  2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
なんと残虐で陰惨な記事であろう。このような記事を救い主誕生の記事に併記した筆者の意図はいったい何か。
 それは、救い主が罪深い権力者によって無抵抗で殺される定めにあることを示すことである。救い主は身を犠牲にして人を助ける。だから圧倒的に人気が出る。それは権力者にとっては脅威である。だから、権力者は必ず救い主を殺そうとする。しかし、救い主はたとえ殺されそうになっても決して抵抗しない。赤ん坊のように無抵抗で殺されていく。なぜなら、救い主は自分を救うために生まれてきたのではないからだ。自分を犠牲にしてまで人を助けようとすることによって、人の自己中心性を取り除くために生まれてきたからだ。そのような救い主が、どうして自分の身を守るために戦うことができようか。かくして救い主は必ず権力者によって殺されることになる。そのことを示すために筆者は、ヘロデによって赤ん坊が殺される記事をイエス誕生の記事に併記したのである。

4.まとめ
 まとめるなら、イエスは人を完全に愛するために生まれてきた。そのために人を助けるための神の利他的能力と人の苦しみを分かち合い犠牲になるための人間の弱さとを合わせもって生まれてきた。イエスが聖霊と人間の女との間にできた子供であるという記事は、その本質を表すための記事である。
 完全な愛を実行する者は人気が出る。世界中の人に受け入れられる。その故にこそ権力者からは疎まれる。権力者はそのような者を必ず亡き者にしようとする。そして愛を貫こうとする者はその陰謀に逆らいえない。だから、完全な愛を実行する者は、必ず殺されることになる。ヘロデが赤ん坊を殺したという記事は救い主のそのような定めを表すための記事である。
 そこで私たちは、考える必要がある。イエスの誕生を祝うとはいったいどういうことであろうかと。イエスが誕生したことの一体何がおめでたいのかと。確かにイエスの示した完全な愛のために無数の人々が罪から救われ、愛の人となった。これは確かにおめでたいとことである。だから、イエスの誕生は人間にとっては確かに喜ぶべきことである。しかし、イエス自身についてはどうなのであろうか。イエスにとって、自身の誕生は殺されるために生まれてきたということなのだ。これは果たしておめでたいことなのであろうか。
 イエスは完全な愛の人だから、たとえ自分が殺されるために生まれたとしても、喜んでそれを受け入れたであろう。しかし、他の人間にその誕生を手放しでおめでたいと喜ぶ資格があるであろうか。恐らくはない。
 だから、クリスマスはバカ騒ぎをして祝うものではない。それどころか、それは本来殺されるために生まれてきたイエスのために涙を流し、その悲しみを分かち合うべきものなのだ。そうすれば、私たちからは、本当に自己中心性が取り除かれていく。この清めをしめやかに喜ぶことこそが、真にクリスマスのあるべき姿なのである。
 いや、こう言うと誤解されるかもしれないのできちんと言い直そう。別に喜び騒いでもよいのである。ただ、本当のクリスマスの意味を理解し、一度はしめやかな時間を持つ必要があると私は言いたいのだ。そのようにして、イエスから自己中心性を清められる時間を一度は持つ必要があると私は言いたいのだ。最初から最後まで喜び騒いで終わるなら、それこそバカ騒ぎであり、時間の無駄である。これまでに何度私はそのような虚しいクリスマスを経験したことか。そのような虚しいクリスマスを皆さんには過ごさないでいただきたい。
 最後にバッハ作曲の讃美歌107番を共に歌おう。これこそクリスマスの真の意味を明確に表した讃美歌である。これを歌って、イエス誕生の意味について考え、しばし清めの時間を過ごそう。

 
アブラムの旅立ち
2020年10月4日春風学寮日曜集会

聖書 創世記
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。

序 復習+α
 前回は、バベルの塔の物語を通して、人間の自由意志の暴走の危険性と集団組織的協力の危険性について学んだ。人間の自由意志は、まさしく自由であるため、暴走する可能性がある。本能は満足したところで欲望の追求を停止させるが、自由意志にはそのようなことはない。無限に欲望を追求し続け、自滅する方向に向かう可能性を秘めている。自滅するだけならまだしも他の生物まで滅亡させかねない。それほどに自由意志には危険な面がある。だからこそ、人間は神を信じる必要があるのである。神を信じ、神の御心である愛を重んじてこそ、自由意志の暴走に歯止めをかけることができる。もし人間が神を見失い、愛を重んじないなら、組織を作って集団で協力することなど止めた方がよい。一人ひとりでは無力な人間も、協力するならば巨大な力を持つことができる。愛を重んじない人間が巨大な力を持ったならいったいどうなるであろうか。その先にあるのはまさしく破壊でしかない。というわけで、神を見失い、愛を重んじない者は、集団組織的協力を行うべきではないという知恵が出てくるのである。
 しかし、神がいくらそのように呼びかけても、そしていくら中規模レベルの介入を行ってその方向に促しても、人間は自由意志を暴走させ、神なき集団組織的協力を開始する。人間は、無限に欲望を追求して自由意志を暴走させずにいられないのである(これを罪と聖書は呼ぶ)。こうして人類は巨大な力を結集させ、各地で文明と呼ばれるものを作っていった。メソポタミア文明、エジプト文明、黄河文明、インダス文明・・・。このように危険な人間は本来なら直ちに滅ぼされるべきなのだが、神は二度とそのようなことはしないとノアと約束したので、じっと我慢して耐えている。そして、呼びかけと中規模レベルの介入によって、人間を神と愛の方への方向転換へと促すことに徹するのである。ちなみにこの方向転換のことを聖書では悔い改めと言う。
 さて、今回の箇所では、神は人間を神と愛への方向転換(悔い改め)へと促すために、再び中規模レベルの介入を開始する。では、それはいったいどのような介入であろうか。以下、読んでみよう。

1.生まれ故郷を捨てよ
 今回の箇所は次のように始まる。
  12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」
ここでいきなりアブラムという男が登場する。このアブラムとはいったい何者か。彼の正体をよく知るためには、この章の前に記されている系図について少し学んでみる必要がある。少し退屈な作業であるが、世界史とも関係する重要な情報が含まれているのでお付き合い願いたい。
 10章の系図によれば、ノアにはセム、ハム、ヤフェト(別訳ヤぺテ)という三人の息子が生まれた。セムは、アラビヤ人やヘブライ人(ユダヤ人)の祖先であり、ハムはエジプト人や北アフリカ人の祖先であり、ヤフェトはヨーロッパ人の祖先であると言われている。これが本当かどうかは怪しい。事実かどうかはわからないけれど、セム、ハム、ヤフェトの名は古来各民族を分類するために使われるようになり、アラビヤ人とヘブライ人はセム族、エジプト人と北アフリカ人はハム族、ヨーロッパ人はヤフェト族と呼ばれるようになった(現在ヤフェト族はセム族でもハム族でもインドヨーロッパ族でもない人種、すなわち東欧・西北アジアの諸族の総称へと変わっている)。教養として覚えておこう。
 さて、アブラムだが、アブラムはそのセムから数えて10代目の子孫にあたる(11章)。アブラムの頃には、セムの子孫たちは西アジア一帯に拡散し、各地で繁栄していった。この中からメソポタミア文明が生まれるわけである(実はメソポタミア文明のほうがセムより古いのだが、聖書ではセムの方が古いことになっている。事実については聖書は相変わらずいい加減である)。11:28によれば、アブラムの生まれ故郷は、カルデアのウルという町である。カルデアというのは聖書ではバビロニア王国の別名であり、ウルはバビロンと並ぶバビロニア王国の中心都市であった。考古学的研究によれば、ウルには王宮があり、ユーフラテス川から引いた運河があり、巨大な塔(ジッグラト)があったことも分かっている。つまり、アブラムの生まれ故郷のウルはバベルのような文明都市であったのだ。
 このような背景を理解した上で、「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」という神の呼びかけを読むならば、この呼びかけの背後にははっきりとした理由があると理解できる。神はアブラムを、神も愛も重んじないままに自由意志を暴走させて無限に欲望を追い続ける文明都市ウルから引き離したかったのである。
 だとすれば、この箇所に込められた第一の知恵がわかってくる。自分の所属する組織集団が自由意志を暴走させて愛に反することばかりやっている場合には、そこを抜け出さなければならないと言っているのだ。これは、神を見失い、愛を重んじない者たちは、組織的協力を行うべきではないという前回学んだ知恵の応用とも言うべき知恵である。神と愛を重んじない者たちは組織的協力を行うべきではないと言われても、私たちは自身で選択する以前に、すでに何らかの組織集団に組み込まれている。家族、学校、会社、国…。もし自分が組み込まれているこれらの組織集団が神も愛も重んじない集団だったら、どうすればよいのであろうか。この問いに答えるのが、12:1の言葉である。ここで神は、私たちに力強く訴えている。神も愛も重んじない組織集団には別れを告げよと。もちろん、半沢直樹のようにその組織を変えていくことができるならば、それに越したことはない。しかし、ほとんどの人間は彼ほど優秀ではないし、根性もない。だから、組織を変えようとしても、逆に叩き潰されるだけである。そのようなときにはどうすればよいのか。やはり組織集団から抜け出すほかはないであろう。今日の箇所の神の第一声は、そうすることの重要性を伝えようとしているのである。
 この知恵との関連でどうしても語らずにいられないのは、大東亜戦争のときの日本の姿である。この戦争を始めたとき、日本人はそれが愛と正義のための戦争だと教えられ、多くの日本人はそれを信じた。大東亜共栄圏という理想が掲げられ、欧米の侵略からアジアを守るのだと本気で信じた。ところが戦争が始まってみると、その理想はだんだん怪しくなってきた。戦況が悪くなるにつれて、日本軍はどんどん悪いことをやり始めた。アジア諸国民を守るどころか、彼らから資源を搾取し、彼らを奴隷のようにこき使い、女を慰安婦にしたり、逆らう者を虐殺したりした。軍の上官のほとんどは地位を笠に着てうまい汁を吸いたがる卑劣漢に変わり、自国の国民でさえ奴隷のようにこき使った。その果てに学徒出陣やら神風特別攻撃隊やら沖縄の集団自決やらといった悲劇が生み出されていった。これでは欧米諸国よりも悪いではないか。かくしてこの戦争の後半には、日本全体が愛と正義とは逆の方向に向かっていることは明らかとなった。にもかかわらずである。にもかかわらず、日本人のほとんどは、日本政府を支持し、日本軍を支持し続けた。そして政府や軍に協力しない者を非国民と言って蔑み、虐待し続けた。いったいなぜか。当時の日本人にとっては、もはや愛や正義よりも祖国愛(愛国心)のほうが断然重要なものとなっていたのだ。同じ愛でも、聖書の説く愛と祖国愛の愛とはだいぶ異なる。聖書の説く愛は、自分を犠牲にしてでも他者のために尽くそうとするものであるのに対し、祖国愛はしばしば自国のために他国を犠牲にするという傾向を持つ。事実日本人の愛国心は、当初はアジア諸国を助けるという目的を掲げていたが、次第に自国のためにアジア諸国を犠牲にする方向へと向かっていった。祖国愛とか愛国心とかいったものは、たいていこうなってしまうのである。
 このような日本の歴史を振り返ればよく理解できるように、組織集団に対する人間の愛は実に強烈である。祖国であれ、民族であれ、会社であれ、学校であれ、スポーツチームであれ、人はいったん組織集団に所属すると自分の所属する組織集団を強烈に愛するようになる。そしてそのような組織集団愛にとらえられてしまった者は、自分の組織集団のためにたやすく外部の者を犠牲にするようになる。このことは、自分の所属する人種以外の人種をぼろくそに批判するヘイトスピーチの人たちや自分のチームのために犯罪まがいのことを平気でやるサッカーファン(フーリガン)を見ても明らかであろう。それほどに人間の組織集団愛は強烈であり、危険なのである。だからこそ神は、あなたの所属する組織集団が神も愛も重んじないようなら、その組織集団を捨てなさいと私たちに呼びかける。
 春風学寮も組織集団である。だから学寮への愛が大きくなるならば、真の愛に反すことをやるようになりかねない。もしそのような方向に向かうようであったら、先ずは真の愛へと方向転換するように寮の運営者に思い切って忠告して欲しい。しかしいくら忠告してもだめならば、寮を捨てたってかまわない。愛のない春風学寮なんて、とっとつぶれたほうがましなのである。

2.なぜアブラムは生まれ故郷を捨てることができたのか
 しかし、集団組織を捨て去るのは難しいことである。もし自分の所属集団から抜け出すならば、人は大きな不利益を被る。いやな高校だからと言って高校を辞めてしまえば、高校中退というレッテルを貼られてしまう。いやな会社だからと言って会社を辞めてしまえば、忍耐力や責任感がない、非社交的な人間だと言われてしまう。生まれ故郷を捨てれば、親類縁者友人の助けは得られなくなり、薄情だと言われてしまう。国に愛想を尽かして国の政策に反するようなことをすれば、裏切り者と言われ、非国民と言われる。だから、自分の所属する組織集団を捨てることは非常に難しい。組織集団を変えることは極めて難しいことだが、組織集団を捨てることも負けず劣らず難しいのである。
 にもかかわらずアブラムは、神の言葉に従ってその一歩を踏み出した。生まれ故郷に見切りをつけて、神が示す地を目指して出発した。しかも75歳という高齢で。いったいなぜそのようなことができたのであろうか。それを教えてくれるのが、続く神の言葉である。
  12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
  12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
いろいろなことが書かれているようであるが、要するに神はアブラムと共にいて、アブラムを守ると約束したのである。「あなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める」とはアブラムとその子孫を守り繁栄させるということである。「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う」とは、アブラハムに味方する者を神は守り、アブラハムに敵対する者を神は打ち倒すということである。要するにこれらはみな、神はアブラムと共にいて、アブラムを守り抜くという約束である。この約束を信じればこそ、アブラムは75歳にして生まれ故郷を捨てるという大胆な行動をとることができたのである。
 このような物語が、私たちに伝えようとする知恵とは何であろうか。それは恐らく、困難な仕事を成し遂げようとするならば、信仰が必要だということである。生まれ故郷を捨てるなどという難しい仕事は、人間の個人的な勇気や能力によって成し遂げられるものではない。神を信じ、神が共にいてくださるという約束を信じることができてこそ、初めて成し遂げることができる。私たち凡人が困難な仕事を成し遂げるためには、信仰が必要なのである。いや逆に言えば、信仰さえあれば、凡人ですらきわめて困難な仕事を成し遂げることが可能なのである。アブラムは信仰を通じて生まれ故郷を捨てるという極めて困難な仕事を成し遂げた。つまり自分の実力をはるかに上回る困難な仕事を成し遂げた。その故に彼は、以降信仰の父と呼ばれるようになったのである。皆さんも、実力以上の仕事を成し遂げようと思うなら、神を信じ、神の約束を信じることである。これこそ神が与えてくださった自由意志をもっとも正しく用いる方法の一つである。

3.信仰に代わるもの
 しかし、信仰というのはなかなか持てるものではない。いつかも述べたように、神を信じるようになるためには、多くの体験と心理的洞察力と歴史研究が必要なのである。中には、ある日突然神を信じられるようになる人もいるが、それは例外中の例外であって私たちにまねのできることではない。
 では、信仰のない人間が困難な仕事を成し遂げるためにはいったいどうすればよいのであろうか。そこで必要になってくるのが信仰の兄弟分である信念である。信念とは何か。それは自分の判断や考えが正しいという確信である。信仰は神の正しさや愛を信じることであるけれど、信念は自分の正しさや愛を信じることである。たとえ神を信じていないとしても、自分の正しさを信じることができるなら、人は実力以上の仕事を成し遂げることができる。再び半沢直樹を持ち出すが、彼が大銀行という巨大組織集団に立ち向かい、それを変えていこうとがんばれたのも、結局は彼に自分は絶対に正しいという信念があったからだ。そして巨大銀行の重役たちが巨大な力を持っているにもかかわらず打ち負かされていったのは、結局は、自分は絶対に正しいという信念が彼らにはなかったからだ。半沢は確かに才能と根性があった。しかし、それらだけなら半沢は途中でくず折れていただろう。また、単に復讐をしたいと思っていただけなら、やはりくず折れていたであろう。彼が途方もない困難にもかかわらず銀行に立ち向かい続けることができたのは、本質的には自分は絶対に正しいという信念のおかげなのである。そしてこの信念があればこそ、彼は多くの人の協力を取り付けることができたのである。だから、信仰のない人が困難な仕事を成し遂げようとしたり、実力以上の仕事を成し遂げようとしたりするなら、先ずすべきことは、自分は絶対に正しいという信念を養うことである。
 では、自分は絶対に正しいという信念を持つためにはどうすればよいのか。言うまでもなく、普段から正しさを追求し、正しさを実践しようとしていることである。日ごろから正しさを追求し、正しさを実践していない人に、どうして自分は絶対に正しいという信念を持つことができようか。聖書(聖典)や学問を通じて正しさとは何かを追求し、その正しさを日ごろから実践してこそ、自分は絶対に正しいという信念が形成されていく。もし信仰を持ち得ないなら、君たちには少なくとも以上のようなことを実行して自身の信念を養って欲しい。なぜなら、信念こそは信仰の次に力強い凡人の味方なのだから。
 ところで、自分は絶対に正しいという信念を持つことは、聖書の知恵に反するのではないだろうか。私たちは以前に聖書から、自分を義とすることの危険性について学んだ。人間は、神に背き、愛に背く傾向(罪)のある存在だから、自分を絶対に正しいと考えてはいけないと。絶えず神や隣人に相談を仰がなければいけないと。この知恵と自分が絶対に正しいという信念を持てという今の教えとは矛盾するのではないだろうか。実は、矛盾する。神と神の約束を信じる信仰は神を義とする考えであり、信念は自分を義とする考えだから、両者は本質的に相いれない。だから、聖書は信仰を持てとは教えるが、信念を持てとは教えない。信念はむしろ否定されるべきものと教えるのである。
 にもかかわらず、私は敢えて信念を持つことをおすすめする。なぜなら、信念は信仰への懸け橋となるからである。自分が絶対に正しいという信念を持って困難な仕事に立ち向かえば、実力以上の力を発揮することができ、その仕事を成し遂げることができるかもしれない。しかし、逆に実力以上の力を発揮したにもかかわらず、失敗してしまうこともある。信念を持って何かを成し遂げようとし、それに失敗したとき、人はいったいどのような気持ちになるであろうか。自分の力ではどうにもならない壁の存在を知り、自身の人間としての限界を思い知るのではないだろうか。そして自分を超えた存在の助けを求めずにはいられなくなるのではないだろうか。そのように感じたときこそ、人は信仰へと導かれる。自身の人間的限界を知ることこそが、人の心に人間を超えた者に対するへりくだりを生むのである。だから私は、敢えて皆さんに信念を持つことをおすすめする。これは聖書の与えてくれる知恵ではないが、信念を通じて困難な仕事を成し遂げようとし、失敗した無数の人間が教えてくれる貴重な知恵である。

4.まとめ
 というわけで今日学んだ知恵は、@自分の所属する組織集団が自由意志を暴走させて、愛に反することばかりしでかす場合には、思い切ってその組織集団を捨てるべきだ、A困難な仕事を成し遂げようとするならば、信仰か信念が必要だ、B自分が正しいという信念があればこそ、信仰への道が開かれる、の三つである。最後の知恵は、聖書の知恵ではないが、聖書とは逆の道を歩んだ人々が教えてくれる貴重な知恵として覚えておいて欲しい。必ずや、人生において大きな道しるべとなるはずだ。

 
バベルの塔の意味
2020年9月27日春風学寮日曜礼拝

聖書 創世記
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

序 復習+α
 前回は、ノアの洪水の物語を通して神の全知全能の抑制という重要な知恵について学んだ。神はこの世の支配を、愛を選ぶことのできる自由意志を持った人間に委ねた。だから、自身の全知全能を抑制して、じっと人間を見守っている。神は忍耐強く寛容なので、人間がかなり悪いことをしても、手出しをせずにただ見守っている。しかし人間が神の御心である愛からあまりに逸脱して悪くなると、全知全能の抑制を解いて実力行使に出てくることがある。だから私たちは、神に対する畏れを失ってはならない。それが、ノアの洪水物語の第一の知恵であった。
 他方この物語の後編で神は、ノアの捧げた感謝のいけにえに感激して、もう二度と人間や動物をことごとく滅ぼすようなことはしないと約束する。ここから私たちは、さらに重要な二つの知恵を学ぶことができる。一つは、以降神は極力全知全能を発動して実力行使をしないことに決め、寛容と忍耐に徹することに決めたということ。もう一つは、私たちが心を込めて神と交わるなら、神は態度や計画を変えてくださるだということ。だから私たちは、神を畏れつつも恐れず、もっと積極的に神と交わろうとすべきだ、とこれがこの物語の伝えようとする第二、第三の重要な知恵とそれらから導き出される結論であった。
 恐れと畏れの違いとは何であろうか。恐れは自分の存在を脅かすものへの恐怖であり、畏れとは偉大な存在の前にへりくだることである。私たちは神を偉大な存在と認めつつも、神におびえず、神と積極的に交わっていくべきだとノアの洪水物語は伝えようとしているのである。
 しかし、神があまりに寛容と忍耐に徹するなら、人間は神に対する畏れを失い、神を馬鹿にし、好き勝手にふるまうようになるのではあるまいか。その挙句には大それた悪事をしでかすのではあるまいか。先ほど読んでいただいたバベルの塔の物語は、まさにこの問題を扱う箇所である。以下、詳しく読んでそこに込められた知恵を学んで行きたい。

1.なぜ塔を建てるのか
 今日の箇所は、次のように始まる。
  11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
  11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
かつて「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とこの記事は伝える。このようなことが史実であるはずがない。西アジア一帯の人々が同じ言葉を使っていたというならまだしも、世界中とは言いすぎである。中国やアフリカやアメリカの人々と西アジアの人々が同じ言語を使っていたなどということはあり得ない。しかし事実ではないからと言って、この一節を軽んじることはできない。なぜならこの一節は事実とは異なる種類の知恵を伝えるための大前提だからである。ではその大前提とは何か。同じ言語を使っているということはいったい何を意味するであろうか。それは何よりも先ず、互いに協力し合うことが容易だということであり、巨大な力を持つ可能性を秘めているということである。そうなのだ。この一節は、人間が協力し合い、巨大な力を持つ可能性を秘めるにいたったという大前提を伝えようとする言葉なのだ。
 また、「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。」という言葉も無視できない。「シンアルの地」というのは、今日のイラクのあたりであり、かつてはメソポタミア文明が栄えたところである。ということは、この一節は、ここに登場する人間たちが相当に高度な文明を持つようになっていたことを伝えようとしている。3節には「石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」とあるが、れんがと言えば、人口の石のような物だから、それを用いたということは、彼らが相当に高度な文明を持っていたということである。
 そのように巨大な力を秘め、高度な文明を持った人類が突然巨大な塔を建てはじめる。
  11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
いったいなぜ巨大な塔を建てようとしたのであろうか。その理由はこの一節に示されているのだが、結構わかりにくいので解説していこう。
 何よりも注目すべきは、「天まで届く」という表現である。古代ユダヤ人にとって天とはただの空のことではない。そこは神が居り、神が支配する領域なのである。そのような領域に到達しようということは、彼らが神のようになろうとしていることを表す。次に注目すべきは、彼らの言葉遣いである。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」というこの言葉遣い、どこかで聞いたことがないであろうか。これがわかるなら、その人はもう相当な聖書の達人である。実はこれは、天地創造において神が人間を創造したときの言葉遣いなのだ。人間を造ったとき、神はこう言っていた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」これとそっくり同じ言葉遣いで彼らは語っているのである。ということは、彼らの目的が何であるか明らかであろう。彼らはまさしく神のようになろうとしているのだ。
 では彼らにとって神のようになるとはどういうことなのであろうか。後半の言葉がそれを教えてくれる。彼らは「有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言っていた。彼らにとって神のようになるとは、すなわち、有名になり、散り散りにされずに力を結集して強くなることなのだ。人は一人では無力である。しかしその力を結集させて協力すれば、巨大な力を手にすることができる。彼らにとって神のようになるとは、世界的な名声と世界を支配するような巨大な力を手に入れることであったのだ。
 そこでさらに問おう。いったいなぜ彼らは、そのように大それた欲望を抱くに至ったのであろうか。その直接的理由は、彼らの自由意志の暴走である。本能の本質は自己保身であるから、本能はそれを超えてまで欲望を追求しようとしない。必要以上にエサを蓄えようとする動物や必要以上に大きな巣を作ろうとする動物などいないのである。しかし自由意志は、愛を選ぶことができる一方で、本能を選ぶこともできるし、さらには本能を超えてまで過剰に欲望を追求する道を選ぶことさえできる。バベルの塔を建てて神のごとき名声と力を手に入れようとする彼らの態度は、そのような自由意志の過剰な欲望の追及の結果、すなわち自由意志の暴走の結果であると言うことができよう。しかしここでは、その間接的理由についても注目する必要がある。いったいなぜ彼らはそのように自由意志を暴走させ、神のような名声と力を獲得したいとまで思うようになったのだろうか。その間接的理由は、神の寛容と忍耐が長期にわたったことである。すでに学んだとおり、神はノアの洪水以来、自身の全知全能を極力抑制してきた。地質学や考古学の研究によれば、ノアの洪水が起こったのは約7750年前であり、バベルの塔が建てられたのは約5000年前(紀元前3000年前)である(参考:『新聖書ガイドブック』いのちのことば社)。これを信じるとすれば、神は実に約2750年間全知全能の発動を抑制し続けたことになる。これはまことに途方もない寛容と忍耐であるが、これほど神が実力行使を控え続けるなら、人間はどうなるか。神のことを馬鹿にするようになり、神の命令なんて無視して好き勝手にふるまうようになるのではないだろうか。その挙句には、自由意志を暴走させ、本能を超えた過剰な欲望を抱くようになるのではないか。彼らはまさしくそうなった。神から長期間にわたって実力行使を受けなかった彼らは、神を馬鹿にし、好き勝手にふるまうようになり、ついには自由意志を暴走させ、本能を超えた過剰な欲望を抱くようになった。すなわち、神のような力と名声を追い求めるようになったのである。
 では、そのような人間を描き出すことで聖書が伝えようとする知恵は何であろうか。それは言うまでもなく自由意志の暴走の危険性ということである。すでに述べたように、自由意志は本来愛を選び取るために人間にのみ与えられたものである。しかしこの自由意志は、本能を選ぶこともできるし、さらには本能を超えた過剰な欲望を選ぶことさえできる。このような自由意志を持つ人間を野放しにしておいたらどうなるか。人間は限りなく欲望を追求し続け、ついには自滅へと向かっていくのではないだろうか。バベルの塔の物語が伝えようとする第一の知恵は、まさしくこのような自由意志の暴走の危険性である。
 そこで現代の大問題を振り返ってみるならば、そのような聖書の知恵がいかに真実であるか、容易に納得することができる。例えば、環境破壊。これなどは、人間が自由意志を暴走させ、限りなく欲望を追及した結果であることは明白である。このまま環境破壊が進めば、人類は確実に自滅するであろう。あるいは核兵器の保有。2019年1月現在、世界には13,865発の核兵器がある。これまた人間が自由意志を暴走させ、支配欲を限りなく追求した結果であることは明白である。核兵器保有国は核兵器を持てば支配権を拡大できると本気で信じて核兵器にしがみついているが、このまま核兵器を保有し続けるなら、いつかはそれらを使用することになり、人類は自滅するであろう。個人においてもそうだ。ゲーム中毒、ギャンブル中毒、アルコール中毒などはこれまた自由意志が暴走して過剰に欲望を追求する行動である。その先には確実に自滅が待っている。これら以外にも現代には、人間が自由意志を暴走させて過剰に欲望を追及し、自身を滅亡の危機にさらしている例がたくさんある。バベルの塔の物語は、このような未来を予見して書かれたかのようである。

2.なぜ神は言語をばらばらにしたか
 では神はこのようなに危険な自由意志を持つ人間を見過ごし続けるのであろうか。もちろんそうではない。神はもう二度と人間や動物をことごとく滅ぼすことはしないと約束し、極力全知全能の発動を抑えることを約束したわけだが、これは神が人間の生活への直接介入を完全にやめてしまうという約束ではない。滅ぼすというような大規模なレベルでの直接介入は行わないというだけで、逆に言えばそれは、中規模なレベルや小規模なレベルにおいては全知全能を発動して直接介入を行う可能性があるということである。バベルの塔の物語は、神のそのような中規模レベルでの実力行使を描き出そうとする物語なのである。
 というわけで、続きを読んでみよう。
  11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
  11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
  11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
これはまさしく、神が全知全能の抑制を解いて、中規模レベルで人間の生活に直接介入する様子を描いた部分である。人間が作った巨大な塔を見た神は、人間がその自由意志を暴走させて過剰な欲望を抱き始めたことを知り、やむを得ず実力行使に出た。「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」という一言は、人間の自由意志の暴走の危険性を神がはっきりと認識しており、その暴走を食い止めるためにやむを得ず実力行使に踏み切ったことを表している。
 ここで面白いのはその介入の仕方である。神は彼らを滅ぼすのではなく、言葉をばらばらにして多様化するという方法で人間の自由意志の暴走を食い止めようとしている。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。・・・。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と。神は大規模レベルでの介入を行わないという約束を守っているのだ。
 こういうわけで世界中の各民族は異なる言語を話すようになったと聖書は様々な言語の起源を説明するのだが、このような説明が真実であるはずがない。メソポタミア文明圏だけであるならまだしも、「世界中」というのは言いすぎである。だから、このような記述を真に受ける必要は全くない。
 では私たちがこの記述から読み取るべきことは何であろうか。思うにそれは、神が人間の組織的協力を望んでいないということである。すでに述べたように、そもそも人間は一人では非力であるが、多数で協力すれば大きな力を持つことができる。だからこそ、この記事の人間たちは「散らされることのないようにしよう」と言って巨大な塔を建て、力を結集しようとしたのだ。このことを見抜いた神は言語をばらばらにしてしまうわけだが、その真意はいったい何であろうか。いうまでもなく、多数の人間が協力して力を結集させるのを防ぐことである。協力を防げば、人間の自由意志が暴走して過剰な欲望を求め始めたとしてもたいしたことは起こらない。せいぜい個人が隣人のものを盗もうとしたり、隣人を殺してしまったりするくらいである。ところが人間が組織的に協力し始めるならば、自由意志の暴走も欲望の追求も巨大なものとなる。すなわち、集団で強盗を働いたり、国を形成して戦争をしたり、会社を作って自然を破壊したりするようになる。だから、神は人間が協力し合うことを望んでいない。はっきり言って神は、国家とか会社とか軍隊とかいった組織集団的協力を嫌っている。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ」という言葉は、神が人間の統一された組織的協力に否定的であることをよく表している。

3.二つの協力
 しかし、ここで疑問がわいてくる。そもそも神は、創世記の2章において、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言い、助け手として女を創造したのではなかったか。これは、神が人間同士協力し合うことを望んでいるということを表しているのではないか。
 そうなのである。本当は神は人間同志が協力し合うことを望んでいる。それなのに、バベルの塔の物語においては、なぜ神は人間の協力に否定的なのであろうか。この問題を解く鍵は、2章における人間とこのバベルの塔の物語における人間の違いである。2章におけるアダムは、まだ神に背く心を持っていなかった。彼は神の御心である愛をすすんで選び取ろうとする、神を畏れる存在であったのだ。ところが、バベルの物語における人間たちはそうではない。彼らの心には神への畏れなど微塵もない。したがって神の御心である愛に従おうなどという意識もさらさらない。このような両者の違いに目を留めるなら、いったいなぜ神が、かつては人間の協力を望んでいたのに今では望んでいないか明白であろう。神の愛に従う者が協力し合うならば、その先にはより大きな愛が生み出されるであろうけれど、神の愛に従わない者が協力し合うならば、そのさきに生み出されるものはより大きな破壊でしかないからだ。
 ここが理解できるならば、バベルの塔の物語が最後に伝えようとする知恵は、もはや明らかであろう。それは、神の御心である愛に従おうとする意志がないならば、人間は組織的に協力し合うべきではないということである。
 この極めて重大な知恵が真実であることをはっきりと教えてくれるのは、最近放映されているテレビドラマ「半沢直樹」である。このドラマの舞台は東京中央銀行であるが、銀行こそは人間が協力し合うことによって力を結集させる組織の最たるものである。だから、その中心に愛があるかどうかによって銀行の機能は全く違ってしまう。もし中心に愛があるなら、銀行は中小企業を助け、労働者にやる気と希望をもたらすという極めて建設的な役割を果たすことができる。ところが、もしその中心に愛がないなら、果てしなくお金と力だけを追い求めて中小企業や労働者を踏みつけにする極めて破壊的な役割を演じることになる。半沢は銀行を前者のような組織にしようとして必死で戦うが、重役のほとんどは銀行を後者のような組織にしようとする。後者によって経営される東京中央銀行の姿を見るならば、そこで働く人々の様子を見るならば、そしてそれによって踏み潰されていく弱い企業や人々の苦しみを見るならば、「愛が中心にないならば、人は組織的に協力し合うべきではない」という知恵が、どんなに真実であるか、はっきりとわかるであろう。

まとめ
 というわけで、今回学んだ知恵は二つ、自由意志を暴走させるなら自滅に至るということと愛が中心にないなら組織的協力などすべきではないということである。どちらも人類の生死を決するほどの重要な知恵であるので、ぜひとも頭に叩き込んでおいてもらいたい。そしてくれぐれも自身の自由意志を暴走させないよう、そして自分の組織がそのような方向へと向かわないよう、全力で戦ってもらいたい。半沢直樹のように。

 
「ノアの洪水」
2020年7月26日春風学寮日曜集会

創世記
6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、
6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
6:7 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
6:8 しかし、ノアは主の好意を得た。
6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。
6:10 ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。
6:11 この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。
6:12 神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。
6:13 神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。
6:14 あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。
6:15 次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、
6:16 箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。
6:17 見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。
6:18 わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。
6:19 また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。
6:20 それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。
6:21 更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」
6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。

序 復習+α
 前回はカインについて学んだ。カインは重い罰を神様から与えられて初めて、自分の犯した罪の重さに気づいたこと、罪の重さに気づいて根源的不安に取り付かれてしまったこと、その根源的不安が神様の赦しによって癒されたことを学んだ。
 そのようにして癒されたカインは普通の生活を送れるようになり、子供をもうけた。また、アダムとエバもさらに多くの子供をもうけた。こうして人類はその数を増やしていったわけだが、はたして彼らの子孫は神様に従う正しい生活を送ったであろうか。もちろんそうではなかった。アダムとエバの子孫は、親と同じように神様の御心である愛に従わずに、自分の本能にしたがう判断を下しながら暮し続けた。その結果、世界は正しくない暮らしをする人間でいっぱいになってしまった。
 さて、これに対して神様はどのような態度で臨んだか。今日の箇所から始まる「ノアの洪水」物語は、神様が正しくない暮らしを続ける人類に対してどのように臨んだかを描く物語である。以下、詳しく学んでみよう。

1.人間が悪いのは神様のせいか
 今日の箇所はこう始まる。
 6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、
 6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
 6:7 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
自己中心的な判断を下し続けるなら、人は自分の利益や欲望を最優先して生きることになる。「悪いことばかりを心に思い計っている」とは要するに自分のことばかりを考え、隣人や神様のことなど全然愛さなくなったということである。それで神様は、「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ」、人とその支配下にある生き物の全てを滅ぼすことにしたわけである。
 ここを読むと、いろいろな疑問がわいてくる。先ずわいてくる疑問は、人間が悪いのなら人間だけを滅ぼせば良いのに、なぜ神様は他の生き物までも滅ぼそうとするのかということである。その理由は、人間が全ての生物界の秩序の中心にあり、その人間が悪くなるなら、その支配下にあるほかの生き物も悪くなると聖書(の筆者)が考えるからだ。創世記1:26の記述によれば、人間は他のすべての生き物を支配することになっていた。だから、人間が悪くなるなら他の生物も悪くなるというのが聖書の考え方である。しかしこの考え方は明らかにおかしい。他の生き物は自由意志(人格)を与えられていない自然法則の奴隷なのだから、彼らに悪の責任などあるはずがない。それなのに他の生き物にまで責任を問うて滅ぼそうとするのは、明らかにおかしい。人間が悪いならその責任は自由意志(人格)のある人間のみが負うべきであり、その責任を他の生き物にまで負わせるべきではない。
 思うにこれは当時の人々の考え方の時代的限界の現れである。すでに説明したように聖書は神様中心主義である。しかし神様を除けば人間中心主義である。この人間中心主義は基本的には正しいのだが、聖書の筆者たち(ユダヤ人たち)はしばしばこの人間中心主義を濫用し、他の生き物を軽視する。他の生き物を簡単にいけにえにささげたり、そのようないけにえを律法に規定したり・・・。ここもその例の一つである。聖書には確かに他の生き物を軽視する傾向があるのだ。このような聖書の傾向ははっきり間違いであると認めるべきであると私は思う。
 次にわいてくる疑問は、人間を造ったのは神様なのだから、人間が悪いということの究極の責任は神様にある、それなのになぜ神様は人間を滅ぼそうとするのかという疑問である。しかしこのような見方は、浅はかである。なぜならそれは、人間の持つ自由意志(人格)を否定することにつながっていくからだ。神様は悪い人間を創造したわけではない。悪をも善をも選びうる自由意志(人格)を持った人間を創造したのだ。このこと自体には全く過ちはない。もしこれを過ちであると主張するなら、それはすなわち人間に自由意志(人格)を与えるべきではなかったということになり、人間も他の生き物と同様に自然法則の奴隷とすべきであったということになってくる。この考え方はどう見てもおかしい。だから、人間が悪いことの責任を神様に問うのは全くおかしいのであり、その責任はあくまで自由意志を与えられ、その自由意志を濫用した人間に帰するものなのである。
 ここを読み違えるなら、聖書の読解は全ての責任を神様になすりつけるような読解となり、その人の心には神様への蔑視と無責任な性質が生じてしまう。自分が「善悪の知識の木」からとって食べた責任を、エバを与えた神様になすりつけたアダムと同じ精神が生み出されてしまうのだ。だから、人間が悪いのはそのように造った神様のせいだなどという見解は決して持たないようにしよう。

2.全知全能の抑制
 ところで、この問題はもう一段階高度な知恵、神様の全知全能の抑制という知恵と関係しているので、それについても学んでおきたい。聖書によれば、神様は全知全能である。だとすれば、人間が悪くなっていくのも予測できたはずだし、それを防ぐための策も講じられたはずである。ところが神様まるで人間が悪くなることを予測していなかったかのようであり、そしてそれに対する対策も考えていなかったようである。「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」という一文は、神様が人間の悪化を全く予測していなかったことを表している。これでは神様は全然全知全能ではないではないか。
 この疑問を解き明かす鍵こそが全知全能の抑制という概念である。以下、この概念について少し説明しよう。すでに2章で読んだとおり、神様は自由意志(人格)を持つ人間を創造し、この世界の管理を彼らに委ねた。つまりこの世界の未来を人間の自由意志(人格)に委ねたのだ。このことは神様にとっていったい何を意味するであろうか。それは、この世界における自身の支配権を半ば放棄したことを意味し、この世界における全知全能を半ば放棄したことを意味するのである。そうなのだ。神様は、自由意志のある人間を創造し、 この世界の支配権を彼らに委ねたときから、自身の全知全能を半ば放棄しているのである。
 いったいなぜか。なぜ神様はこれほどまでに人間の自由意志(人格)を重んじたのか。人間との人格的交わりを望んだからである。他の生き物はすべて神様の定めた自然法則に服従している。彼らはいわば神様の奴隷なのである。しかしこと人間に関してはそのような服従を望まなかった。人間とは、自由意志に基づく人格的な交わりを望んだのだ。人格的交わりとは何か。それは、もちろん人格的に応答しあうことである。相手が正しいことをすれば喜び、悪いことをすれば怒り、正しいことをするように奨め、悪いことをしないように諌める、意見が異なるなら話し合う、自分が間違っているならそれを改める、これが人格的交わりである。そしてこのような人格的交わりにこそ愛がある。神様はそのような愛に満ちた人格的交わりを人間に求めた。そしてこの世界が、そのような人格的交わりによって形成されていくことを望んだ。だからこそ神様は自身の全知全能を抑制したのだ。
 そしてこのことは今も続いている。神様は原則として強権を発動しない。全知全能を抑制して、全てを人間の自由意志(人格)に委ねている。そして、聖書や自然現象や日々の出来事や良心への啓示を通じて人間に呼びかけ、人間が自主的自発的にそれに応答するのを待っているのである。だから、私たちの目から見れば神様はあまりに無能なように見える。これほどに人間が苦しんでいるのになぜ助けないのか、これほどに悪い人間がいるのになぜ処罰しないのかと思えてしまう。しかしそれは神様が無能なゆえではない。この世界のことを人間の自由意志(人格)に委ね、自身の全知全能をあえて抑制しているからなのだ。
 では、今回の記事はどうなのか。洪水という出来事は全知全能の強権発動ではないのだろうか。罪を犯した人間に罰として厳しい労働を与えるとか、子育ての苦労を与えるとか、異性による支配を与えるとかいうなら、それはまだ人格的交わりの範囲内であり、強権発動とは言えないだろう。しかしここで神様は、全ての人間を滅ぼそうとしているのである。これはまさしく全知全能の強権発動であり、人格的交わりを大きく逸脱する行為ではないか。この問題について理解を深めていき、知恵をいただくのが今回の学びの目的である。

3.全知全能の発動
 ところで、その前に簡単な問題を片付けておきたい。ノアの洪水は実際にあったのか。オリエント学(オリエントの過去をあらゆる角度から研究する学問)の研究によれば、このような洪水があった可能性は極めて高いそうであり、ノアの洪水が純粋なフィクションであるとは言いがたいそうだ。しかし、今日はこのことには深入りしない。何度も言うように聖書の中心テーマは、物質現象を記述することではないからだ。では、この物語はいったい何を伝えようとしているのであろうか。
 それはやはり、神様は自身の全知全能をいつも抑制しているわけではないということである。神様は基本的には、人格的な交わりを通じて人間と関わる。しかし人間の悪が限界を超えた場合には、神様はその全知全能を発動して、人間に裁きをもたらすことがあるということである。ここでは洪水を引き起こしているが、形は洪水とは限らない。後にソドムとゴモラという街を滅ぼすときには、硫黄の火を降らせたとある(おそらくは火山の噴火だったであろう)。ユダヤ人が悪の極限に達したときには、近隣の大国(アッシリア、バビロニア)による侵略を許した。そもそもアダムとエバが「決して食べてはいけない」と命じられた「善悪の知識の木」からとって食べたときには、彼らに死の定め(寿命)をもたらしていた。このように、人間の悪が限界を超えたときには、神様は自身の全知全能の抑制を解いて強権を発動し、何らかの形で人間に大きな裁き(天罰)をもたらすことがある。ノアの洪水物語が伝えようとする知恵の一つは、恐らくこのことである。
 だから私たちは、神様のこと無能であるなどと思って侮っていてはいけない。神様は人格的交わりを重んじるからこそ、自身の全知全能を抑制して、間違いばかり起こす私たちと忍耐強く付き合っているのであって、もし私たちの悪が限界を超えるなら、例外的に強権を発動して、私たちに大きな裁き(天罰)を与える可能性がある。ひょっとすると現在のコロナウィルスの拡大はその一つであるのかもしれない。だから私たちは、畏れを抱きつつ神様と交わっていく必要があるのである。

4.なぜノアだけが救われたのか
 すると疑問が生まれてくる。そのような裁きとしての洪水の中でいったいなぜノアだけが救われたのであろうか。いったいなぜノアだけが神様の好意を得、その家族(三人の息子の嫁も合わせて計8人)だけが救われることになったのであろうか。その理由は、9節に記されている。
 6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。
「神に従う無垢な人であった。」これこそはノアが救われた理由なのだが、そう言われても皆さんには全然ピンと来ないであろう。しかし、今までの流れを思い出すならば、理解できるはずである。ノアは、本能に従う自己中心的な判断よりも神様の愛に基づく判断を優先し、それに従う人物であったのだ。神様との人格的な交わりを大切にし、神様の呼びかけにきちんと応答する人であったのだ。
 事実、この後、神様から箱舟を作れと命令されたときも、彼は神様の判断を重んじ、その命令に従った。その「箱舟の長さは三百アンマ、幅は五十アンマ、高さは三十アンマ」であった。一アンマは45センチであるから、この箱舟の全長は約150メートルである。これから大洪水を起こすから、そのように巨大な船を作り、その中に逃れよとはなんと非常識な命令であろうか。このような命令にいったい誰が従うであろうか。普通の人ならまずは従わない。ところがノアは、自身の常識的な判断よりも神様の判断を優先し、神様の命令に従った。神様との人格的交わりを重んじ、その呼びかけにきちんと応答した。「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」とある通りである。
 ここで気づくべきは、この物語の前に読んだカインの態度との違いである。カインは神様の判断が気に食わないとして顔を伏せ、弟殺しへと進んでいった。神様との人格的交わりを拒否し、自分の判断に固執する道を突き進んでいったのだ。ところがノアは、神様との人格的交わりを重んじ、神様の判断に従う道を選んだ。神様の命令は、極めて非常識に思えたにもかかわらず。両者はなんと違っていることか。
 この違いに気づくなら、ここで聖書が伝えようとする知恵もわかってくる。それは、神様の判断(命令・言葉)がどんなに非常識に見えようとも、それに従うべきである、それこそが最善の道だということである。神様の判断は、たいていは人の良識に沿うものであり、そのような場合には従うことは簡単である。しかし、時に神様は人の良識とかけ離れた判断を下し、そのような命令を発する。そしてそのような判断・命令に従うことは極めて難しい。例えば、「隣人を愛しなさい」という命令は人の良識の範囲内だから比較的従いやすい。ところが、「敵を愛しなさい」となるとこれはもう人の良識を超えている。このような場合には、従うことが極めて難しい。いくら考えても、このような命令に従うことなど不可能だと思えてしまう。しかし、たとえそうだとしても、自分の判断は引っ込めて神様の判断に従え、それが最善の道なのだと聖書は伝えようとしているのだ。
 私たちは普段自身の良識や社会の常識に従って生きている。あるいは自身の信念に従って生きている。普段はそれでよいのである。しかし、ときにはそのような良識・常識・信念とは全く異なる声が神様から聞こえてくることがある。聖書の言葉を通じて、自然現象を通じて、日々の出来事を通して、何より良心の声を通して、神様の声が聞こえてくることがある。そのような場合には、なんとしてもその声に従うべきである、それこそが最善の道なのだから。例えば、最近私がそういう声を聞いたのは、コロナウィルス対策として政府から10万円の給付金が支給されることになったときである。常識や良識に照らし合わせれば、もらったってかまわないという答えが出てくる。もらって社会に役立てればよいではないかという結論になる。ほとんどの人がそう言っていた。私の良識もそうであろうと思った。ところが、聖書からは、ぜんぜん違う声が聞こえてきた。絶対にもらってはいけないという声が聞こえてきた。特にイエス・キリストははっきりとそう呼びかけてきた。そもそももしイエス・キリストがわたしの立場にあったらそのようなお金をもらうだろうか。もらうはずがない。答えはまったく明白である。このようなときには、良識や常識をすべて捨て去って、その声に従うべきなのである。そして実際わたしはその声に従った。するとなんとすがすがしい思いが心にわいてきたことか。その後にもなんと晴れ晴れと過ごせたことか。これこそは最善の結果であり、ノアの洪水物語が伝えようとすることなのである。
 そこで皆さんに先ず望むことは、少なくとも常識や良識や信念とは異なる神様の声を聞き分けられるようになってほしいということである。その声を聞き分ける最高の方法は、イエス・キリストならどうするかと考えることである。聖書について深く学び続けるなら、次第にイエスの人格がわかってくる。するとイエスならどのように行動するかということがわかるようになってくる。イエスならどうするか、それこそが神様の声である。それに従えれば最高なのだが、そこまでいかなくとも、少なくともその声が聞き分けられるようになって欲しい。この声が人生の重要局面においてどんなに重要な判断基準となることか。

5.ノアの献げ物
 話を戻そう。ノアとその家族(及びその他の一つがいの動物)が箱舟に乗り込んだ後、神様は洪水を引き起こす。40日間大雨を降らせ、40日間洪水で大地を覆い、150日後に水を引かせたと書いてある。大雨と洪水が同時に40日間続いたのか、40日間大雨が降った後に40日間洪水が起こったのか、分からない。また水が引き始めた150日後というのが、いつから数えて150日後なのかもわからない。ここでもまた物質現象に関する記述はいい加減を極めている。だから、そんな日数にこだわってもしかたがない。とにかく何十日もの間洪水が起こり、その間ノアたちは箱舟の中で過ごしたと記憶しておけば十分である。
 問題はその後である。水がひいて箱舟から出た後、ノアはまず何をしたか。救ってもらったお礼に、神様に感謝のしるしとして「焼き尽くす献げ物」を捧げたのである。20節にはこうある。
 8:20 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
祭壇を築き、家畜と鳥を焼いて、それらを神様に献げた、これが箱舟から出た後にノアが行った最初の行為であった。これに対して神様はどう応答したか。
 8:21 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
 8:22 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」
何の疑問もあるまい。神様はノアの献げ物に感動し、もう二度と人や生き物をことごとく滅ぼすようなことはしないと決めたのである。
 なんと陳腐な展開であろうか。鳥と家畜をささげて神様を喜ばそうというノアの行為も陳腐だし、それに喜んでもう二度と人や生き物を滅ぼすまいと決める神様も陳腐である。ここには先ほど指摘した動物軽視も含まれている。しかし、このような表面的な陳腐さに惑わされてはいけない。この陳腐さはすべて筆者の時代的限界なのである。だから私たちは、この陳腐なやりとりの奥に埋もれている本質的な知恵をくみ出さなければならない。では、その知恵とは何であろうか。それは、神様がノアの真心に触れて、自身の行為を反省し、方針を変更したということであるである。神様は、そもそも人格的交わりを望んでいた。そうであればこそ、人間に自由意志(人格)を与えたのだ。ところが今や人間は、その自由意志を濫用して悪いことばかりをするようになってしまった。そこで怒った神様は全知全能の強権を発動して、人間に洪水という大規模な裁き(天罰)を与えたわけであるが、ノアの真心(心を込めた感謝の気持ち)に接したとき、神様は自分の行為を反省した。人間が悪いからといって怒って彼らに大規模な裁き(天罰)を下すのはよくないと反省したのだ。そしてたとえ彼らが悪かろうとも、忍耐しながら彼らと人格的交わりを続けていこうと心に決めたのだ。驚くべきことに神様は、ノアの心からの感謝の気持ちに促されて、自身の過ちを反省し、方針の大転換を決意したのである。神様が間違ったり、反省したり、方針を変えたりすることが果たしてあるのか。あるのである。すでに述べたように、人間に自由意志を与えたときから神様は自身の全知全能を抑制している。だとすれば、ことこの世界に関する限り、誤ることもあれば、反省することもあり、そして方針を変えることもあるのである。
 かくして神様は以降、全人類的な規模で人間に天罰を加えることを差し控えることになる。ソドムとゴモラのような一地方やユダヤ人のような一部の民族に天罰を与えることはあるが、全人類・全生物的な規模で怒りを発動して天罰を与えることはさしひかえる。「悪いことばかり心に思いはかる」人間たちと忍耐強く人格的交わりを続けていくことになる。すなわち、聖書や自然現象や日々の出来事や良心を通じて神様に従って愛に生きるよう呼びかけながら、そしてそれができない場合には、悔い改めるよう呼びかけながら、人間たちと付き合っていくことになるのである。
 では、このような聖書の伝える知恵は私たちにどう生きるように促しているのであろうか。思うにそれは、神様との人格的交わりを楽しむように促しているのではあるまいか。神様は私たちとの人格的交わりを何よりも望んでいる。であればこそ、全知全能の強権を発動して、滅ぼさないことに決めたのである。ということは、もはや神様をさほどに恐れる必要はないということである。もちろん神様は全知全能であることに変わりはないから、その意味では畏れる必要がある。しかし、その力の発動を抑えると約束したのだから、私たちはもはや神様の前で縮こまることはない。私たちは今や神様とのびのびと交わっていくことができるのである。加えて、神様は人間の真心に動かされて反省し、方針を変えることを明らかにした。ということは、私たちが誠実に真心を込めて神様に応答するなら、神様もそれに応答してくださるということである。ノアの感謝の気持に接して態度を変えたように、もし私たちが真心から神様の呼びかけに応答するなら、神様はそれに応じて動いてくださるということである。だとすれば、そのような神様との人格的交わりを、思い切って楽しんでみようではないか。聖書や自然現象や日々の出来事や良心を通してなされる神様の呼びかけに応じ、神様からの応答を受け取ってみようではないか。今日の箇所は私たちにそう呼びかけているのである。
 これは神様にご利益を期待するご利益信心ではない。神様から出される応答は、必ずしも利益であるとは限らない。それどころか厳しい試練を与えられるかもしれない。それでもよいと考えて、神様の応答を期待する、これが神様との人格的交わりを楽しむということである。この交わりに入るなら、皆さんはお金持ちになるにせよ、貧乏になるにせよ、生涯幸せでい続けることができるだろう。皆さんがそうなることを期待して、神様は自身の全知全能をあえて抑制しているのである。

 

「悔い改め」

2020年7月12日春風学寮日曜集会

創世記
4:13 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。
4:14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
4:15 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
4:16 カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
4:17 カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。

序 復習+α
 前回はカインの弟アベル殺害という衝撃的な記事を通して、神様の判断と人間の判断にはずれが生じること、そのずれを正すためには、人間は自分を義とする心や比較して自分を上に見ようとする心に細心の注意を払い、自分の判断について絶えず反省し、他者や神様の言葉に耳を傾ける姿勢を持つことが重要であるという知恵を学んだ。そしてこれらを怠るなら、人は行為としての罪を犯すことになるという知恵を学んだ。
 しかしこのように忠告されても人は、自分の判断を義とし、自分を他者より上であると思い込み、間違った道を歩んでいく。そして多かれ少なかれ罪を犯すことになる。しかし、それでも神様は人を見放さない。もし人が心から悔い改めるならば、すなわち自分の過ちを認め、謝罪し、それを償おうとするならば、赦して下さる。そのために神様は、人に寛大な罰をもたらし、人が悔い改めるのを忍耐強く待ち続けているという知恵も学んだ。
 もしこれらの知恵が真実であるならば、私たちは度々間違った判断を下し、度々罪を犯していることになる。そしてそのたびに神様の寛大な罰を受けていることになる。実際にその通りになっていると思わないだろうか。私は、自分の経験を振り返るとまさしくその通りのことの連続であると認めざるを得ない。私は次から次へと間違った判断を下し、そのたびに罪ともいうべき過ちを犯してしまう。そしてそのたびに罰らしきものを体験する。皆さんもそういう経験はないだろうか。

1.命の危機と悔い改め
 さて今日の箇所はその続きである。カインは、神様と異なる自分の判断を義とする道をひた走り、弟殺しという罪を犯してしまった。そして神様から、厳しくも寛大な罰を受けた。職がないままにさすらわなければならない失業・宿無しという罰を受けたのだ。その結果はどうなったか。
 4:13 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」
 4:14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
 先ずは、どうでもよい問題を片付けていこう。話の流れからすれば、この時点における人間は、アダムとエバとカインの3人しかいないはずである。ところがカインのこの言葉は、他にも人間がいることを前提としている。いったいいつの間に他の人間が創造されたのであろうか。ここには、聖書の明白な矛盾がある。そして聖書には同様の矛盾がたくさんある。すでに読んだところでは、創世記1章と2章の間に大きな矛盾があった。1章では他の生物の後に人間が造られたのに、2章では人間の後に他の生物が造られたことになっている。1章と3章の間にも大きな矛盾がある。1章では神様のように人格を持つ存在として造られたのは人間だけであった。ところが3章には明らかに人格を持つしゃべる蛇が登場している。このように聖書はいたるところに矛盾を抱えている。いったいなぜか。その原因の一つは、筆者の抱える時代的限界であるのだが、それ以上の原因は聖書の中心的関心事が、物質現象の記述にはないことにある。筆者たちは、自分の書いていることが物質的にも真実であると考えていたのかもしれないが、にもかかわらず、彼らの中心的関心は物質現象にはなかった。彼らの関心は、それ以外の問題にあった。だから、物質的なことについては、あきれるほどに平然と矛盾が書けたのだ。このことについてはすでに第二回に学んだが、前々回に太田君から鋭い質問(筆者は物質現象についても真実だと思って書いているのではないか)があったので、もう一度確認しておこう。
 というわけで、このカインの言葉は他にも人間がたくさんいることを前提としている。この前提を受け入れた上で、彼の言葉が何を意味しているか、探ってみよう。彼は先ずこう言っている。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と。ここで気づくべきは、「罰」ではなくて「罪」という言葉が使われていることである。原語のヘブライ語アヴォーンは罪とも罰とも訳せる。カトリックのフランシスコ会訳は、ここを「罰」と訳しているが、プロテスタントの新共同訳は敢えて「罪」と訳している。いったいどちらが正しいのであろうか。恐らくどちらも間違いではないが、正確ではない。カインのこの言葉は、原語のとおり罪と罰の両方の意味を含んでいる。だから、正確を期するならば、「わたしの罪と罰は重すぎて負いきれません」と訳すべきなのだ。こう訳して初めてカインの本当の気持が浮かび上がってくる。では、カインはどういう気持ちでこの言葉をつぶやいたのか。
 一つはもちろん弱音である。神様に面と向かって背き、自分を義とする道を突き進んではみたものの、いざ神様から罰(失業と宿無し)を言い渡されてみると、その罰の重さにはとても耐え切れそうにない。それで彼は弱音を吐いたのだ。もしこのときのカインの気持ちがこのような弱音だけだったとするならば、「わたしの罰は重すぎて負いきれません」という訳で十分だろう。
 しかし、ここに込められているカインの気持ちは、弱音だけではない。その気持ちを示すのが、この後に続く言葉である。カインは続けて「今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と言っている。いったいなぜカインは「出会う者」全員から殺されると思ったのであろうか。これは異常な心理である。誰かから殺されるかもしれないというならまだわかる。ところがカインは、「出会う者」全員から殺されると感じているのだ。いったいなぜ彼はこれほどまでに殺されると思ったのであろうか。その理由ははっきりと記されていないが、恐らく、いや十中八九罪の意識である。カインは、神様から厳しい罰を言い渡されて初めて自分の罪の重さを意識し、悔い改めの気持を起こした。であればこそ、彼は罪のゆえに殺されるのではないかと思うようになったのである。アベルへの仲間によってか、アベルの霊によってか、正義を貫徹しようとする人によってかは、わからない。いずれにせよ、カインは自分の犯した罪の重さを自覚したがゆえにその罪の裁きを何者からか受けて殺されるのではないかと思うようになった。それで彼は、「出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と語るにいたったのだ。
 したがって、これらの言葉を語ったときのカインの気持ちはただの弱音ではない。そこには自分の罪に対する自覚と悔い改めも含まれている。罰に対する弱音と罪に対する悔い改めの両方が含まれているのである。だからこそ、先の箇所は「わたしの罰は重すぎて負いきれません」という訳では不十分であり、「わたしの罪と罰は重すぎて負いきれません」と訳さなければならないのだ。
 するとここに込められた知恵もわかってくる。人は自分の命が危険に晒されたときに、初めて罪を悔い改めるということである。すでに学んだように、人の自分を義とする心は極めて強い。そして比較して自分を上に見ようとする心も極めて強い。これらの心を乗り越えて悔い改めの心を発動するときがあるとすれば、それは追い詰められて自分の命が危険に晒されたときである。自分の命が危険に晒されたとき、人は弱気になる。そしてこの弱気と共に、悔い改める心が生じるのである。人の弱さと悔い改める心は密接に関係しているのだ。この知恵を今のカインの言葉は伝えている。思えば、神様がアダムとエバに与えた罰も、広い意味では二人の命を危険に晒す罰であった。厳しい労働、子育ての苦労、異性による支配。これらの罰は、命を奪うほどでないにしても、アダムとエバの生活に大きな負担を課す。そして死という罰は、命の危険そのものである。いったいなぜ神様は、このような罰をアダムとエバに与えたのか。それはやはり神様が、命が危険に晒されたときに初めて悔い改めるという人間の性質をよくご存知だったからであろう。
 さて、この知恵は果たして真実であろうか。1986年、安部譲二という元服役囚が「塀の中の懲りない面々」という自伝的小説を書いて大ヒットし、その小説は翌年映画化された。この小説には、何度罰を受けて自分の命が危険に晒されても、少しも悔い改めずに、罪を繰り返す犯罪者たちのことが描かれている。この小説を読むと、人は自分の命が危険に晒されたときに、初めて悔い改めるという知恵は、真実ではないかのように思われてくる。他方、1995年のアメリカ映画「デッドマン・ウォーキング」は、若い女性を次から次へとレイプして殺害したくずのような男が死刑の直前に心から悔い改める姿を描いている(この映画も実話に基づく)。この映画を見ていると、やはり人は自分の命が危険に晒されたときに初めて悔い改めるのだと思ってしまう。はたしてどちらが真実であろうか。
 思うに、自分の命が危険に晒されたからと言って全員が全員悔い改めるわけではあるまい。自分の命が危険に晒されてもなお、自分を義とする心にしがみつき、比較して自分を上に見ようとする心を捨てない者もたくさんいる。にもかかわらず、やはり、そのような場合には悔い改める可能性は増すのではないだろうか。のほほんと安全に暮らしている場合には悔い改める可能性などほとんどない。しかし、自分の命が危険に晒されたなら、悔い改める可能性が出てくるのではないか。その意味で、この箇所が伝えようとする知恵はやはり真実であると思う。

2.根源的不安の原因
 ところでここには、もう一つ重大な知恵が含まれている。それは、罪を犯すと人の心には根源的な不安が生じるという知恵である。人の心に不安を引き起こすものはたくさんある。失業、自然災害、病気、人間関係の悪化・・・と不安の原因はいくらでもある。しかもこれらはいずれも死を招きかねないものである。ところがカインは、これらに対して何の不安も表明していない。彼が最も恐れたものは、自分の罪を裁こうとする誰かなのである。自分の罪を裁こうとする誰かによって殺されるというのが、カインの最も恐れたことなのである。このことはいったい何を意味するのであろうか。
 この謎を解く鍵は、カインを殺そうとする誰かとは誰かという問題を考えてみることだ。そもそもの話、カインを殺そうとする誰かなど本当にいるのであろうか。恐らくはいないであろう。近所にアベルの仲間がいるとも思われないし、アベルの霊が実際に働いて呪うとも思われないし、正義を貫徹しようとする警察官のような人がいるとも思われない。だとすれば、カインはいったい誰を恐れたのであろうか。誰に裁かれて殺されると思ったのであろうか。答えは、一つしかない。神様である。彼は自分の罪を自覚したときから、自分の良心に責めさいなまれるようになった。それで正義を体現する誰かから裁かれると思うようになった。正義を体現する誰かと誰であろうか。神様でしかない。彼を殺そうとする者など実際にはいない。彼はただ神様の影におびえて誰かから殺されると思ったのだ。
 このことに気づくとき、この箇所に込められた偉大な知恵が明らかになる。それは、すでに述べたとおり、罪を犯すならば、人の心には根源的な不安が生じるという知恵である。人の心に不安を引き起こすものは、普通は死である。失業、病気、災害、人間関係の悪化などが不安を引きこすのも、結局は、それらが人の命を危険に晒すからである。ところが、その死以上に人を不安に陥れるものがある。それは罪である。人は罪を犯すと、良心に責めさいなまれ、神様から裁かれると思うようになる。こうなるともはやもはや自信も平安も失われてしまう。いくらお金を稼ごうと、いくら強くなろうと、自信や平安を保つことなどできない。良心はお金や力の壁を突き破って人の心を責め立てるし、神様への恐れもまたお金や力で拭い去れるものではないからだ。「出会う者」全員から殺されるというカインの言葉は、まさしくこのことを伝えようとするものである。すなわちそれは、カインが罪を犯し、良心と神様を敵に回したことによって根源的不安に取り付かれ、平安と自信を失ってしまったことを表す悲痛な言葉なのだ。
 さて、皆さんは罪を犯し、良心と神様を敵に回してしまった経験があるだろうか。もちろんカインのような重い罪を犯したことはないであろう。しかし、小さい罪ならしょっちゅう犯しており、中くらいの罪なら、時々犯しているのではないか。そのとき、自分の良心に責め立てられることはあるだろうか。神様から裁かれると思うことはあるだろうか。ほとんどないであろう。私たちは罪を犯してもたいていはそれを無視して生きている。あるいは自分の罪を正当化しながら生きている。だから良心に責め立てられることも、神様に裁かれると思うこともほとんどなく、平安を装って生きていくことができるのである。
 しかし安心してはならない。たとえ意識的に自分の罪を無視したり、正当化したりしても、その記憶は心の奥に残り続ける。そしてその人の平安や自信を少しずつむしばんでいくのだから。この事実を最もよく描きだしたのが、19世紀のロシアの作家ドストエフスキーの『罪と罰』である。この小説の主人公ラスコーリニコフ(元大学生)は、「一つの微細な罪悪は百の善行によって償われる」という独自の信念に基づいて、強欲で狡猾な金貸しの老婆を殺害し、奪った金で善行をしようと企てる。そしてそれを実行するのだが、いくら自分の行為を正当化しようとして理屈を凝らしても、いくら善行を積んでも、彼の罪は少しも償われない。それどころか、微細に思われた罪の記憶は彼の心の奥底に残り続け、彼の平安と自信を少しずつむしばんでいき、ついには彼を廃人同様にしてしまう。これは実話ではないが、これと同様のことは世界のあちこちで起こっている。この小説が連載されているさなかにも、同様の事件が起こった。自分の犯した罪のために、夜眠れなくなったり、いらいらして切れやすくなったり、人目がやたらと気になったり、自分の意見がはっきり言えなくなったり、過剰に人を批判するようになったり、心を閉ざして引きこもったり・・・ということは世界中で観察されていることである。だから私たちは、重い罪を犯したことがないからと言って安心していてはならない。たとえ軽く思われる罪であろうと、そのような罪を頻繁に犯すなら、その罪の記憶は私たちの心の奥底に残り続け、私たちの平安と自信を少しずつむしばんでいくのである。
 だから、私たちはよくよく罪の恐ろしさをおぼえておく必要がある。そして極力罪を犯さないよう努力する必要がある。嘘をつくとか、当番をさぼるとか、そうした小さな罪すら犯さないほうがよい。そうすることが、不安を遠ざけ、心の平安と自信を保つための最高の方法なのである。

3.根源的不安を取り除くもの
 さて、弱音を吐き、罪の重さを自覚して、根源的不安に取り付かれたカインに対して、神様はどのように接したか。続きを読んでみよう。
 4:15 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
 4:16 カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
 4:17 カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。
ここでカインがつけられた「しるし」がどのようなものかはわからない。確かなことは、その「しるし」は神様から赦されたことを示す「しるし」であり、それゆえにカインを殺そうとすれば神様から徹底的に復讐されることを示す「しるし」であったということである(七は聖書では完全を示し、「七倍の」は「完全な」を意味する)。言い換えればそれは、神様が絶えずカインと共にあることを示すしるしであった。加えてカインは「エデンの東、ノド(さすらい)の地」に住むことを許された。これは、カインが事実上放浪という罰から赦免されたことを意味する。そうなのだ。神様は、カインの悔い改めを大いに評価し、その罪を全面的に赦したのだ。なんと寛大な。この結果カインは、平安と自信を取り戻し、日常生活に復帰する。エノクという息子をもうけ、「町を建てた」という描写は、彼が完全に復帰したことを表しているのである。
 このようなラストシーンに込められた知恵はいったい何であろうか。その一つは、もちろん神様が悔い改めを極めて高く評価しているということであるが、これについては前回触れたので今回は注目しない。それよりもここでなんとしても学んでおかなければならないのは、神様の赦しだけが罪を犯した人の心に平安と自信をよみがえらせるということである。人はよく慰謝料を払ったり、刑務所で刑期を終えたりすれば、罪が赦されたと考える。あるいは判決で無罪になれば自分は無罪なのだと考える。これらはとんでもない間違いである。被害者に金を払っても、刑務所で刑期を終えても、裁判所で無罪判決を勝ち取ったとしても、それで犯した罪が消えて無くなるわけではないし、それによってその人の心に平安と自信が戻ってくるわけではない。罪を犯した人間の心に本当に平安と自信がよみがえるのは、神様に赦され、神様と和解し、神様が共にいてくださると信じられるようになったときだけである。神様が共にいてくださると信じられたときに、初めて罪人は真の自信と平安を取り戻すことができる。カインが日常生活に回帰するラストシーンは、この知恵を伝えようとしているのである。
 この知恵が真実であることを示すのは、聖書の後半に出てくるパウロという人物である。パウロはキリスト教徒を何人も死刑台に送った殺人犯であった。その殺人犯であるパウロが、人生の後半には揺るぎない自信と不動の平安を手に入れた。そして、世界中の人々に自分の信念を述べ伝え、それを力強い文体で書簡に書き残した。いったいなぜ彼はかくも変ることができたのか。イエス・キリストを通じて神様が彼の罪を赦したことを知らされたからである。それによって神様がともにいてくださると信じることができたからである。
 皆さんは、恐らくまだ罪を犯すことの恐ろしさをわかっていないだろう。つまり罪が人の心に根源的不安を引き起こし、人から自信と平安を奪っていくということをわかっていないだろう。だから、そのような不安から救われて自信と平安を取り戻す道は神様から赦しを告げられることだ、などという知恵を教わっても全然ピンと来ないであろう。だとしても、この知恵は聖書が教えようとする最も重要な知恵であり、そして否定しようのない真実である。だから、頭の片隅にしっかりと置いておいてほしい。

 
「自分を義とする心、比較する心」
2020年7月5日春風学寮日曜集会

創世記
4:1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
4:4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
4:5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
4:6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
4:8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
4:9 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
4:10 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
4:11 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。
4:12 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

序 復習
 アダムとエバの原罪(神様に背いて「善悪の知識の木」からとって食べた)によって、二人は心の罪(神様に背き、自分勝手に判断する傾向)を宿してしまった。この心の罪は、彼らの子孫にも受け継がれていくことになる。今日扱うのは、二人の息子であるカインとアベルという兄弟の話である。親から心の罪を受け継いだ二人が、どのように生き、どのような結果に向かっていくのかを描いている。さて、ここにはどのような知恵が込められているのか。

1.命の根源である神
 先ずは、初めの言葉に注目しよう。
  4:1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
  4:2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。
何の変哲もない描写であるが、ここにはすでに一つ重大な知恵が込められている。それは、全ての命の根源は、神様であるという知恵である。エバは、最初の子供を身ごもったときに、「わたしは主によって男子を得た」と述べている。この言葉は、まさしく生物の誕生をもたらすものが神様であるということを表している。生物学的に言えば、生物の誕生をもたらすものは、雄と雌との交わりである。しかし聖書の中心的関心事はそのような物質現象にはない。そのような物質現象を超えた霊的な事象にある。そのような視点から言えば、生物の誕生をもたらすものは本質的には神様である、と聖書は主張するのである。
 前回は、神様に従うことは命よりも尊いという知恵について学んだ。そして神様に背く命は断たれてもやむをえないという知恵についても学んだ。しかしだからと言って、命の価値が損なわれるわけではない。全ての命は神が与えたものであり、それゆえに全ての生物は神の子なのである。そうである以上、全ての生物は最大限に尊重されなければならない。生物の命を断ってよいのは神様あるいは神様の命令を受けた者だけであり、私たちが勝手に他の生物を殺すことなど決して許されてないのである。ここをぜひ誤解しないでもらいたい。

2.判断のずれ
 しかし、今回の中心テーマはそこにはない。この先である。続きを読んでみよう。
  4:2 ・・・。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
  4:3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
  4:4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
  4:5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
兄のカインは農耕者となり、弟のアベルは羊飼いとなった。そして命の根源である神様の恵みによって、それぞれは食べ物を得た。そこで二人は、感謝のしるしとして神様に「献げ物」を持っていった。カインは「土の実り」(収穫)を、アベルは「羊の初子」を持っていった。ところが神様は、アベルの「献げ物」には目を留めたが、カインの「献げ物」には目を留めなかった。それでカインは、怒って目を伏せた。以上が今の箇所の要約である。
 さて、はたしてこの記事は何を伝えようとしているのか。今まで学んだことをよく覚えているなら容易に想像がつくはずである。一言で言えば、神様の判断と人間の判断との間には必ずずれが生じることを伝えようとしているのだ。人間は「善悪の知識」(裁きの知恵)を身につけた。この裁きの知恵によって自分で判断を下すようになった(心の罪を宿した)わけであるが、その判断はしばしば神様の下す判断とは異なっている。神様の判断は、愛から出て愛を目的とするものであるが、人間の判断はたいてい本能から出て本能を目的とするものであるからだ。いったいカインの「献げ物」の何がいけなかったのかは書かれていない。にもかかわらず、彼の「献げ物」には愛が込められていなかったことは確かである。そうであればこそ神様は無視するという判断を下したのである。ところが、カインはそのことに気づかない。カインは自分なりの判断によって、自分の「献げ物」を愛のこもった「献げ物」であると思っている。だからこそ、「激しく怒って顔を伏せた」のである。つまりここには、愛に基づく神様の判断と愛を目指しながらも本能を優先してしまう人間の判断との間に生ずる必然的なずれが描かれているのである。

3.難解な文の解読
 次に進もう。
  4:6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
  4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
  4:8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
ここはヘブライ語の原文が難しく、かなり訳が不十分なので、訳を修正しながら読み進まなければならない。「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」という訳は、より正確に訳すならば、「もしお前が正しくふるまおうとするならば、顔を上げるべきだ」となる。原文では、未来または継続を表す未完了形の「正しくある、正しくふるまう」という動詞が使われているからだ。するとこの一文の意味は、こうなる。「もし正しくふるまおうと思うならば、顔を上げて自分の「献げ物」のどこがいけなかったのか尋ねるべきではないか。」つまり、自分のどこがいけなかったのか尋ねよと神様はカインに促しているのだ。
 次の文も訳が不十分なので修正しなければならない。「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」とあるが、先ず「正しくないなら」は、先ほどのように「正しくふるまおうとしないなら」と訳すほうがよい。それから、「罪は戸口で待ち伏せており」は次の文とは主語が違うので、「罪は戸口で待ち伏せている」といったん切ったほうが良い。つまりここは、「正しくふるまおうとしないならば、罪は戸口で待ち伏せている」と訳すのがより正確である。するとこれはいったい何を意味する言葉なのであろうか。先ほどからの流れを考えるならば、それはやはり「正しくふるまおうとして神様にたずねないならば、罪を犯すことになる」ということであろう。つまり神様はカインに、自分の判断を正しいと考えて、神様に相談しないなら、行為としての罪を犯すことになると警告しているのだ。
 では、残った「お前を求める。お前はそれを支配しなければならない」とはどういう意味であろうか。先ほど述べたとおり、ヘブライ語の原文の「お前を求める」にはきちんと主語がある。その主語は「彼の思い」という語である。この彼とはいったい誰か。「罪」は女性名詞だから、彼で受けるはずがない。だとすれば、この彼は弟のアベルを指すとしか考えられない。つまり、「アベルの思いはお前を求める」というのが、原文の直訳なのである。また「支配」という訳もよくない。以前にも述べたが、この「支配」は良い意味であって、「統治」とか「管理」と訳すほうがよい言葉である。したがって、より正確に訳すならこの一節はこうなる。「アベルの思いはお前を求め、お前はその思いをきちんと導かなければならない。」だとすれば、この言葉に込められた意味も分かってくる。ここで神様はカインに向かって兄としての義務をきちんと果たすように命じているのだ。「お前は兄なのだから、お前を慕い求めてくる弟をきちんと導かなければならないのだぞ」と。
 このように訳を修正するならば、この箇所全体の示す意味がようやく浮かび上がってくる。まとめればこうである。「もし正しくふるまおうと思うならば、顔を上げて自分の「献げ物」のどこがいけなかったのか尋ねるべきではないか。正しくふるまおうとしてわたしに尋ねないならば、お前は行為としての罪を犯すことになる。そうなってはならない。お前は兄としてお前をしたい求める弟をきちんと導かなければならないのだぞ。」神様はカインに、自分の判断の正しさに固執することの危険性を警告し、同時にそこから離れて神様に相談しつつ兄としての義務を果たすように命じたのである。

4.自分を義とする心
 さて、このように神様から警告され、兄としての義務を果たすように命じられたカインは、はたしてどのような行動に出たか。続きを読んでみよう。
  4:8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
カインは、神様の警告を聞かなかったのだ。彼は顔を上げて神様に尋ねなかったために(心の罪を持ち続けたために)、神様の預言どおり、行為としての罪を犯すことになってしまったのだ。しかもその罪は、殺人という最も重い罪であった。カインは、彼を慕い求める弟をきちんと導くという義務を果たすどころか、弟を野原におびき出して殺してしまったのだ。なんというひどい展開であろうか。
 そこで考えてみよう。このような展開に込められた知恵とはいったいどのような知恵であろうか。その第一は、自分の過ちを認めない心、自分を義とする心の弊害である。人は必ず自分の正しさに固執する。これは心の安定を保つための重要なメカニズムである。人は自分の判断を正しいと思えばこそ、自信を持ち、心の安定を保つことができるのである。人は自分が間違っているという思いを抱えてまともに生きていくことなどできないのである。だから、自分を義とする心は極めて強烈である。人が自分の過ちを認めるのは最後の最後であると言ってよい。それだけに、もし人間が心の罪にとらえられ、神様とは異なる間違った判断を下すならば、ひどい結果になる。人は自分の過った判断の正しさに固執し続け、行為としての罪を犯すことになるのである。カインの弟殺しという展開は、そのような自分を義とする心の恐ろしい弊害を伝えようとしているのである。
ここで思い出さざるを得ないのは、大東亜戦争のときの日本人の態度である。日本人は、日本を神の国と考え、それゆえに無敵であると考えた。なんせそのころには中国とロシアという超大国を打ち負かすという空前の行為を成し遂げたのだから。しかしこれは、神様の判断とは明らかに異なる、自分勝手な間違った判断であった。にもかかわらず日本人はこの判断を正しいと思い続けた。その結果どうなったか。大東亜戦争という巨大な罪を犯すことになったのだ。この戦争の中で日本人が犯した罪を書き連ねていけば、百枚紙があっても足りないほどである。ひどいと思われるものだけをざっと書き出すならば、戦闘の邪魔になるという理由で子供を殺したり、少年を飛行機や魚雷に乗せて突撃させたり、兵士たちを竹やりで機関銃や戦車に向かって突撃させたり、勇敢に戦った部下に敗北の責任をなすりつけたり、食料も調達せずに兵士を戦わせて餓死させたり、物資の窮乏を補うために統治下の国々の物資を略奪したり、兵士たちの性欲を満たすために現地の女性たちをレイプしたり・・・。これらの卑劣きわまる罪は全て、日本は神の国であり、無敵であるという誤った判断にしがみつき、その判断を義とし続けたために生じたものなのだ。このような日本人の経験こそは、カインの物語に込められた知恵(自分を義とする心が行為としての罪を生み出す)がいかに真実であるかを歴然と証するものである。

5.比較する心
 さらに言えば、ここには、比較して自分を上に見ようとする心の弊害という知恵も込められている。行為としての罪を誘発するものは、自分を義とする心だけではない。他者と自分を比較して自分を上に見ようとする心も行為としての罪を誘発する。比較して自分を上に見ようとする心もまた心を安定させるための重要なメカニズムである。人は自分を他者と比較して、自分が優れていると思えばこそ、自信を持ち、心を安定させていくことができる。自分が人により劣っていると思うなら人はまともに生きていくことなどできないのだ。だから、他者と比較して自分を上に見ようとする心は極めて強烈である。それだけに、もし人間が心の罪にとらえられ、間違った判断を下すならば、この心は行為としての罪を次から次へと生み出す。人種差別とか、男女差別とか、弱い者いじめとかいった最悪の罪を誘発するのである。
 カインの殺人を誘発したもう一つの契機は、この比較する心である。自分の「献げ物」が無視されただけで弟を殺してしまうというカインの行動は、一見過剰反応であるように思われる。しかし、カインの立場によくよく立って考えてみるならば、必ずしもそうとは言えない。カインは弟のほうが正しいという現実に耐えられなかった。弟のほうが神様に認められているという現実に耐えられなかった。弟のほうが自分より上であるという現実に耐えられなかった。それで、心の安定を保つために、弟を殺さざるを得なくなったのだ。
 というわけで、ここでいったんまとめよう。今日の箇所でぜひとも心に留めておくべきことは、先ず何よりも自分を義とする心と比較して自分を上に見ようとする心は極めて強烈であるということである。私たちはこの二つの心に強烈に支配されている。次に心にとどめて置くべきことは、心の罪を宿している人間にとっては、これら二つの心は、しばしば行為としての罪を生み出す契機となるということである。だから私たちは、自分たちがこれらの心に支配されていることをはっきりと自覚し、これらが罪へとつながらないように細心の注意を払っていかなければならない。以上が、今日の箇所が伝えようとする知恵の中心である。

6.神様の基本的態度
 最後の部分を読み進もう。
  4:9 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
ここで神様はカインに「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と問いかけている。神様は、カインが命じられたとおり、弟をきちんと導いているか確認しているのだ。これに対してカインはこう答えている。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」これは一見、しらばっくれているかのような言葉だが、神様から弟の導きを命じられたという流れからすれば、神様の命令を真っ向から無視したこと言葉であり、実質的には殺害の挑戦的自供である。今やカインは神様に堂々と反抗しているのである。
これに対して神様はどう反応したであろうか。
  4:10 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
  4:11 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。
  4:12 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
神様は、当然カインに罰を与えた。その罰の一つはアダムに与えた罰よりもいっそう厳しい罰、すなわち彼に対して自然は一切作物を実らせないという罰である。この罰は、カインが農耕者であったことを思い出せばいかに厳しい罰かわかるであろう。カインは職を奪われたのだ。もう一つの罰は、一定の土地に定住することはできないという放浪の罰である。これまた厳しい罰である。一定の土地に定住できないのであれば、他の職業につくことも難しいであろうから。このようにカインの与えられた罰は、職もないままに放浪し続けなければならないという厳しいものであった。
 ところで、考えてみて欲しい。はたしてこれらはカインの犯した罪にふさわしい罰であろうか。これらの罰は確かに厳しい罰であるけれど、カインは自分の弟を殺しているのだ。このような大罪に対しては死刑もしくは終身刑が妥当なのではないだろうか。そう考えるなら、神様の下したこれらの罰は寛大なものであると言わざるを得ない。いったいなぜ神様はこのように寛大な罰を下したのであろうか。
 もう一つ不思議なことがある。神様は全能であるから何でもお見通しのはずである。カインが神様の命令を無視してアベルを殺したこともお見通しのはずである。にもかかわらず、神様は先ずカインに問いかけている。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と。これは不思議である。そういえば、アダムとエバが罪を犯したときも、神様は先ずアダムに問いかけていた。「どこにいるのか」と。いったいなぜ神様はいきなり罰を下さずに、はじめに問いかけるのであろうか。
 これらの不思議が意味する所は、一つしかあるまい。神様は罪を犯した人間が自分から悔い改めることを望んでいるのだ。自分から罪を認め、謝罪し、その罪を償おうとすることを望んでいるのだ。そうであればこそ、何よりも先ず問いかけ、そして寛大な罰を与えることによって悔い改めのチャンスを与えるのである。
 神様はそのような、人の悔い改める心を何よりも尊いと考えている。すでに述べたように、神様が最も尊いと考えているのは、神様に従おうとする心(愛の道を選ぼうとする心)である。しかし、心の罪を宿した人間が神様に従い続けるのは極めて難しい。そこで神様は人間に対してせめて悔い改める心を持って欲しいと願っている。そしてそのような心を神様に従おうとする心と同じように尊ぶのである。そうであればこそ、その心を持つ機会を与えるために、罪を犯した者に先ずは問いかけ、寛大な罰を与えるのである。
 人間が自分を義とする心は強烈である。また他者と比較して自分を上に見ようとする心も強烈である。どちらも、私たちの心の安定を保つための極めて重要なメカニズムであるからだ。それだけにこの二つには細心の注意を払っておかなければならない。そして、自分が間違った方向に向かっているように思われるときには、これらの心を乗り越えて、自分から悔い改める心を発動させなければならない。自分から他者の意見に耳を傾け、自分から神様の声に耳を傾ける心を発動させなければならない。それが、神様が私たち人間に最も望んでいることであり、また同時に罪から救われる道でもある。今日の箇所に描かれている神様の問いかけと寛大な罰は、そのような知恵を伝えようとしているのである。
(参考:月本昭男「創世記T」、北森喜蔵「創世記」)

 
「恵としての罰」
2020年6月28日春風学寮日曜集会

創世記
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
3:20 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
3:21 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

序 復習
 今日の箇所は、前回までの続きである。前々回、人類最初の人間であるとされるアダムとエバは、神様の命令に背いて、「善悪の知識の木」からとって食べた。その結果彼らは、神様に従わずに、自分で価値判断を下す知恵(裁きの知恵)を身につけてしまった。そこから様々な罪を犯すようになる。自己正当化、責任転嫁、弱い者いじめ、差別、争い・・・、二人は転げ落ちるように罪の道を歩んで行ったのだ。このように、神様を無視して自分勝手に判断を下し、次々に罪を犯していく性質を罪(行為としての罪とは異なる心の傾向としての罪)と呼ぶ。そして、以降この罪は彼らの子孫である人間たち全員に遺伝していったと聖書は考え、全人類の罪の原因となったアダムとエバの行為を原罪と呼ぶ。聖書が言うように、アダムとエバの罪が全人類に遺伝的に伝わったものなのかどうかはわからない。何度も言うが、聖書は物質現象の記述を目的としていないのだから。たぶんそんなの嘘だろう。にもかかわらず、全ての人間がアダムとエバと同じような罪を抱えていることは確かである。人にはなべて神様に背く判断を下し、次々に罪を犯す傾向がある。だからこそ人は、自分の判断を絶えず反省し、神様の前にへりくだり、神様を畏れる(神様の言葉を重んじる)習慣をつけていかなければならない。それが前回の箇所で聖書が伝えようとしている知恵であった。
 さて、今日の箇所はその続きである。神様は当然背いたアダムとエバに罰を下す。では、その罰とはどのような罰か。詳しく学んでいこう。

1.男と女への罰
 神様は先ず初めに、蛇に対して罰を下す。この蛇とはいったい何者なのか。これは難しい問題なので後回しにしよう。そこで先ずは、エバに対する罰に注目してみよう。
 3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
「はらみの苦しみ」とは陣痛のことである。したがってエバに与えられた罰の一つ目は、激しい陣痛である。神様はエバに罰として激しい陣痛(産みの苦しみ)を与えた、と聖書は記すのである。しかし、再びこのようなことが事実であるなどと考えてはいけない。この向こうにあるもっと本質的な意味を探って読まなければ。では、この罰が本当に意味するところのものは何か。おそらくは、子育ての苦しみであろう。神様はエバに罰として子育ての苦しみ(苦労)を与えたのだ。それだけではない。「お前は男を求め/彼はお前を支配する」とも神様は述べている。こちらは理解しやすいであろう。エバの関心事の中心は男になり、それゆえに男に支配されるようになると神様は言っている。つまり、男に支配されることが、エバに与えられた第二の罰なのである。
 まとめるなら、神様は罰としてエバに子育ての苦労と男の支配をもたらしたのである。以降エバの子孫である女はなべて子育てに苦労し、男に支配されて生きることになる。そして実際歴史はそのように展開してきたし、女は未だに子育ての苦労と男の支配に悩まされている。
ではアダムにはどのような罰が与えられたか。
 3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
 3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
「土は呪われるものとなった」とは、自然が厳しく敵対するものとなったということである。エデンの園においては、自然は優しく、人に豊かな実りをもたらすものであった。しかし今やそうではない。自然は不毛となり、それどころか人間に対して危険な存在となる。地震、台風、噴火、津波、疫病・・・そうした災害が人におそいかかってくる。その厳しい自然の中で食べ物を得るために働かなければならない。一言で言えば、厳しい労働。それが、アダムに与えられた罰である。以降アダムの子孫である男は、自然と戦いながら苦労して働くことになる。そして実際歴史はそのように展開してきたし、いまだに男は厳しい労働に悩まされている。

2.罰の理由
 一体なぜ神様は彼らにこのような罰を与えたのであろうか。その第一の理由は、何と言っても彼らの自由を制限するためである。彼らは愛を自由に選ぶことができる人格を与えられていた。ところが彼らはその自由を愛を選ぶほうには用いずに、自分勝手に判断をくだすために用いるようになってしまった。神様に背いてまで本能を選ぶために用いてしまった。このような人間を野放しにしておいて良いはずがない。そこで神様は、それぞれの性(ジェンダー)にふさわしいやり方でそれぞれの自由に制限を加えた。女には子育ての苦労と男の支配という制限を、男には厳しい労働という制限を。事実、歴史において男は厳しい労働によって、女は子育ての苦労と男の支配によって自由を制限されてきた。そして今なおこの制限は続いている。見方を変えれば、これらの制限が課されていればこそ、人間の自分勝手な判断は抑制され、人間の罪が抑えられているのである。
 しかし、神様がこれらの罰を与えた理由はそれだけではない。これらの罰にはさらに重要な理由がある。それは、彼らを神様の下に立ち返らせることである。神様は人間がこれらの罰(子育て、男の支配、労働)を負うことによって神様の下に立ち返る機会が与えられると考えた。だからこそこれらの罰を与えたのである。
ここは少し難しいので一つ一つ説明を加えよう。先ずは子育てから。人は子供を自分の思い通りに育てられるであろうか。先ず無理である。子供は、判断の自由を与えられるなら必ずと言ってよいほど、親の判断とは違うことをやり、違う道を選ぶ。子供も罪を抱えており、自分勝手に判断を下すのだから。ここにおいて親は何を体験するか。自分の判断を反省させられるのである。自分は子供が東大にいくことを望んでいるが、はたしてそれでよいのかと。自分は子供が医者になることを望んでいるがはたしてそれでよいのかと。自分は子供が自分の仕事を継ぐことを望んでいるがはたしてそれでよいのかと。子育てを通じてほとんどの親は、真剣に自分の判断が本当に正しいものかどうか反省させられる。そして本当に正しい判断とは何なのかを考えさせられる。このときに親は神様の下に立ち返る機会を与えられるのである。神様の前にへりくだり、神様の判断はどのようなものか、神様はどう言っていたかを真剣に考える機会を与えられるのである。子育てに悩まされるのはたいてい女である。だから聖書は、子育てを女の罰として描いているが、本当はそれは男に対する罰でもある。神様は男もまた子育ての罰を負うことで自分の判断が正しいのかどうか反省させられることを望んでいる。男と女は助け合うべきものとして創造されたのだから。いずれにせよ、人は男も女も子育てを通して自分の判断が挫折するのを体験し、反省する機会を与えられる。このときに、神様のもとに立ち返る機会を与えられる。そうなるようにと、神様は子育ての苦労という不思議な罰を与えたのである。
 続いて男の支配について。女は恋人に支配され、夫に支配され、男性優位の社会制度によって支配されている。女が自分の意見を述べたりすれば、「女は黙っていろ」と一括されてしまう。だから、女は男との関係を通して絶えず自分の判断を反省させられる。自分の判断は果たして正しかったのだろうかと。ここで自分の判断に固執する女は、男の判断を否定するフェミニズム思想に依存したり、男に対抗するような実力をつけたりして、自分の判断を通そうとする。しかし、中には、より正しい判断のよりどころとして神様に立ち返ろうとする女も出てくる。神様の前にへりくだり、神様の判断はどのようなものか、神様はどう言っていたかを真剣に考える女も出てくる。だから、女性には男性よりも信仰者が多いのである。神様はこのような女性が増えるようにと、女に男の支配という罰を課した。しかしこれまた女に限ったことではない。男もけっこう女に支配されている。男は女の美しさと優しさによって支配されているではないか。そして、男の判断は、そのような女に惚れ込むときに危機にさらされる。惚れた女が自分と全く異なる判断をするとき、反省せざるを得なくなってくるのである。例えば、仕事一筋に生きようとしている男が、仕事よりも大切なものがあると考える女に恋をしたらどうなるであろうか。仕事が最も重要であるという自分の判断を反省させられるではないか。愛国心に満ちた国防を重んじる男が、平和主義を信じて一切の戦争を否定する女に惚れこんだとしたらどうであろうか。男は自分の右翼的な判断を反省せざるを得なくなるのではないか。私自身、ほれ込んだ女によって自分の判断を反省させられ、変更せざるを得なくなったという経験をたくさん持っている。男もけっこう女に支配されているのである。恐らく、女は男に支配され、男も女に支配されている。そして男も女も自分を支配する異性から異なる判断を突きつけられることによって自分の判断を反省せざるを得なくなっていく。そこに神様の下に立ち返る可能性が生まれてくる。そのことを望めばこそ、神様は女と男に異性の支配という罰を与えたのであろう。
 最後に厳しい労働について。これも男だけに与えられた罰と考える必要はあるまい。労働は本来男にも女にも必要なものなのだから。男であれ女であれ、厳しい自然の中で働くとき、思い通りに食べ物を得ることができるだろうか。思い通りに収穫が得られるであろうか。思い通りに魚や獲物ガがとれるであろうか。先ず無理である。どんなに考えて適切な判断を下しても、自然はその判断の裏をかいて、人間の労働の邪魔をする。日照、嵐、洪水、寒波、いなごの大量発生・・・、自然は次から次へと人間の労働を妨げる。だから人間は、厳しい自然の中で働くと、絶えず自分の判断の反省を強いられる。自分の判断は正しかったのかと。そのときに、神様の下へ立ち返る機会が与えられる。神様に祈ってみよう。神様の言葉に耳を傾けてみようと。自然の中の労働以外でも同じである。職人であれ、商人であれ、会社員であれ、公務員であれ、専門家であれ・・・、おおよそ全ての労働において、人は思い通りに働くことなどできない。自分の判断はたいてい批判され、反対され、否定される。その都度、自分の判断は何がいけなかったのかと反省させられる。そして神様の下に立ち返る機会を与えられるのである。君たちの場合には就職活動がそれにあたる。就職活動をすれば、君たちの判断がよしとされることはほとんどないと分かるだろう。自分の判断が否定されるとき、君たちは自分の判断を根本的に改めざるを得なくなる。そのとき君たちは新たなる判断を求めて、人に相談したり、本を読んだりすることになるだろう。中には改めて聖書を読んでみる者も出てくる。就職活動もまた神様の下に立ち返る機会をもたらすのである。このことを望めばこそ神様は、人に罰として厳しい労働を与えたのだ。
 このように学んでみるならば、神様が人間に与えた罰は、どれもが神様の下へ立ち返るための機会を提供するものであると理解できる。子育ての苦労も、異性による支配も、厳しい労働も、全ては人が行う自分勝手な判断に歯止めをかけ、それを反省させ、神様の下に立ち返るための機会である。これらによって真剣に反省させられればこそ、人は神様の言葉に耳を傾け、神様の判断を仰ごうとするのである。だとすれば、これらの罰は、恵であるとさえ考えられる。神様は、罪を犯した人間にただ罰を下しただけではなかった。恵をもたらす愛のこもった罰を下したのである。

3.最も価値のあるもの
 最後に最も重要な部分を読もう。
 3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
 3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
 3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
再びここで言われていることをそのまま起こったと受け止めてはならない。だから、アダムとエバは本当にエデンの園から追い出されたわけではないし、「エデンの園の東」にはケルビムという天使がいて、炎の剣でそこを守っているわけではない。ではここで聖書が伝えようとしていることは何か。それは一言で言えば、神様が人間に罰として死をお与えになったということである。アダムとエバは、神様の命令を守っていれば、「命の木」からとって食べ、永遠に生きるはずであった。ところが彼らは神様の命令に背いて「善悪の知識の木」からとって食べ、「善悪を知る者となった」。自分で価値判断を下すものとなったのである。神様に背いて自分勝手に判断を下す者を永遠に生かしておくわけにはいかない。だからこそ、神様はアダムとエバとその罪を受け継ぐその子孫全員にやがては必ず死ぬという罰を与えたのである。
 神様に背いて自分勝手な判断を下すようになっただけで、死という罰を下すのは少し厳しすぎるように思われる。しかし、聖書はそうは考えない。神様に背いて自分勝手な判断を下そうとする傾向(罪)はまさしく死に値すると考える。なぜなら、すでに読んだとおり、そこからは、自己正当化、責任転嫁、いじめ、差別、争いといった様々な罪が生まれてくるからだ。そのような罪を犯す人間が永遠に生きることを聖書はよしとしない。生きてさえいればなんでも良いという立場を聖書はとらない。命は確かに尊いが、正しく生きないならば(他者に害を及ぼしながら生きるならば)、それは断たれてもやむをえないと考えるのである。言い換えれば、神様に従うこと(愛の道を選ぶこと)は、肉の命よりも価値があると考えるのである。
 これは、聖書の極めて重要な特徴である。他の宗教は肉の命が中心である。肉の命を保つために、神々の像を作り、神殿を断て、神々に祈る。しかし聖書は、肉の命を保つことよりも神様に従うことのほうが尊いと考える。神様に従うためなら命を捨ててもよいと考えるし、神様に背く命なら断たれてもよいと考える。徹底的に神様中心主義(愛中心主義)なのである。これは、聖書と他の宗教との一線を画する重要な点である。
 さて皆さんはどちらの立場をとるであろうか。肉の命を一番尊いとする立場をとるであろうか。それよりも神様に従うこと(=愛の道を選ぶこと)を尊いと考えるだろうか。じっくりと考えてもらいたい。

4.死の恵
 ところで、死もまたただの罰ではない。死という罰にさえも神様の愛が込められている。なぜなら、死があればこそ、人は自分の価値判断を最も真剣に反省することができるからである。私は結婚してから子供の一人を癌で亡くした。この死がどんなに私の価値判断を変えてしまったことか。子供が死ぬ前、私にとって最も大切なことは、お金を稼ぐことであり、有名になることであった。ところが、子供が亡くなって以降、そうしたことには何の価値も見出せなくなってしまった。それどころか、そのようなものを目的として生きていた自分を恥ずかしく思うようになった。そして死んだ子供に恥ずかしくない生き方をしようと思うようになった。そうすることが子供に対する真の供養であると思うようになった。では、死んだ子供に対して恥ずかしくない生き方とはどんな生き方であろうか。こうしてわたしは聖書を読むようになった。聖書なら恥ずかしくない生き方がどのようなものか教えてくれるだろうと。事実、聖書はその道をはっきりと示してくれた。神様に従う生き方こそ誰にでも誇ることができる正しい生き方であると。以降わたしはそのように生きるようになった。なんと著しい価値判断の変化であろうか。私だけではない。身近な人の死を体験した人の多くが、自分の価値判断を根本的に変えられている。ましてや自分の死が近づいた人々はどんなに自分の価値判断を変えられることであろうか。悪いことばかりしてきた男が、死期が近づいて突然善人なる例はたくさんある。死の直前に神仏を信じるようになる人もたくさんいる。死こそは、人に自分の価値判断を真に反省させ、神様の下へ立ち返らせる最大の機会なのである。であれば、死という罰にすらも神様の愛が込められている恵であるということができる。

5.まとめ
 まとめるなら、神様は、原罪を犯し(神様の命令に背いて、善悪の知識の木からとって食べ)、罪を宿した(自分勝手に価値判断をくだすようになった)アダムとエバに子育ての苦労、異性による支配、厳しい労働、そして死という四つの罰を課した。この四つの罰は、アダムとエバの子孫であるとされる人間にも課され続け、人間社会のつらい現実を形成することになる。アダムとエバの子孫たちもアダムとエバ同様に罪を宿し続けたからである。
 しかし、これらの罰は同時に神様の愛が込められた恵としての罰でもある。なぜならこれらの罰が課されているからこそ、人間は自身の自分勝手な判断(罪)を反省させられ、神様の下に立ち返る機会を与えられるからである。神様は、これらの機会を通して人間が絶えず自分の判断を反省し、神様の下に立ち返ること(愛の道を選ぶこと)を願っているのである
 しかし願っているだけではない。そうするための助け舟も出して下さる。今回の箇所の後半には次のような言葉があった。
 3:21 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
これも文字通りのことが起こったということではない。神様が人間の不十分な知恵を補って下さるということを意味している。人間は、善悪の知識の木からとって食べ、自分が裸であることを知って恥ずかしくなった後、「いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(3:7)。これは人間の不十分で、貧弱な知恵を表している。対してここでは神様が彼らに「皮の衣」を造って与えている。つまりこの描写は、神様がことあるごとに正しい知恵を与えて、彼らを導き、助けることを意味している。神様は決して罪を宿した人間を見放したわけではない。愛のこもった罰と正しい知恵を与えること(啓示)によって人間が再び神様の前にへりくだり、神様に従って生きることを願っているのである。
 皆さんはこれからたくさんの挫折にぶつかるであろう。仕事において、恋愛(結婚)において、子育てにおいて、そして死において・・・。しかしそれらの挫折は決して悪いものではない。悪いものであるどころか、深い意味においては良いものである。神様という真に正しい方、真の命を与えて下さる方の下に立ち返る機会を与えてくれるのだから。このことを覚え、つらい現実の中でも希望と喜びを持って生きていってもらいたい。

「男と女の創造」
2020年6月14日春風学寮日曜集会

創世記
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

序 人格の大きな影響力
 神様は人間だけに自由に愛を選ぶことのできる性質、すなわち人格を与えた。このことは人間の様々な活動に影響を及ぼす。人格を正しく用いて愛を選ぶのか、それとも本能に隷属する道を選ぶのか、このどちらを選ぶかによってその人の活動はぜんぜん違ってしまう。はっきり言ってしまえば、その人の活動が豊かな幸せをもたらすものとなるか、それとも次から次へと不幸をもたらすものとなるかを決定する。例えば、恋愛や結婚といった男女関係。男女が人格対人格として向き合い、正しく人格を行使して付き合っていくのか、それとも本能対本能として向き合い、本能に従って付き合っていくのか、このどちらを選ぶかによって男女関係は全く違ったものになってしまう。幸福を生み出す基となるのか、それとも不幸を生み出す元凶となるのかが決定されてしまう。それほどに人格は男女関係に大きな影響を及ぼすのである。
 というわけで今日は、人格と男女関係の関係について、創世記を通して学んでいきたい。

1.人間の目的
 今日の箇所の冒頭は、こうはじまる。
  2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言い、彼の助け手を造ろうとする。この言葉からすると、初めに創造された人間は一人であり、男であったことになり、その後に女が造られたことになる。このことに目くじらを立てて聖書は男女差別的だと批判する人もいるが、それは的外れである。繰り返すが、聖書は物質現象について語るものではなく、この通りのことが起こったと言いたいわけではないのだから。ではこの記事は何を語ろうとする記事か。
 神様は「人が独りでいるのは良くない」と言い、彼の助け手を造ろうとするのだが、それはいったいなぜだろうか。すでに学んだところから推測できるように、それは、神様が人に互いに愛し合うことを望んだからだ。神様は愛である。だから愛する対象として生物を創造した。しかしそれだけではない。神様は自分が愛されることをも望み、生物同士も愛し合うことを望んだ。神様は双方向的な愛の交わりが世界に広がっていくことを望んだのだ。だからこそ生物の中に、自分と同じように愛を選ぶことのできる人格を持つ人間を造り、彼らに神様を愛し、隣人を愛しなさいと命じた。これは後に詳しく学ぶことであるが、神様が人間に与えた最も重要な掟は、『思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』と『隣人を自分のように愛しなさい』である。なぜ神様はこれらを最も重要な掟として守るように命じたのか。それは人間と神様との間に、そして人間相互の間に、双方向的な愛の交わりが実現することを強く望んだからである。
 だとすれば、この一節に込められた重要な知恵が何であるか、もうお分かりだろう。人間の人生の目的は神様を愛し、隣人を愛し、双方向的な愛の交わりを実現することにある、そして人間は本来そういう目的を目指すように造られたとこの一節は伝えたいのだ。
 これは極めて重要な知恵である。今も昔もこの知恵を拒否する人がけっこういる。人は別に愛の交わりなど目指す必要などないのだと。交わりなんて面倒だから、一人で自由に生きていくのがよいのだと。この傾向は、最近インターネットが発達することによって助長されている。なぜならインターネットとつながってさえいれば、別に他の誰かと交わらなくともそれなりに楽しく暮らすことができるからだ。しかもSNSやスカイプ・ズームなどのアプリを用いればそれなりの遊戯的な交わりを楽しむことができる。こうなると、ますます多くの人が愛の交わりなんて目指さずに一人で自由に生きて行こうと考えるようになる。はたしてそれで人は幸せになれるのだろうか。
 たぶん無理だろう。そのことをはっきり教えてくれたのが新型コロナ・ウィルスである。このウィルス感染症が拡大したことによって世界中のたくさんの人々が一月以上にわたって他者との交わりを断たれた。他者との交わりのほとんどはインターネットを通じてのみ行われることとなった。その結果どうなったか。ほとんどの人は、他者との交わりの飢餓状態に陥ったのだ。自宅待機状態が一月も続くと人は誰かと交わりたくてどうしようもなってくる。親に会いたい、兄弟に会いたい、友人に会いたい、職場の仲間に会いたい、恋人に会いたい・・・。こうした気持ちがほとんどの人の心に強く芽生えた。これこそは、人間の目的は双方向的な愛の交わりにあり、人間はそれを目指すべくして造られたという聖書の知恵の正しさを裏付ける証拠ではないか。

2.助け合いの必要
 しかし、ここにはさらに重要な本質的な知恵が込められている。その知恵を指し示すのは「彼に合う助ける者をつくろう」という言葉である。神様は人が愛する対象として別の生物を造ろうとしているのだが、その別の生物はただの別の存在ではない。「助ける者」、すなわち助け手なのである。神様は人間が愛すべき相手を助け手として創造しようとした。ここにはいったいどういう知恵が込められているのだろうか。この知恵を知るためには、この先の不思議な記事を読み進まなければならない。続きを読んでみよう。
 2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
 2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
一見わけのわからない描写であるが、先ず抑えておくべきことは、この通りのことが起こったわけではないということである。創世記の1章では、神様が他の生物を造った後で人間を造っていた。対してここでは、人間を造った後で他の生物を造っている。もうめちゃくちゃと言ってもよい。聖書は物質現象のことを解説しようという書ではないから、こうしたことについては平然と矛盾したことを語るのだ。では、この記事が本当に伝えようとしているのはどういうことであろうか。
 名前はその存在の本質をあらわすという古代の常識を前提とすれば、理解することができる。この常識からすれば、人が他の生物に名前をつけたということは、人がその生物の本質を理解したということを意味する。つまりこの描写は、人があらゆる生物の本質を調べて理解してみたが、自分の助け手にふさわしい生物を見つけることができなかったことを伝えようとしているのだ。一体なぜ見つけることができなかったのか。もちろん他の生物には人格がなかったからである。他の生物は全て本能のままに生きる存在であった。そのような存在が人間の助け手になれようはずがない。他の生物をことごとく調べて理解した結果、人は人格を持つ自分にふさわしい人格を持った助け手をどこにも見出すことができなかったとこの描写は伝えようとしているのだ。
 そこで神様は、人格を持つもう一つの生物、すなわち女を作ることにする。
  2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
  2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
再びわけのわからない描写である。もちろんこの通りのことが起こったというのではない。聖書はもっと精神的なことを伝えようとしているのである。では何を伝えようとしているのか。その一つは、もちろん神様が女を男と同じように人格を持つ存在として創造したということである。しかしそれだけではない。この描写はそれよりもはるかに重大なことを物語っている。「人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」とはいったいどういうことであろうか。もし物質現象のことではなくて精神のことを言っているのだとすれば、これは、神様が男の人格の一部を抜き取ることによって、女の人格を創造したと言っていることになる。いやもっと本質的なことだけを取り出すならば、これは、神様が男と女をそれぞれ人格に欠けたところを持つ不完全な存在として創造しなおしたと言っていることになる。これはいったいどういうことなのであろうか。このことを通して聖書はどんな知恵を伝えようとしているのであろうか。
 結論から言えば、このことが伝えようとする一つ目の知恵は、助け合いの必要である。男も女も人格的に完全ではなく、欠けたところを抱えている。だから男女は、互いに寛容になり、補い合い、助け合わなければならない。互いに寛容になり、補い合い、助け合ってこそ、男女は人格的に完成し、人格本来の進路である愛の道を歩んでいくことができる。そうなることを神様が望んだとそのような知恵をこのグロテスクな男女創造の物語は伝えようとしているのである。
 このことは、けっこう直感的に真理であると受け止めることができるであろう。男の人格的特徴とは何であろうか。男にもいろいろな人格の男がいるけれど、その人格の一般的性質は強さであろう。男は一般的に強さを売りとするのである。しかしその分残酷にもなりうる。けんかをしたり、戦争を始めたりするのはたいてい男である。対して女の人格的特徴とは何であろうか。女にもいろいろな人格の女がいるけれど、その人格の一般的性質は優しさであろう。女は一般的に優しさを売りとするのである。しかしその分軟弱にもなりうる。苦境や困難な仕事から真っ先に逃げ出すのは女である。だから、強い男は優しい女に補われて初めて愛の道を歩んでいくことができるし、他方優しい女も強い男に補われて初めて愛の道を歩んでいくことができる。もちろん現実にはいろいろな組み合わせがあるであろう。優しい男と強い女の組み合わせもあるかもしれないし、繊細な男と度胸のある女との組み合わせもあるかもしれない。いずれにせよ、男女は互いの人格的欠点を補い合い、互いに助け合ってこそ愛の道を歩んでいくことができる。事実、夫婦も家族も、いや会社や議会や政府ですらも、そのような男女の助け合いがなされてこそ愛の道に沿って健全な発展を遂げていく。だからこそ、最近ではあらゆる団体が、一定数のメンバーを女性に割り当てるというジェンダー・バランスというアイディアを採用しているのである。
 というわけで、神様は、男女の人格を不完全なものとして創造し、男女が助け合うことによって愛の道を歩んでいくことを望んだ。そのようにして男女が人間の双方向的な愛の交わりの基礎となることを望んだのだ。

3.愛の本質
 しかし、ここにはもっと重要な知恵が込められている。つまり、神様が男と女をそれぞれ人格に欠けたところを持つ不完全な存在として創造したという描写のうちには、助け合いの必要よりももっと重要な知恵が含まれているのである。その知恵とはいったい何か。それは、愛の本質は相手の欠点や過ちに対して寛容になり、それらを補い、赦すことであるということである。愛とは、優れた者を好きになることではない。世間では、優れた者(美しい者・強い者・裕福な者)を好きになることを愛するというが、そうしたことは実は愛ではない。エロス(性愛)である。これに対して聖書の説く愛はアガペーと呼ばれ、優れていない者ですら、いやそれどころ欠点と過ちに満ちた者ですら、大切にすることである。すなわち、欠点と過ちに満ちた者に寛容になり、彼らを助け、赦すことこそが愛(アガペー)なのである。神様が男と女をそれぞれ人格に欠けたところを持つ不完全な存在として創造したという描写のうちには、愛とはそのような不完全な相手を大切にすることなのだという知恵とそのような不完全な相手を大切にする愛(アガペー)の道を歩んでほしいという神様の願いが込められているのである。
 だから、相手の美しさや強さや裕福さに引かれて、異性を好きになっているうちはまだまだ愛にいたっていない。相手としばらく付き合い、相手のいろいろな欠点が見えてきて、ああその欠点を助けてあげたいなあと思い、その欠点から生じた過ちを共に担ってあげたいなあと思ったときこそ、愛が生じたときなのである。結婚を考えるときとは、そのような時である。そのような愛(アガペー)が生じたときにこそ人は結婚すべきなのだ。ところが非常に多くの人が、相手が可愛いから、強いから、裕福だからという理由で結婚する。愛ではなくて性愛に基づいて結婚してしまうのだ。そのような結婚が幸せをもたらすがない。なぜならばそこには愛(アガペー)がないのだから。欠点と過ちに満ちた相手の人格を大切にする心がないのだから。事実、性愛に基づいて結婚した人は、相手が醜くなったり、弱くなったり、裕福でなくなったりすると、相手を大切にしなくなる。そしてしばしば離婚してしまう。そうならないために、私たちは真の愛とはどのようなものかをはっきりと知り、それを選び取る人格を養っていかなければならない。つまりは、欠点と過ちに満ちた人たちを大切にする愛の習慣を身につけておく必要があるのである。

4.究極の愛
 最後の部分へと進もう。
  2:22 ・・・。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
  2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
  2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
  2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」この言葉は明らかに男が女を与えられて大喜びしていることを表している。しかしいったいなぜ大喜びしているのだろうか。もちろんその理由は、愛することのできる相手が与えられたからである。男はせっかく愛することのできる人格を与えられたのに、本格的に愛することのできる相手を与えられていなかった。他の生物には人格はないし、神様は霊的存在である。これではなんとも愛し甲斐がない。人格がない相手を愛しても虚しいばかりだし、霊的存在を愛してもやはり虚しい。ところが女は人格があり、きちんと実体のある存在なのである。男は、これで初めて具体的に愛することができる相手が見つかった感じ、大喜びしたわけである。
 しかしこの男の大喜びがあらわすものはそれだけではない。ここには、再び重要な知恵が込められている。その知恵を教えてくれるのは、男の喜び方である。「これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」とはいったいどういう喜びようであろうか。いったいなぜ男はこのような喜び方をしたのであろうか。それはもちろん二人が元々一体であり、今なお一体であるかのように感じたからである。「これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」という言葉には、別の異なる人格を持つ相手を自分と一体のものとして受けとめる類まれな感情が表れている。実を言えば、この感情こそは、愛の理想的状態であり、究極の愛とさえいえる心のありようである。愛とは何であったか。それは欠点や過ち満ちた相手を大切にする態度のことであった。ところがここに現れている男の感情は、それを超えている。欠点や過ちに満ちた相手を単に大切にするだけではなくて、自分と一体のように感じているのである。相手が痛めば自分も痛い。相手が喜べば自分もうれしい。相手と共に悲しみ、相手と共に喜ぶ。一体のように感じるとはそのようなことである。これこそまさしく愛の理想であり、究極の愛の姿である。「これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」という男の喜びの言葉は、究極の愛とはそのようなものであると教えてくれる。欠点や過ちに満ちた別人格を持つ相手を自分と一体のものとして感じることこそ究極の愛であると教えてくれるのである。相手を別個の対象とみなし、美しいとか強いとか裕福だとかいって価値判断をくだすエロス(性愛)とは全然異なる境地がここにある。
 ここを理解するなら、以下の部分も全て理解することができる。「これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから」とあるように男は女を自分の名前「イシュ」を少し変形させて「イシャー」と名づけたわけだが、これもまた男が女を自分と一体であるかのように感じた結果である。ちなみにヘブライ語では、男を今なおイシュと呼び、女をイシャーと呼ぶ。
 「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」という言葉も、究極の愛が「一体」であるという感覚にあり、その延長線上に結婚があるのだということを伝えようとしている。
 「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」という言葉も、究極の愛である一体感を別の角度から言い換えた言葉である。相手が一体であると思うなら、相手に対して自分の欠点を恥じる必要などない。なぜなら自分の欠点は相手の欠点であり、相手の欠点は自分の欠点であるように感じられるのだから。だから二人はどんなことでも心を開いて正直に語り合うことができる。これこそ究極の愛の現われであり、「裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」という言葉はその正直で開かれた心の状態を比ゆ的に表した言葉なのである。後に二人は神様に背いて「善悪の知識の木」からとって食べ、「善悪の知識」(価値判断の知恵)を手に入れるのだが、そのときには自分の欠点や過ちが恥ずかしくなり、それらを隠すようになる。その挙句には自分の過ちの責任を他者になすりつける。これは究極の愛である一体感とは正反対の境地であり、優れたものを好きになる性愛(エロス)の帰結である。同じ愛でも、聖書の説く愛(アガペー)と世間で言うところの愛(エロス=性愛)ではぜんぜん違うのであり、その結果も全然異なる。皆さんにはぜひともこの二つの違いをきちんと区別し、前者の愛を育んでいただきたい。そして究極の愛を目指して生きてもらいたい。

5.まとめ
 というわけで、今日の箇所は、愛について非常に重要な知恵を与えてくれる。まとめるなら、以下の通りである。
 @人間の人生の目的は互いに愛し合うこと(双方向的愛の交わり)であり、人間はそれを目指すように造られている。
 A男女の人格にはそれぞれに欠けたところがあり、男女はそれを補い合い、助け合うことによって愛の道を歩むように造られている。
 B愛の本質とは、相手の欠点や過ちに寛容になり、そのような相手を助けてやり、赦してやろうという態度である。
 C究極の愛は、相互に一体であるという感覚である。そこでは相手の傷みや喜びが自分の傷みや喜びとなり、隠すべきことは何もなく、正直で開かれた心が保たれる。
ちなみに最後に重要ことをもう一つ付け加えておこう。今日の箇所の題材は男女であるけれど、そこに込められている愛の知恵のほとんどは男女関係のみにあてはまることではない。同性間にでも、性的マイノリティ(LGBT)間にでも、当てはまる。要するに、神様は、全ての人間が欠点や過ちを補い合いながら双方向的な愛の交わりを実現していくことを望んでいる、そしてそのように歩むことができるように人間を創造したのである。今日の箇所が示す男女関係は、全ての人間関係のモデルに過ぎない。

 
「人格を生かす道」
2020年6月7日(日)春風学寮日曜集会
創世記
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
・・・
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
・・・
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

序 命の息(復習を兼ねて)
 ここもかつて取り上げられたことのある箇所だが、新入生のためにより深く学んでみよう。
 今日の箇所はこう始まる。
  2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
ここには神様が人間を創造したときの様子が具体的に描かれているが、もちろんこれも物質現象を説明しようとした言葉ではない。では何を言おうとしている言葉か。やはり、人間の特別な価値を伝えようとしている言葉であろう。「命の息」は原語のヘブライ語では「ニシュマト ハイイム」で、その意味は「命の霊」あるいは「命の原動力」とでもいうべきものである。この「命の息」は人間だけでなく全ての生物に存在し、この「命の息」があるからこそ、全ての生物は生きている。そしてその「命の息」は神様から与えられたものであるから、全ての生物の命は尊いものであり、価値があると聖書は考えるのである。しかし、その「命の息」が実際に生物に与えられる様子が描かれているのはここだけであり、しかもそれは人間に関するものでしかない。だとすれば、この描写もまた人間の価値を特別なものとして位置づけるための記事であろう。すでに学んだとおり、人間は神様が持っているのと似た人格を与えられている。だからこそ他の生物よりも、一段階尊い。そのことをここは改めて強調しようとしているのである。

1.エデンの園の謎
 今日の箇所のテーマはもちろんその続きである。しかし、人格を与えられた人間というテーマがさらにほりさげられていく。先ずは、2:8〜9を読んでみよう。
 2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
 2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
いわゆる「エデンの園」の創造である。神様は、世界の一隅のエデンというところに、人間が暮らすための完璧な場所をお造りになった。それが「エデンの園」である。エデンという言葉は元々は「楽しみ」とか「贅沢」とかいう意味であるから、この園は後に「楽園」と呼ばれることになる。そうなのだ。神様は人間が何不自由なく暮せるようにと、人間のために「楽園」を造ったのだ。
 ところが神様は最後に不可解なことをする。「園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」のである。そして人間にこう命じる。
 2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
 2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
はてさて、これはいったいどういうことであろうか。神様はいったい何のためにこのような木をわざわざ植えて、その木の実を食べることを禁じたのであろうか。これは極めて大きな問題なので、一つ一つ謎を読み解いていく必要がある。

2.なぜ神様は「善悪の知識の木」を植えたか
 この謎を解く鍵は、神様が人間だけに人格を与えたという前回からのテーマである。人格とは何であったか。それは本能の束縛を超えて自由に愛を選ぶことのできる性質であった。この人格の意味をよく考えるなら、神様がエデンの園の真ん中に敢えて危険な木を植えて、食べるなという命令を発したのか、その理由が理解できる。神様は人間に人間が与えられた人格(自由)をきちんと使うことができるかどうか試す試練を与えたのだ。人間が人格によって神様の命令にきちんと従う道を選ぶか、それともそれに逆らって本能に従属する道を選ぶか、それを試す試練を与えたのだ。神様の命令に従うならば、それは神様を愛する道であり、人格の正しい行使である。いや、それだけではない。命の恵に預かり、永遠の命にすらいたることができる。神様は正しい人格行使の報いとして永遠の命を与えるために命の木を植えたのだ。しかし、神様の命令に背いて本能を選ぶなら、それは神様に背く道(罪の道)であり、人格の間違った行使である。いやそれだけではない。その報いは、死である。命の根源である神様に背くなら、命は与えられず、死ぬことになってしまう。神様は自分に背いた罰として死を与えるために「善悪の知識の木」を植えたのだ。
 ここは極めて重要なので少し補足しよう。本能自体は罪ではない。神様に逆らって本能を選ぶとき、その選択は罪となるのである。神様に背かない限り、いくら本能に従おうとそれは罪ではない。神様はそもそも本能を祝福していたのだから。しかし、もし神様の命令に背いてまで本能に従うならそれは罪である。例えば、パンを食べたいと思うことは罪ではない。しかし人の物を奪ってまでパンを食べたいと思うならそれは盗みを禁じる神様の御心に反するので罪である。神様は人格を持った人間がこの罪の道を選ぶか、それとも愛の道を選ぶか、そこを試そうとしている。神様に背いてまで本能に従う罪の道を選ぶか、それとも本能を捨てて神様に従う愛の道を選ぶか、神様は試そうとして「命の木」と「善悪の知識の木」という二本の木を植えたのだ。

3.「善悪の知識の木」とは何か
 すると、一つ疑問が湧いてくる。なぜ神様は「善悪の知識の木」などというややこしい名前の木を与えたのであろうか。神様に逆らったことの報いが死であるなら、単に「死の木」を植えればよいではないか。ところが神様が植えた木は「善悪の知識の木」である。それは確かに死をもたらす木なのだが、死以外のものをももたらす。つまり「善悪の知識」をもたらすである。いったいなぜ神様はこのようにややこしい木を植えたのであろうか。
 その理由の第一は、「死の木」などという木を植えたところで、試練にはならないからである。食べると必ず死ぬ「死の木」を植えたところで人間は食べようと思わないであろう。それでは何の試練にもならない。単に死ぬだけでなく、何か魅力的なものをもたらせばこそ、人はその木からとって食べたいという気を起こし、試練が成立する。神様は死の危険を犯してまで食べたいと思わせるためにこそ、もう一方の木をただの「死の木」とはせずに、死と共に「善悪の知識」という魅力的なものをもたらす「善悪の知識の木」としたのである。
 しかし、神様がこの木を植えた真の理由はさらに深い。その深い理由を知るためにはこの木がもたらす「善悪の知識」がいったいどのようなものかを探らなければならない。それについて教えてくれるのが、3:7以下の描写である。ここには、「善悪の知識の木」から採って食べた人間にどのような変化が生じたかが詳しく記されている。彼らはこの木から食べた結果確かに死ぬ運命へと定められることになるのだが、その前に彼らには重大な変化が生じている。その変化こそは「善悪の知識」の獲得である。では、その変化とはどのようなものであったか。
 3:7にはこうあった。
  3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
先ず二人に現れた兆候は、自分たちが裸であることを知り、恥ずかしく思ったことである。特に、自分の性器が醜いと思い、それを「いちじくの葉」で覆わずにいられなくなった。このことは何を意味するのであろうか。もちろん彼らに美醜を判断する知恵が備わったことを意味しているのだ。
続いて二人は神様から隠れようとする。
  3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
  3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
  3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
男は、裸であるから神様が恐ろしくなり、隠れたと弁明している。一体なぜ裸であることが怖いのか。それは、自分たちが悪いことをしたとわかっているからである。彼らは、神様の命令に背くという悪いことをしてしまったということがわかっている。それを見透かされたくないと思っている。だからこそ神様から隠れ、裸であることを恐れているのだ。このことは何を意味しているか。もちろん二人には、善悪を判断する知恵が備わったことを意味しているのだ。
最後に彼らは自分の犯した罪をなすりつけあう。
  3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
  3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
  3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」なんと情けない言葉であろうか。自分の罪を反省するどころか、その罪の責任を女になすりつけている。いやそれどころか、女を与えて下さった神様にさえなすりつけている。なんという自己正当化であろうか。女は女でその責任を蛇になすりつける。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」これまたなんと情けない。自分の罪を動物のせいにするとは。これは究極の弱い者いじめであり、差別ではないか。このように「善悪の知識の木」から採って食べた二人は、自己正当化や責任転嫁や弱い者いじめや差別という卑劣な罪を犯すようになった。この先に争いや殺し合いさえも起こるであろうことは想像にかたくない。二人はあらゆる罪を犯すようになってしまったのである。しかし、いったいなぜ彼らはこのような様々な卑劣な罪を犯すようになってしまったのであろうか。彼らの様々な罪の中心に横たわる知恵とはいったい何なのか。その知恵とは、言うまでもなく裁きの知恵である。二人はここで明らかに善悪を判断するという裁きの知恵を発動している。この裁きの知恵を身につけたからこそ、二人は自分を正当化し、他者へと責任を転嫁し、弱い者いじめや差別をするようになったのである。裁きの知恵こそはあらゆる罪の大元である。そしてこの最後の部分は、「善悪の知識の木」から採って食べた二人がその恐るべき裁きの知恵を身につけてしまったことを伝えようとしているのだ。
 このように学んでみると、「善悪の知識」とはいったい何なのか分かってくる。それは、ありとあらゆるものに対して良し悪しの価値判断を下し、ついには人間や神様に対しても価値判断を下していく裁きの知恵のことなのである。裁き(=価値判断)の知恵、これこそ「善悪の知識」なのである。
 そこで話をなぜ神様がただの「死の木」ではなくて「善悪の知識の木」を植えたのかという問題に戻そう。いったいなぜ神様は、神様に背いたことの報いとして、ただの「死の木」ではなくて、「善悪の知識の木」を植えたのか。その答えはもはや明らかであろう。神様はもし人間が神様に背き、自分の価値判断だけで生きていくならば、次から次へと罪を犯すことになり、ついには死に至るのだということを伝えるために「善悪の知識の木」を植え、この木から食べて「善悪の知識」を得ると必ず死ぬことになると警告したのだ。神様に背くということは、神様を無視することであるから、それは要するにあらゆることに対する価値判断を自分で下さなければならないということなのである。何が正しくて間違っているか、何が美しくて醜いか、何が自分のためになり何が自分の害になるか・・・、全てを自分で判断する、これが神様に背くということの意味なのである。では、あらゆることに自分だけで価値判断を下すとどうなるか。様々な罪(自己正当化、責任転嫁、弱いものいじめ、差別、争い・・・)を犯すようになり、ついには死に至ってしまう。このことを端的に伝えるためにこそ、「善悪の知識の木」を植え、自分の命令に背いてこの木から食べると必ず死んでしまうと警告したのである。

4.まとめ
 というわけで、少しややこしくなったのでまとめてみよう。神様は人間に自由に愛を選ぶことができる人格を与えた。そしてその人格を人間が正しく行使することができるか試そうとした。すなわち神様に従うという神様への愛の道を選ぶことができるか、それとも神様に背いて自分で物事を判断する道を選ぶのか試そうとしたのだ。そしてそれぞれの選択にふさわしい報いを用意した。神様に従う愛の道を選ぶ場合には命という報いを、神様に背く道を選ぶ場合には「善悪の知識」(裁きの知恵)と死という報いを。神様が最初に造った二人の人間は、神様に背く道を選び、その結果自分で価値判断を行う裁きの知恵を手に入れたが、他方では様々な罪を犯すことになり、死へと向かって突き進んでいくことになった。以上が今回の記事の要約である。
 それではこの記事を通して聖書が伝えようとしている知恵とはいったい何であろうか。それは表裏一体をなす二つの知恵である。一つ目は、神様の前にへりくだり、神様の言葉に従うことこそ愛の道であり、命の恵をもたらすということ。もう一つは、神様に背いて自分の価値判断に従うことは罪の道であり、様々な罪と死をもたらすということ。総じて聖書は、人間の人格は、神様に導かれてこそ初めて愛の道を選ぶことができ、命の恵を得るという知恵を伝えようとしているのだ。人格は、自由に愛を選ぶことができる尊いものである。しかし他方では、愛とは逆の道、すなわち自分の本能を満たすために他者を害するという本能に隷属する道(罪の道)をも選ぶことができる危険なものでもある。だからこそ人格は、神様の導きに従わなければならない。人格は神様の導きに従ってこそ、愛に向かい、健全に発展していくということを聖書は伝えようとしているのである。
 さてこの知恵は果たして正しい知恵であろうか。近代人は、自分で判断することを重視して育てられてきた。「あなたの人生だから、重要なことは自分で決めなさい」と。しかし聖書の教えるところはそれとは全然異なる。自分でする判断など間違えだらけであり、そんなことを続けていたら、人を裁き、神様を裁き、自分を正当化し、罪の責任を人になすりつけ、弱いものをいじめ、差別を始める。はては争いや殺し合いを引き起こす。だから自分で価値判断など下してはいけない、とこれが聖書の教える知恵である。果たしてその通りであろうか。人間の人格とはそれほど危険なものなのであろうか。さらに聖書は言う。何事においても先ず神様に相談しなさい。そして神様の判断に従いなさい。それが自分の判断と異なったとしても、神様の言葉が聞こえたならそれに従いなさい。そのようにしてこそ人格は正しく発展していくことができ、命の恵を与えられると。はたしてこれは正しい知恵であろうか。これは私たちがじっくりと考えていく必要のある問いである。
 ちなみに西洋の自分の判断を重んじる人格教育の前提は、神様と相談して神様に従うことを前提としている。この前提があればこそ、自分の判断を重んじるという教育は正しく機能するのである。もしこの前提がなく、自分だけで判断するのをよしとする教育があるとすれば、それは恐るべき過ちを引き起こす。その行きつく先はまさしく裁き、自己正当化、責任転嫁、弱い者いじめ、差別である。
 現在のアメリカはまさしくそのようになろうとしている。アメリカはキリスト教国であるにもかかわらず、神様との相談などすっ飛ばして、ひたすら自分の判断を重んじる教育を行ってきた。だから、トランプのような、聖書の教えに全く反する大統領が選ばれることになった。彼は先日、差別に反対する民衆のデモ行進を蹴散らして、教会の前で聖書を持ち、私こそは聖書を守る正義の味方であると演説していたが、冗談ではない。聖書と神様の名誉にかけて言っておくが、トランプのやっていることは全て聖書とは反対のことである。トランプがいつ神様の前にへりくだり、神様の言葉に従ったであろうか。いったいいつ隣人を自分のように愛しただろうか。いったいいつ敵を愛したであろうか。彼のやっていることはと言えば、隣人を見捨て、敵を攻撃することばかりではないか。自分の仲間だけをえこひいきし、対立をあおることばかりではないか。トランプは神様の言葉など無視して自分の判断を至上のものと考えている。彼には神様の前にへりくだる精神など微塵もない。だからトランプの政治からは、裁きと自己正当化と責任転嫁と弱い者いじめと差別ばかりが生まれてくる。そしてそこから無限に対立と流血が生まれてくるのである。トランプの政治こそは、自分だけで判断するならば、罪と死を招くという聖書の教えの正しさを完全に証明している。
 聖書を持ち出す者がいつも正しいとは限らない。それどころか、聖書を持ち出す人間の中にこそ最も性質の悪い偽善者がいる。だから、そのような人間を見て、聖書を捨ててしまわないようにしてもらいたい。聖書の教えは彼らとはぜんぜん違っている。この違いを見抜けるようになってほしい。

 
生物と人間A
2020年5月31日春風学寮日曜集会

創世記
1:21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
1:23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
1:24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
1:25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。

序 復習
 前回は、神様が人間をご自身に似せて造ったという言葉について学んだ。その意味するところは、神様が人間にご自身のような人格を与えたということであった。そこには、人間の人間たるゆえんは自由に選ぶことのできる人格であり、愛の形であり、個性である、そうであればこそ人間は他の動物よりも価値があり、人間の命には尊厳があるという聖書の知恵が込められている。人格=自由=愛の形=個性。これらを持つからこそ人間は尊いのだと聖書は述べるのである。
 すると他の生物はどうなのかという疑問が出てくる。他の生物は尊くないのだろうか。その疑問に答えてくれるのがこれに続く神様の言葉、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」である。今日はこの言葉について深く学んでみよう。

1.「支配」とは
 そこで先ず片付けなければならない言葉が「支配する」という言葉である。この「支配する」は、原語のヘブライ語では「ラダ」と言い、その意味はむしろ「統治する」である。つまりこれは公正な統治を意味する言葉なのである。したがって、「生き物をすべて支配せよ」という言葉の意味は、「全ての生き物を公正に統治せよ」ということであって、全ての生き物の支配権を与えるから好き勝手に利用してよいという意味では決してない。
 加えて、人間は人格を与えられた存在である。人格とは愛を選ぶことができる性質であったから、そうなると、ここでの「支配」の意味は、「愛をもっての統治」ということになる。つまり「生き物をすべて支配せよ」という言葉の厳密な意味は、「全ての生き物を愛をもって統治せよ」ということなのである。

2.異なる自然観
 するとここで疑問が湧いてくる。はたして他の生き物を統治する必要などあるのだろうか。人間が手を出さずに放っておいたほうが他の生き物は、自然の法則にしたがってうまく調和を取るのではないか。それどころか、人間が手を出すからこそ自然は調和を損ねてしまうのではないか。
 聖書はそう考えない。聖書においては、自然の法則も生き物を支配する本能も(自然の法則=本能)完全なものではない。それは愛をもって導かれてこそ完成に近づいていくと考えるのである。すなわち、愛を選ぶことのできる人格を持った人間に導かれてこそ、本能(自然法則)に縛られる他の生物は平和に生きていくことができると考えるのである。そうであればこそ、人間は他の生物よりも一段尊いと考えるのである。
 これは仏教徒や環境保護論者の間に根強い自然崇拝の思想とは全く異なる考え方である。自然崇拝の思想は、自然法則、すなわち本能を万能であると考える。すなわち自然法則(本能)に任せておけば、万物は調和に導かれると。そして、そうであればこそ本能を持つ全ての生物の命は尊いと考える。人間も他の生物も等しく本能の支配されている以上、その命の価値は全く等しいと。ここから全ての命の尊厳という考えが生まれ、「命こそ宝」という有名な言葉が生まれてくる。そして全ての生物を殺してはいけないという殺生禁止の教えが生まれてくる。さらには、人間もできるだけ自然に回帰し、本能に忠実な生活を送るのが良いという教えが生まれ、できるだけ人間は自然に手を出さないほうがよいという教えが生まれてくる。
 さて聖書の説く知恵と自然崇拝思想の説くこれらの教えとではどちらが正しいのであろうか。

3.自然崇拝思想の限界
 思うに、自然崇拝思想は間違っている。そもそも、本能(自然法則)に従って生きていれば自然に調和した世界が築かれるという教えが間違っており、それゆえに本能を持つ全ての生物が等しく尊いものであるという教えもが間違っている。以下、これらの間違いを論証していこう。
 @本能(自然法則)に即して生きていれば自然に調和した世界が築かれるという教えの間違い
 自然崇拝思想は言う。本能(自然法則)に即して生きていれば、自然に調和した世界が築かれると。本当であろうか。本能とはそもそも何であったか。その中心は自分を守る性質であった。食欲、性欲、睡眠欲、快楽欲…。本能的欲求には様々な欲求があるが、それら全てに共通する本質的欲求は自分を守ろうとする自己保存の欲求である。この性質は確かに大切である。この性質があればこそ生物は活力を持ち、いろいろなことを学んでいくことができる。しかしこの性質だけで生きていくとき、そこに現出する世界はどのような世界であろうか。それは、完全な実力主義の社会であり、万物が闘争しあう弱肉強食の世界ではないか。事実、人間以外の生物の世界は、そのような弱肉強食の世界に生きており、強いものだけが生き延び、弱いものは滅びていく。動物の世界には、弱いものに対する思いやりなどというものはないのである。障害を負った仲間を助けようとする動物がいるだろうか。えさが取れなかった仲間にエサを分けてやろうとする動物がいるだろうか。ごく少数の例外はあるものの、ほとんどの動物にそのような意志はない。自然崇拝者たちは、自然(本能)に即して生きていけば、自然に調和した世界が生み出されるというが、動物たちが生きている自然界は本当に調和した世界なのであろうか。外から見ていれば調和的に見えるかもしれないが、そこは本当に調和的な世界なのであろうか。私たちは本当にその中で本能に従って暮していけるのであろうか。強いものだけが生き延び、弱いものは滅んでいく自然界で幸せに生きていくことができるのであろうか。
 内村鑑三は、こう述べている。「天然は美なれども、それは表面だけのことである。一歩深くそのうちに入れば、醜怪、混乱、残虐、闘争である。百花うるわしく咲きそろう草むらの中に、恐ろしき生存の戦い、殺伐なる弱肉強食が行われている。彼らは全ておのれより弱きものを虐げて、おのれより強きものに虐げられる悲惨な有様にある。地の上のいたるところにこれが行われると共に、水中のいたるところに同じくこれが行われている。しかもこれは単に自己の生存に必要な範囲にとどまらずして、ただ他の生命を断ちて快とする残虐にまで達している。」(「ロマ書の研究」300頁)(いたち、猫、シャチの例)。自然界とはかくのごとき世界である。このような世界でどうして人間が暮していけようか。
 この問題を正面から取り扱ったのが、現代の傑作アニメ・漫画である宮崎駿の「もののけ姫」であり、「風の谷のナウシカ」であり、そして「風立ちぬ」である。これらの作品はいずれも、自然の素晴らしさを讃えているようであるが、その主人公たちは一度たりとも自然に回帰する生活を良しとはしていない。「もののけ姫」の主人公アシタカは狼の間で育てられたサンの表す自然の世界に共感を示しながらも、その世界に生きることを拒否し、人間の世界にかえって行く。「風の谷のナウシカ」の主人公ナウシカも、オウムに代表される自然界に共感を示してはいるものの、部族のリーダーとしての役割を果たすことを最優先に考えている。「風立ちぬ」の主人公堀越二郎も自分が造った飛行機が人を殺すという悪夢に悩まされながらも、結局は技術者としての自分を肯定していく。これらの作品は全て、自然界の素晴らしさに一定の共感を示しならも、そこは人間の暮らすべきところではないし、また暮らすことのできるところでもないと訴えているのである。宮崎は、自然法則や本能に従って生きることによって現出する弱肉強食の世界に人間は生きられないと結論したのだ。宮崎のこの結論は正しいと思わないだろうか。
Aすべての生物は等しく尊いものであるという教えの間違い
 続いて、すべての生物は等しく尊いものであるという教えの間違いについて述べよう。アルバート・シュヴァイツァー(1875-1965)という人を知っているだろうか。この人は、子供向けの偉人伝に取り上げられるほどの立派な人物である。彼は、神学者・哲学者であり、オルガン奏者であり、オルガン製作者ですらあった。彼は、これらの全ての領域で多大な貢献をしたにもかかわらず、それに飽き足らず38歳のときに医者になり、アフリカへ渡って医療事業を開始する。オルガン演奏で稼いだお金を投じて病院を作る。さらには平和運動にも身を投じ、核兵器廃止を訴える。まあ、何でもできるスーパーマン、それがシュヴァイツァーであった(黒川先生のような)。
 この人の思想の中心が「生命への畏敬」という考えで、それは彼独自のキリスト観から出たものであるが、要するに全ての生物を尊いものと見なし、等しく大切にするという考えであった。彼はこれを実践するために医者となり、アフリカに渡ったわけだ。ところが、アフリカへ渡ったときに困ったことが起こった。病原菌を媒介する無数の蚊が彼に襲い掛かってきたのだ。蚊にも尊い命がある。だとすればこれを殺すわけにはいかない。いったいどうすればよいのか。彼は、「生命への畏敬」という考えを貫いた。つまり蚊を殺さないことにしたのだ。こうして以降彼は蚊と共存していくことになる。しかし彼のこの知恵はやがてもっと大きな困難に突き当たる。病気を撲滅するためには、病原菌を殺さなければならない。しかし、病原菌とても生命ではないか。ここに彼は完全に矛盾に陥った。「生命への畏敬」を唱えながら、細菌を殺す仕事を続けざるを得なくなったのだ。これは偽善ではないか。
 もう一つ例を挙げよう。それは、「生類憐みの令」である。日本史で習った人もいるだろう。これは、熱心な仏教徒であった江戸時代の五代将軍徳川綱吉によって出された、すべての生物を等しく大切にしようという法令の総称で、その範囲は、動物は言うに及ばず、鳥、魚、貝、昆虫にまで及んでいだ。これらの法令に反して生命を殺した者は刑罰の対象となることもあった。特に、犬は大切に扱われ、犬を殺した者は、追放、流刑、ひどい場合には死刑に処せられた。しかし、このようなことを実践すると人は身動きが取れなくなり、経済活動が成り立たなくなっていく。鳥や魚や貝を殺せないなら、魚屋や料理屋は営業停止に陥り、一般家庭の食卓も成り立たなくなる。だから、生物を殺すのは漁師や猟師たちであり、一般人は殺された生き物を食べるだけだから、一般人には罪はないという偽善的な法解釈が作り出された。そのお陰で、一般人は普通に魚を食べることができた。江戸城でも魚は平然と食べられていたし、綱吉自身も食べていたと推測されている。では、漁師や猟師は処罰されるのか。彼らには特別に生き物を殺す許可が出され、彼らは処罰をまぬかれた。しかし彼らは隠然と軽蔑された。なんという理不尽であろうか。
 このように振り返ってみるならば、全ての生物の命を等しく尊いとみなす教えがいかに実行不可能なものであるか理解することができる。この教えを本気で実行しようとするならば、私たちの暮らしは成り立たなくなってしまうか、恐ろしく偽善的なものとなってしまう。
 全ての生物の暮らしは他の生物を殺すことによって成り立っている。私たち人間もまたしかりである。私たちは魚を食べ、肉を食べ、野菜を食べる。道を歩けば知らず知らずのうちに蟻を踏み潰す。健康を保つために病原菌を殺し、ウィルスを殺す。なべて生物は他の生物を殺すことなしに生きていくことなどできない、これが全ての生物の真実である。この真実を見据えるなら、全ての生物の命を等しく尊いと考えて、一切の殺生を禁じる教えがいかに間違ったものであるかすぐに理解できる。

4.聖書の考え方
 そこで聖書に戻ってみよう。聖書は、人間と他の生物の問題をどう考えているのだろうか。すでに学んだとおり、聖書は、人間を特別な存在と考えていた。人間は神様から特別な性質を与えられた、すなわち愛を選ぶことができる人格を与えられた、この人格のゆえに人間には特別な価値がある、人間の命には侵すべからざる尊厳があると考えていたのである。
 では他の生物はどうか。他の生物の命には価値がないのか。もちろんそうではない。彼らの命にも価値がある。神様は彼らを造るたびに「良し」と心につぶやいていたし、彼らの生命を祝福してこう言っていた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」これらのことからすれば、聖書は決して他の生物の命を軽んじているわけではない。それどころか、そこに大きな価値を見出している。言い換えれば、聖書は、他の生物の性質である本能の価値を認め、本能(自然の法則)を「良し」としているのである。その証拠は、菜食主義の推奨である。先ほど読んだ箇所には、次のような言葉があった。
 1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
 1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
これは、神様が全ての動物を養うための食糧として植物を創造したという記事だが、これまたその通りのことが起こったということではない。これは、神様が人間に菜食主義を望んでいるということを伝えるための物語である。そうなのだ。神様は、本当は全ての人間が菜食主義であることを望んでいる。これこそは、聖書が他の生物に価値を見出していることの証拠である。
 にもかかわらず、聖書は他の生物と人間を等価とはみなさない。なぜなら人間の人格と他の生物の本能との間には歴然たる相違があるからだ。人格は愛へと開かれており、愛を目指すことによって平和な世界を作り出すことができる。対して本能は、生物の成長に重要な役割を果たしはするものの、最終的には実力闘争世界・弱肉強食世界を生み出してしまう。だからこそ聖書は、本能に支配されるほかの生物と人格を与えられた人間との間に、歴然たる価値の違いを見出すのである。
 だから、聖書は人間の殺害と他の生物の殺害とをはっきりと区別する。殺人は重罪であるが、他の生物を殺すことは、罪ではあるけれど、重罪ではないと考える。モーセの十戒の第六戒は、「殺してはならない」と命じるが、これは人を殺してはならないということであって、他の生物を殺してはならないということではない。だから、神様は菜食主義を推奨しながらも、後に(創世記9:3で)しぶしぶではあるが、人間に他の生物を殺して肉を食べることを許すのである。

5.まとめ
 まとめるなら、聖書は、人間に最高の価値を置き、動物に二次的価値を置き、植物に三次的価値を置く。命は神様からの賜物であるから、どの生物の命も尊いものであるのだが、だからと言ってその全てが等しく尊い、その全てを殺してはならないとは教えない。植物は必要な範囲で殺してもよいし、動物は止むを得ぬなら殺してもよいと認めるのである。必要な限りにおいてのみ植物を殺し、やむを得ぬ限りにおいて動物を殺す。それ以外においては全ての生物を大切に扱う。これが、聖書の唱える「愛に基づく全ての生き物の統治」である。
 これは果たして人間中心主義であろうか。聖書の中心は神様であるから、聖書は基本的には神様中心主義であるが、神様を度外視するなら、聖書はやはり人間中心主義であろう。しかし問題はこの人間中心主義を否定することは誰にもできないということである。もしそれを否定するなら、その人は肉も魚も野菜も食べることができなくなるし、病気を治すためにウィルスを殺すこともできなくなる。蟻を踏み潰したら殺害の罪を問われることになる。このような事態は明らかに異状ではないか。
 他の生物との関係において、現実は人間中心主義によって動いているのであり、それだけでなく、人間中心主義が全うな考え方なのである。
(参考:内村鑑三「ロマ書の研究」、北森嘉蔵「創世記」)

 
「生物と人間」@
2020年5月24日春風学寮日曜集会
創世記
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
2:1 天地万物は完成された。
2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

序 聖書の柱をなす二つの知恵
 今日も復習がてら、基本的なことを学ぼう。すなわち、生物とは何か、人間とは何か、という問題について、聖書はどう考えているかを学んでみようと思う。今日の箇所で神様は、先ずこう述べている。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」ここには極めて重要な二つの知恵が含まれている。一つは、神様が自分にかたどって、自分に似せて、人間を創造したということ。もう一つは、神様がその人間に他の生物の支配をゆだねたということである。この二つの知恵は、聖書の重大な特徴を形成する知恵であるばかりか、私たちの生活に重大な影響を及ぼす知恵でもあるので、詳しく学んでおく必要がある。というわけで、今回はその一つ目の言葉、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」について詳しく学んでみよう。

1.「我々に似せて、人を造ろう」
 先ずは、「我々」という言葉を片付けておこう。聖書の神様は唯一神なのになぜ自分を「我々」と呼ぶのだろうか。これは、ヘブライ語の畏敬複数という文法の用法で、王侯のような高い身分の人たちが自分のことを指して言うときに用いる敬語の一種である。きわめて高い身分の人たちは自分に対してさえ敬語を使う。日本語で言うところの「吾輩=我輩」がそれに当たる。「吾輩」は実は畏敬複数なのである。(だからこそ「吾輩は猫である」というタイトルは面白い。猫が自分に対して畏敬複数を使っている。猫の自尊心の高さをよく表している。)まあ、こんなことはどうでもよいことなのだが、「我々」という表現につまずかないように、一応説明しておく。
 重要なのはこの文全体の意味である。「我々に似せて、人を造ろう」と神様は言い、その後にその通りに人間を創造したと創世記は記しているが、これはいったいどういうことなのであろうか。人間は本当に神様の形に似せて造られたのであろうか。もちろんそんなことはない。前々回学んだように、聖書は基本的に物質現象について書いた書物ではない。だからこの言葉を文字通りに受け取ると科学との不毛な対立に陥ってしまう。だから、先ずは、人間は神様の形に造られたのではないということを確認しておこう。ではこの言葉は、いったいどんな知恵を伝えようとする言葉なのであろうか。
 物質現象については無視して、本質的ことだけを取り出せば、この言葉は神様が人間に自分と類似した性質を与えたことを意味している。では、神様と人間の類似点とは何であろうか。ヒントは、人間と他の全ての生物との違いである。神様は全ての生物の中で人間だけをご自身に似せて造った。ということは、他の生物にはなく、人間だけにあるものを見つければ、それが人間と神様の類似点であるということになる。では他の生物になく、人間だけにあるものとは何であろうか。すぐに思いつくものは言葉である。しかし言葉を発するその大元とは何であろうか。それはもちろん人格である。そうなのだ。他の生物にはなくて人間だけにあるものとは人格である。他の生物たちは本能に従って生きている。彼らはいわば本能の奴隷である。ところが人間はそうではない。本能に反することを自由に選ぶことができる。言葉を駆使して、本能よりも尊いものについて考え、本能以外の行動を自由に選ぶことができる。この性質を人格と言う。他の生物になくて人間にあるものとは、そのような人格である。そして神様と人間の類似点もこの人格である。だとすれば、「我々に似せて、人を造ろう」という言葉が何を意味しているのかもうお分かりであろう。神様は人間を自分のような人格的存在に造ろうと言っているのだ。そして実際そのように人間を創造したと創世記は伝えようとしているのだ。
 だとするとこの言葉が伝えようとする本質的知恵が何であるかも分かってくる。神様は人間に自分と同じような人格をお与えになった、だから人間は人格にしたがって本能以外の行動を自由に選ぶことができると伝えたいのである。もっと言えば、人間が人間らしく生きるためには、本能を超えた行動を選ぶべきであると伝えたいのである。この点こそが他の生物と全く異なる人間が人間であるゆえんであると伝えたいのである。

2.人格とは何か
 ところで人格についてはさらに掘り下げて学んでおく必要がある。人格とは、本能に縛られずに自由に選ぶことができる性質であると先ほど説明した。
 では、本能に縛られずに自由に選ぶことができるものとは何であろうか。食欲とか性欲とか睡眠欲とか快楽欲とか保身欲とかそういった自分の身体を満足させるための欲望が本能であるが、それらに束縛されずに自由に選ぶことができることとはいったい何であろうか。結論をさきに言えば、実は愛しかないのである。愛は自分を犠牲にしてでも他者のために尽くす行為である。その目的は、全面的に自分にはなく他者にある。だから、愛こそは(愛だけが)本能から解放された真に自由な行為なのである。学問も芸術も仕事も鍛錬も修行も、自分のために、自分を目的として行うならそれは本能の一部になってしまう。しかし同じそれらのことを、他者のために、他者を目的として行うなら、それらは本能を超えた行為となり、愛となる。まさしく愛こそは本能に束縛されずに自由に選ぶことができるほとんど唯一の行為なのである。
 そこで人格に話を戻すなら、人格とは要するに愛することができる性質であると言い換えることができる。人格とは、本能に縛られずに自由に選ぶことができる性質のことなのだが、そのようにして選ぶことができるのは結局愛でしかない。ということは、人格とは愛することができる性質のことであると言い換えることができるのである。
 思い切り簡単に公式化すれば、人格=自由=愛である。これは、以降人類を支え、導き、発展させることになる超重要な思想的原理である。この原理に基づき、人間らしく生きるとはどういうことかを追求して人類は発展してきた。創世記はこの思想的原理に生きることの重要性を人類に最初に伝えたのだ。

3.個性とは何か
 そこで一つ疑問が生じる。人格が愛を選ぶことのできる自由な性質であるとするならば、人の人格は全て同じなのであろうか。もちろんそうではない。愛は一つだが、愛の実践には様々な方法と形がある。だから、どのような愛の実践を選ぶかによって、人の人格にはそれぞれの個性が出てくるのだ。例えば、学問で愛を実践しようとする人は、知的な愛の形を持つようになり、知的な人格となる。芸術で愛を実践しようとする人は、美的な愛の形を持つようになり、美的な人格となる。仕事で愛を実践しようとする人は、能力的な愛の形を持つようになり、能力的な人格を持つようになる。このように、愛は一つであるがその実践方法や形は様々であり、したがって人格も様々である。つまり、人格には必然的に個性が生じるのだ。
 ここで個性という概念についても少し掘り下げておきたい。世の中には変っていればそれで個性だと考える人たちがたくさんいる。例えば、タバコを吸い、酒を飲み、パチンコに行って、これがおれの個性だと主張するおじさんがいる。ブランドの服やバッグでおしゃれをして、これがわたしの個性だと主張するおねえさんがいる。爆音を鳴らしてバイクで走りまわり、これが自分の個性だと主張するおにいさんがいる。好き嫌いやわがままを自分の個性だと主張する坊ちゃん嬢ちゃんがいる。しかし聖書の知恵によれば、これらのことは一切個性ではない。なぜなら、これらは全て自分の欲望(本能)の変形でしかなく、結局は本能の束縛を超えていないからだ。ちなみにこれらのことを自由と呼ぶ人たちもいる。これまた全くの誤解である。自由とは、本能の束縛から解放されることなのだから、本能に浸ることが自由であるはずがない。聖書を学ばない人たちはどうにも自由のことを理解することができない。
 というわけで、真の個性や自由は本能の束縛を超えているそこれらはただ変っているのではなく、本能から開放された愛の形なのである。そこには必ず自己犠牲的な要素と他者を幸せにしようとする要素が含まれている。これらの要素を含まない性質や行為は個性でも自由でもなんでもない。それらはただの好みであり、好き勝手である。皆さんにはこの違いをはっきりと覚えておいて欲しい。そして好みや好き勝手ではなくて、個性と自由を追求し、伸ばしていって欲しい。個性と自由を伸ばすことこそが、真の成長なのである。

4.具体的には
 聖書の示すこの知恵は、現代においても絶大な力をふるっている。その典型的な例は就職活動である。就職活動のエントリーシートや面接において、学生はいったい何を問われるのか。言うまでもなく個性を問われるのであり、愛の形を問われるのである。「あなたの個性はどのようなものであり、それがうちの組織にどのように貢献するか」を問われるのである。「あなたの愛の形がうちの組織の要求とどのようにリンクするか」と問われるのである。もしその学生が、自身の人格(愛の形・個性)を普段から十分に確立しているならば、これらの問に答えることはたやすいであろう。しかしそれを怠っているなら、どのように言葉を駆使しても返答に行き詰る。就職活動の成否を決定するほどに、自分の人格(愛の形・個性)を確立しておくことは重要なのである。
 男女関係においても同じである。人は結婚相手にいったい何を求めるのであろうか。美しいルックスであろうか、経済力であろうか、優秀さであろうか。とんでもない。そのようなことを求めて結婚するなら、その結婚は十中八九破綻する。人は動物ではないのだから。では、人が結婚相手に求めるものは何か。言うまでもなく、人格であり、愛の形であり、個性である。その人の人格に触れ、心を打たれたときに、人は初めて恋に落ちる。その人の愛の形に触れ、個性に触れたときに人は本当に結婚したいと思う。そしてそのようにしてなされた結婚が幸せをもたらす。結婚の成否を決定するほどに、人格(愛の形・個性)の確立は重要なのである。

5.人格の確立
 では、人格(愛の形・個性)はどのようにして確立していけばよいのであろうか。これについて重大な知恵を教えてくれるのが、今回の聖書箇所の最後の部分である。
 2:1 天地万物は完成された。
 2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
 2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
要するに、神様は六日間働いて天地を創造し、七日目に休まれたと書いてある。これもまた物質現象のことではない。物質現象について書いているならこれほどのでたらめはない。ではこの言葉は何を伝えようとしているのであろうか。ここに込められた本質的知恵とは何なのであろうか。
 それは、言うまでもなく、人間は六日働いて七日目に休むべきだということである。「神様は六日働いて天地を創造し、七日目に休息なさった。だとすれば人間もまた、六日間働いて七日目に休むべきである。なぜなら、人間は神様に似せて造られたのだから」とそう述べているのである。
 では、いったいなぜ人は六日間働いて一日休む必要があるのだろうか。そうすることが身体の健康に必要だからであろうか。もちろんそうではない。何度も言うが聖書は物質現象について書かれた書物ではないのだ。ではなぜ六日に一度休む必要があるのか。それこそ人格を確立するためである。聖書は、人格を確立するための最も重要な方法は、六日働いて一日休むことだと言っているのである。愛の形(個性)を確立していくためには六日働いて一日休む必要があると言っているのである。
 いったいなぜだろうか。なぜ六日働いて一日休むと人格(愛の形・個性)が確立されるのであろうか。それは人格を確立するものは、労働の実践と自己省察の繰り返しだからである。働きっぱなしでは、人は他者の奴隷になってしまう。他者に流されてしまう。これでは人格など確立されない。だからこそ六日に一度、労働を離れ、自分の本来の人格とは何か、自分の本来の愛の形(個性)とは何かを見つめなおしてみる必要がある。他方、自分を見つめるばかりいても本来の自分の人格(愛の形・個性)など分かりはしない。実際に働いていろいろな体験をして、自分のいろいろなサンプルを集めればこそ、初めて人は本来の自分の人格(愛の形・個性)を見出し、確立していくことができるのである。このように、人は労働と自己省察の繰り返しによってのみ、自分の人格(愛の形・個性)を見出し、確立していくことができる。学生の場合には、勉強と自己省察の繰り返しによってのみ人格(愛の形・個性))を確立していくことができる。だからこそ、聖書は、六日間働き、一日休むことを命じるのである。
 さらに言えば、七日目の休みに自己省察を実践する最高の方法は、聖書を読むことである。なぜなら、聖書には神様とイエス様という最高の人格と神様を裏切った最低な人々の人格が描かれているからだ。彼らの人格を知れば、自分がどのような人格であるのか、少しずつわかってくる。自分の愛の形と罪の形がわかってくる。自分の愛の形と罪の形を知ること、これこそ人格確立の最高の道である。
 ちなみに、休日のことを英語ではholidayと言うが、holidayの語源はholy dayであり、holyとは「隔たった、完全な、神聖な」という意味である。つまり休日は本来「労働から隔たり、完全な神様と向き合う日」のことなのである。そうすることによって自分本来の人格を見出し、確立する日こそが休日なのである。ぼけっと休んでいるのが休日ではないのである。ぼけっと休みたいなら別にもう一日休めばよい。だから最近では週休二日なのであろう。なんと多くの人が休日の意味を誤解していることか。

6.まとめ
 というわけで聖書は、人間の人間たるゆえんは自由に選ぶことのできる人格であり、愛の形であり、個性であると言う。そうであればこそ人間は他の動物よりも価値があり、人間の命には尊厳があると言う。人格=自由=愛の形=個性。この超重要な知恵をよく覚えて、人格を確立して言ってもらいたい。
(参考:北森嘉蔵「創世記」)

 
「聖書と科学」
2020年5月3日春風学寮日曜礼拝

聖書:創世記
 1:1 初めに、神は天地を創造された。
 1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
 1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
 1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
 1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
 1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
 1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
 1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
 1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
 1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
 1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
 1:13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。

序 近代人になろう!
 今日も復習がてら少し基本的なことを話そう。それは聖書と科学の関係についてである。聖書と科学では、扱う対象がぜんぜん異なる。科学が扱うのは、物質であり、物質が展開する現象についてである。言い換えれば、それは目に見えるものや耳に聞こえるもの、すなわち感覚がとらえることができるものを扱う。感覚的にとらえることのできるものを測定し、統計を作り、公式的原理を導き出す。それが科学である。では聖書が扱うものとはいったい何か。物質や現象以外の重要問題を扱うのが聖書である。
 では物質や現象以外の重要問題とは具体的には何か。これについては三つある。一つは究極的な問題である。世界はどのように始まり、どのように終わるのか。人はどのように生まれ、死んだらどうなるのか。このような究極的な問題についてはいくら物質や現象を研究しても答えは出ない。それに対してはっきりと答えを述べるのが聖書である。二つ目は、霊的な(精神的な=spiritualな)問題である。聖霊とか悪魔とか人間の魂とか、こういった霊的な問題についてもまたいくら物質と現象を研究しても答えは出ない。神についてもそうである。神はなんだかんだ言っても霊的な存在である。物質や現象を測定してその存在を証明付けることはできない。聖書はこれらの霊的な問題についてもはっきりとした答えを述べる。三つ目は、本質的な問題である。この世界にはどのような本質があり、どのような意味〈目的〉があるのか。私たちの命や人生にはどのような本質があり、どのような意味(目的)があるのか。生きる上で最も意味のある(価値のある)ものとは何なのか。意味、目的、価値。このような本質的な問題に科学は太刀打ちできない。いくら物質や現象を研究してこのような本質的な問題に答えを出すことはできないからである。ところが聖書はこれらの問題についてはっきりと答えを述べる。世界の意味(目的)はこれこれこうだ!命や人生の意味(目的)はこれこれこうだ!最も価値のある生き方はこれこれこうだ!と。
 もちろんこれらの答えは科学の出す答えと異なってその正しさをはっきりと証明できるものではない。にもかかわらず、人間の人生経験が、人間の歴史が、そして人間の深い心の洞察力が、その正しさを見極める。科学はその正しさを測定と統計によって証明するが、聖書はその正しさを人生経験と歴史と心理的洞察力を通して証するのである。
 日本人の多くは聖書の展開するような宗教的な思考を作り話だといって馬鹿にする。そして科学ないしはその子分である常識だけを頼りに生きていこうとする。これはとんでもない間違いである。なぜなら、本当に重要な問題の答えは、科学ではなくて聖書のような宗教的思考が与えてくれるのだから。世界の意味(目的)とは何かとか、人生の意味(目的)は何かとか、最も価値のあるものは何かとか、このような最重要問題について答えを教えてくれるのは聖書のような宗教的思考なのだから。
 だから、聖書を読むなどして宗教的思考を身につけない人たちは世界や人生の意味(目的)や最も価値のあるものとは何かといった重要な問題について深い洞察ができずに混乱に陥る。その結果、今回のコロナウィルスのような危機的状況に直面すると何をやってよいかわからずに、パチンコに出かけたり、サーフィンにでかけたりすることになる。いや、危機的状況に陥らなくても、日常的な段階から、すでにどちらを向いて生きていいのか分からないという状況に陥っている。国を治めたり、会社を経営したり、商品を開発したりするときに、どっちを向いてよいのかわからずに、お金を儲けることにしか目が向かなくなるのである。さらに言えば、世界や人生に何の意味も見出せずに投げやりな人生を送るようになり、はては自殺することになる者さえも出てくる。私の周りには、自殺したいとほのめかす人がなんと多くいることか。かく言う私も聖書に出会って宗教的思考を身につけるまでは、何度も自殺しようと思っていた。受験戦争に明け暮れ、偏差値の高い人たちだけが認められるこの世界には何の意味もないと思っていた。経済競争に明け暮れ、お金を設けた成功者だけが贅沢をするこの世界には何の意味もないと思っていた。宗教的思考を身につけずに科学的な思考だけを頼りに生きていると、こういう結論に陥ることになる。なんせ科学の見方によれば、この世界は物質の塊に過ぎず、私たちの人生は物質的生命現象に過ぎないのだから。私たちの人生は、食って眠って遊んで繁殖して消え去っていくだけのものなのだから。さらに言えば、科学的思考だけに頼っていると、科学自体の進歩に歯止めがかけられないという事態も生じてくる。核原子力の研究や遺伝子の研究はとめどもなく進む。これらによって獲得された知恵はこの世界とそこにいる生命を絶滅させかねないほどである。これらに歯止めをかけることは科学には不可能である。なぜなら科学には意味(目的)や価値を判断する機能がないのだから。科学はそれが人類の益になろうが害になろうがひたすら進歩していくことしかできないのだから。以上いろいろなことを述べたが、要するに、これほどまでに科学的思考のみを頼りに生きていくことは危険であるということだ。
 他方、聖書のような宗教的思考だけを頼りに生きていくのも危険である。そのような態度を取る人たちは、科学的成果を軽視するために、迷信に陥り、目の前の現実に対して誤った判断を下すことになる。その果てには、それによって人を裁くようになる。例えば超保守的なキリスト教徒たちは聖書に反することが書いてある科学の教科書を採用しない。だから現実とは反する知識を蓄え、その間違いに基づいて人を裁く。例えば、輸血がだめだとか、避妊や中絶がだめだとか、同性愛は一切許さないとか、お酒を飲む人は病気だとか・・・。かつてはこのような人たちが、科学的真実を述べる人たちを有罪にしてしまうことさえあった。例えばガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたために、教会によって終身刑に処せられた。何と偏屈な。ところがこれと同様の考えを持つ人が世界にはまだまだたくさんいるのである。宗教的思考だけを頼りに生きていくことがどんなに危険であるか、みなさんにはすぐに理解できるであろう。
 というわけで、私たちには科学的思考と、聖書に代表されるような宗教的思考との両方が必要である。どちらか一方しか持たないでいると人間は、偏った人間になる。今ざっと見ただけでもわかるように、科学的思考しか持たないなら、人は人生の最重要問題に関する洞察力を失い、混乱に陥る。他方宗教的思考しか持たないならば、人は非現実的な判断を下すようになり、それによって人を裁くようになる。
 そこで、このように偏った人間になることの危険性を完璧に指摘した人物をぜひとも紹介しておこう。その人物とは、18世紀のドイツの哲学者イマニュエル・カントである。彼はその著『純粋理性批判』(1781)において科学的思考(=純粋理性)には扱うことのできない問題があることを論証し、科学の限界をはっきりと知らしめた。つまり科学は物と現象以外のことは理解できないとはっきり論証したのだ。他方『実践理性批判』(1788)では、宗教的思考(=実践理性)にも扱うことのできない問題があることを論証し、聖書の限界をも知らしめた。つまり聖書のような宗教的思考では物や現象の真実を解き欠かすことができないとはっきり論証したのだ。これらの両書によって人類は初めて科学の役割と聖書の役割を区別し、両者を混同する過ちから脱却することができた。そして物と現象に関する問題については科学に頼り、意味や価値の問題については聖書に頼るというスタイルを身につけた。ここに近代が始まったのである。
 したがって近代人である私たちは、科学と聖書(宗教的思考)の役割を混同してはならない。物質や現象の問題解決を聖書に求めたり、意味や価値に関する本質的な問題の解決を科学に求めたりしないように注意しなければならない。聖書に科学的に間違ったことが書いてあるからと言って宗教的思考を馬鹿にしてはならないし、科学が人生の重要問題にこたえることができないからと言って、科学を馬鹿にしてもいけない。この区別ができない人間は、近代人ではないのである。

1.聖書の読み方
 このようなカントの知恵は、そのまま聖書の読み方に応用できる。つまり、聖書を読む場合には、物質や現象に関する真実を求めて読んではいけないということを教えてくれるのである。例えば、今日の箇所を読んでみよう。ここには物質と現象に関する記述が満ち溢れているように見える。
 1:1 初めに、神は天地を創造された。
 1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
これらは一見物質や現象に関す記述である。だから古代や中世の人々は、これらの記述をそのまま真実であると信じた。しかし私たちはそのような読み方をしてはならない。明らかに科学に反する記述は間違っていると考えて、ばっさり切り捨ててよいのである。
 しかし科学に反するからと言って、これらの記述の全てをナンセンスであると全て切り捨ててもいけない。物質や現象に関しては間違っているこれらの記述も、それら以外のことについては、重大な知恵を伝えているからである。
 ではその重大な知恵とは何か。それはもちろん冒頭に述べたような三種類の知恵である。すなわち@究極的な問題に関する知恵、A霊的問題に関する知恵、B意味や価値に関する本質的問題に関する知恵である。私たちの人生を導くこれらの重要な知恵をこの創世記の冒頭はすでに含んでいる。それらの本質的な知恵(証明できないにもかかわらずそうであると認めざるを得ないような知恵)を読み取っていくことこそ、近代人が聖書を読むという作業なのである。
 ではここにはどんな知恵が埋まっているのか。創世記はまず「神は、天地を創造された」と述べる。ここでまず私たちを困らせるのは神という言葉である。聖書は神が存在するということを当然の前提として話を進めていく。つまり神が存在するというのが、聖書の提示する最も根本的な本質的知恵なのである。科学的思考のみを頼りにすることに慣れている私たちは、「神なんているのかよ」と思ってしまう。しかし、神が存在するかどうかという問題に科学が答えられるだろうか。もちろん無理である。神は物ではない。むしろ霊的(精神的)存在である。そのような存在の実在を証明したり、否定したりすることなど科学にはできない。なぜなら何度も言うように科学とは物と現象を扱う知恵なのだから。だから科学的思考によって神の存在を否定してしまうという態度はナンセンスである。
では神の存在を素直に認めてしまってよいのだろうか。これまた間違いであると言ってよい。なぜか。先ほども述べたように聖書の差し出す本質的知恵は、長い年月にわたる人々の人生体験と歴史と心理的洞察の結果生まれたものである。だから、その知恵を受け入れるためには、私たちもまた人生体験を積み、歴史を学び、心理的洞察力を鍛えてゆかねばならない。神が存在するというような大きな本質的知恵は、そのような一定期間の鍛錬があってのみ受け入れるべきことであり、またそうでなければ受け入れられないはずのことなのである。ですから皆さんがここで求められていることは、結論を急がずに、先ずは神が存在するという本質的知恵を覚えておくことである。

2.神とはどのような存在か
 では神とはどのような存在か。それはここからだけではわからない。それは聖書全体を通して学んでいくべきことなのだが、幸い聖書にはこの問題についてはっきりと答えた箇所があるので、そこを引用してみよう。新約聖書のヨハネの手紙一の4章を開いてほしい。そこにはこうある。
 4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
 4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
ここに神がどのような存在かはっきりと記されている。神は愛であり、人間を愛し、人間に愛をもたらす存在なのである。これこそ聖書全体を貫く、最も重要な本質的知恵である。
 神は愛である。これまた受け入れがたい言葉である。神が存在するということだけでも受け入れがたいのに、神が愛であるという知恵はさらに受け入れがたい。なぜなら私たちは神の愛を感じたことなど一度もないからだ。しかし、聖書を記したユダヤ人たちは神の愛を感じて生きていた。そして彼らは今も神の愛を感じつつ生きている。キリスト教徒も同じだ。2000年前から今日にたるまで彼らは神の愛を感じながら暮している。彼らは日常生活のいたるところに、そして歴史の展開のあちこちに、さらには心の中に神の愛を見出しつつ生きているのである。というわけで、聖書から私たちが学ぶべき第二の本質的知恵は、神は愛であるということである。

3.世界の意味
 神は愛である。この知恵を確認した上で、創世記1:1に戻るなら、この個所が何を伝えようとしているかわかってこないだろうか。それは、要するに、愛の神が愛するためにこの世界を創造したということを伝えようとしているのである。「初めに、神は天地を創造された」という無味乾燥な記述は、神は愛であるという知恵に照らして読むならば、一気にその意味を理解することができる。それは、愛の神が愛するために世界を創造したということを、いやもっとわかりやすく言えば、この世界は神から愛されるために創造されたという知恵を伝えようとする記事なのである。神がもし愛なのだとすれば、必ず愛する対象が必要になってくる。そこで神は自分が愛を注ぐ対象として世界を創造した。この世界は、神がその愛を注ぐための対象として造られたのである。これこそ天地創造の記事に込められた本質的知恵である。
 そのような視点から続く箇所を読んでいくならば、それらが意味するところも結構簡単に理解することができる。すなわち続く箇所は全て、愛の神が実際に自身の愛によって万物を一つ一つ心を込めて創造していく様を描いているのである。
 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
 1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
 1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
 1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
 1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
 1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
 1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
 1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
 1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
 1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
聖書の作者は、実際にこのとおりにいろいろな物質や生物が創造されたと主張したいわけではない。何度も言うが、聖書は物質や現象について語ろうとする書物ではないのだ。ではこの箇所の作者は何を語ろうとしているのか。神は愛であるという基本に基づいて考えれば答えは簡単である。神は一つ一つのものを愛によって素晴らしいものに造ったと主張しようとしているのである。光ができたのは実際にはビッグバンのためである。空や海や山ができたのは、実際には何十億年にもわたる地球のマグマ活動のためである。植物が誕生したのは、実際にはアメーバからのたゆまぬ進化のためである。しかしたとえそうであろうとも、それらのすべての現象の背後には神の愛が働いている。つまりこの世界の物質や生物の一つ一つは根本的には神の愛の働きによって作られた、だからこそこの世界の万物は美しく素晴らしいのだと、と創世記の作者は主張したいのだ。
 この解釈の正しさを裏付けてくれるのは、これらの記事のあちこちに挿入されている「良し」という言葉である。
 1:4 神は光を見て、良しとされた。・・・
 1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。・・・
 1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
このように神は何かを創造するたびに「良し」と心に呟いた。そしてこの後天地創造を完成させたときには神はさらにこうつぶやいている。
 1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
「極めて良かった」。これが天地創造を終えたときの神の最後の言葉である。これほどまでに創世記の作者は、この世界が素晴らしいものであるということを強調している。いったいなぜか。それは、この世界のすべての物質と現象の背後には神の愛が働いているということを何としても伝えたいからである。この世界がこれほどまでに美しく素晴らしいのは、それらを生み出したのが神の愛だからだと作者は何としても伝えたいのである。

4.まとめ
 というわけで、まとめるなら、今日の箇所が伝えようとしている本質的知恵は、次の四つである。@神は存在する。A神の本質は愛である。Bこの世界は神から愛されるために創造された。C万物が素晴らしいのはそれらが神の愛によって創造されたからだ。
 これらはいずれも科学によっては決して導き出されることのない知恵である。そしてもちろん科学的に証明することのできない知恵である。にもかかわらずこれらは、数千年にわたるイスラエルの民の体験と歴史とそして心理的洞察によって見出された本質的知恵である。だから、私たちはこれらを安易に否定することも肯定することもできない。私たちは自身の体験と歴史的知恵と心理的洞察を深めることによってのみそれらの真偽を確かめることができるのである。さて、みなさんは今のところこれらの知恵についてどういう感想を持つであろうか。

付録 聖書と科学の相互補完性
 神が世界を創造したと聞けば私たちは先ず疑いたくなる。神が世界を造ったなんて本当かよと。科学によればこの世界はビッグバンと呼ばれる大爆発によって生まれたことになっている。そのような科学的認識とこの記事は、抵触するように思われる。事実両者は相容れないと考える前近代的な人間がこの世界にはたくさんいる。しかし、実を言えば両者は抵触しない。何度も言うように、科学は物と現象を扱う知恵である。だからビッグバンというのは、物と現象としての世界の誕生を記述した知恵として全く正しい。しかしそれは物と現象が誕生する以前のことについては何も語らないし、その外側のこと(霊の働き)についても何も語っていない。対して聖書は、物や現象以外のことを扱う知恵である。だから、創世記のこの記事が語ろうとしているのは、物質や現象の存在以前に神という霊的存在があり、そしてその霊的存在の愛によって物や現象が誕生したということである。ざっくり言ってしまえば、ビッグバンは神の愛によって起こったと創世記は言おうとしているのである。だから創世記とビッグバンはなんら矛盾しない。それどころか、両者はむしろ相互に補完し合う性質を持っており、私たちは両方の知恵(科学的知恵と本質的知恵)を受け入れてこそ初めて物と霊との両方を視野に納める全体的知恵に到達することができるのである。
 皆さんにはぜひとも両方の知恵を学んで、全体的知恵を身につけて欲しい。ちなみに英語では、「健全」のことを”wholesome”と言う。そして”wholesome”のもともとの意味は「全体的」である。つまり全体的なバランスを保っていることこそが健全なのである。科学と聖書の両方を学び、ぜひとも健全な人間になってもらいたい。
(参考:北森嘉蔵『創世記』)

 
聖書の基本
2020年4月5日春風学寮日曜集会

聖書 
出エジプト記
20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。
20:5 「・・・わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
ヨハネによる福音書
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

1.旧約聖書と新約聖書
 新しい寮生も入ったことだから、聖書の基本の確認から始めよう。
聖書は、旧約聖書と新約聖書の二部からなる。
 旧約聖書と何か。読んで字のごとく旧い約束について書かれた書物である。では旧い約束とは何か。思い切りざっくりと言ってしまえば、神様が与えた律法(戒め)をきちんと守れば、神様から正しいと認められ、ご褒美としてこの世で成功(物質的恵)が与えられるという約束である。この約束を最も明確に記したのは、先ほど読んだ出エジプト記の次の言葉である。
 20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
この旧い約束について詳しく記したのが旧約聖書である。すなわち、この約束がどのようにして与えられたのか、律法とはどのようなものか、その律法をユダヤ人たちはどのように守ったか、どのように破ったか、その結果どのようなことが起こったか、今後はどうなるのか・・・そうしたことを延々と記してあるのが旧約聖書である。(ちなみに旧約聖書は39巻からなり、そこに記されているのは天地創造から紀元前2世紀までの出来事であり、舞台は主に西アジアである。)
 対して新約聖書は、新しい約束について書かれた書物である。では新しい約束とは何か。これまた思い切りざっくりと言ってしまえば、たとえ律法を守れなくても、イエスを信じさえすれば、神様から正しいと認められ、ご褒美として来世で永遠の命(この世では愛と義という形をとる)を与えられるという約束である。この約束を最も明確に記したのは、先ほど読んだヨハネによる福音書の次の言葉である。
 11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
この新しい約束について詳しく記したのが新約聖書である。すなわち、この約束がどのようにして与えられたのか、イエスとはどのような人物か、イエスを信じた者たちはどうなったか、これからどうなるのか・・・そうしたことを記したのが新約聖書である。(ちなみに新約聖書は27巻からなり、そこに記されているのは紀元1世紀の出来事であり、舞台は主にパレスチナである。)
以上の旧約聖書と新約聖書の違いを簡単に図示するなら、次の図のようになる。
 旧約聖書:律法を守る→現世での成功(物質的恵)
 新約聖書:イエスを信じる→来世での永遠の命(現世では愛と義)
もちろん実際にはこれほど単純ではなく、旧約聖書の中にも新約聖書の内容と一致する記事があるし、新約聖書の中にも旧約聖書の内容と一致する記事がある。にもかかわらずその要旨を大胆に単純化するなら、上記の図のようになるのである。
 さらに付け加えるならば、旧約聖書の約束を信じる者たちはユダヤ教徒と呼ばれ、彼らは新約聖書など認めない。「イエスを信じれば、永遠の命を与えられる」などという約束は嘘っぱちだと考えている。対して新約聖書の約束を信じる者たちはキリスト教徒と呼ばれ、彼らは、旧約聖書をさほど重視しない。「律法を守れば現世での成功が与えられる」という約束は大して重要ではないと考えている。旧約聖書だけを信じるユダヤ教徒と新約聖書と旧約聖書の両方を信じるキリスト教徒では、考え方が全然違ってしまうのである。

2.誰が聖書を書いたのか
 次に学んでおくべきことは、誰が聖書を書いたのかについてである。旧約聖書を書いた直接の筆者は、ユダヤ人の祭司や預言者や王たちである。だから旧約聖書は元々ユダヤ人の言葉であるヘブライ語(ヘブル語)で書かれた。対して新約聖書を書いたのはイエスの弟子たちであり、イエスの弟子たちは世界中の人々にイエスのことを述べ伝えようとした。だから新約聖書は異邦人にも通用する当時の国際語である古代ギリシア語(通称コイネー)で書かれた。
 しかし、彼らは自分勝手に聖書を作り上げたのではない。自分たちが先祖から伝え聞いた神様に関する物語(神話)と自分たちが目撃した神様の活動(史実)とそして自分たちが直接示された神様の教え(啓示)を書き写したのである。その意味で聖書の本当の作者は神様であるというのが、聖書の大前提である。
 私たち日本人の多くは、聖書の本当の作者が神様であるなどということは信じない。しかし聖書の筆者たちは、自分たちの書いていることは本当に神様の活動と教えの記録であると信じていた。そしてその後に聖書を読んだ何百億の人々も、聖書は神様の活動と教えの記録であると本気で信じた。事実、現代においてすら世界人口77億人の約3分の一にあたる約24億人のキリスト教徒が聖書の本当の作者は神様であると信じている。旧約聖書のみを信じるユダヤ教徒1700万人、イスラム教徒18億人を加えれば、世界人口の半数以上がそう信じていることになる。

3.聖書と事実
 さらに聖書と事実の関係についても学んでおこう。聖書に書かれていることは果たして事実か。先ほど述べたように、聖書の筆者たちは、自分たちが先祖から伝え聞いたこと(神話)と実際に目撃したこと(史実)と神様から示されたこと(啓示)を書いている。だから、聖書に書かれていることのすべてが事実であるとは言いがたい。そこには書かれていることは、しばしば神話と史実とそして啓示の混合物なのである。そのような困った書物が聖書なのである。例えば聖書の始めのほうには、「ノアの洪水」という有名な話がある。これなどは、ただの神話だと思われていたのだが、いろいろと調査をしてみると本当にそのような洪水がかつて西アジアであったということがわかってきた。この例が示すように、聖書の話の中心にはたいてい何らかの事実の根がある。そこに神話と啓示が混ざり合って聖書の話の多くが出来上がっているのである。
 だから、聖書に書いてあることのすべてを事実として鵜呑みにしてはいけないし、かと言ってそのすべてを作り話として切り捨てることも許されない。厳しい疑いの目をもって作り話を見分けつつ、否定しきれない部分を受け入れながら読む必要があるのである。

4.寮の立場 
 以上が聖書の基本である。こういう知識はただの情報であり、死んだ知識なので、本当は大して重要でもないのだが、聖書を深く学び、そこから生きた知恵(メッセージ)を引き出すためには、知っておかざるを得ない基本知識である。だから、努力して覚えておいて欲しい。
 そこで最後に寮の立場について少し説明したい。春風学寮は、基本的にはキリスト教を支持する立場にある。つまり寮長も寮の理事長も、イエスを信じるならば永遠の命(義と愛)が与えられると信じているのである。しかし、春風学寮は、普通のキリスト教とは少しだけ違った立場に立っている。では、どう違うのか。春風学寮は、別にイエスを信じなくたってよいと考えているのである。イエスを信じるに越したことはないが、たとえイエスを信じなくても、イエスについて学び、イエスを深く知りさえすれば、その霊的恵である永遠の命(愛と義)は与えられると考えているのである。そしてイエスを学ぶことを通して、若者たちに永遠の命(霊的恵=愛)を若者たちに与えることこそ真の教育であると考えている。
 だから、春風学寮が君たちにイエスへの信仰を強要することなど絶対にない。信仰をもってもらいたいと思ってはいるが、別に信仰を持たなくたってかまわないと考えている。では寮が君たちに望むことは何か。聖書を学び、イエスについて学ぶこと、ただそれだけである。イエスについて学べば、自然にイエスを信じたい気持ちが生まれてくる。たとえそのような気持ちが生まれなかったとしても、イエスの永遠の命は自然に伝わってくる。おおらか愛と清らかな義いう形で伝わってくるのである。イエスについて学び、イエスからおおらかで清らかな愛を受けること、これこそこの寮が君たちに最も望むことであり、この寮のよって立つところである。ぜひとも聖書を学び、イエスについて学び、イエスから愛と義を受け取っていただきたい。それは将来君たちにとって途方もない精神的財産となるはずだ。

 
「財産と富」
2019年10月6日春風学寮日曜集会

マタイによる福音書
◆天に富を積みなさい
6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
◆体のともし火は目
6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
◆神と富
6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

序 愛を邪魔するもの
 今日は、再びマタイによる福音書の山上の説教について学ぼう。今日の箇所の直前でイエスは、「人前で施しをするな」、「人前で祈るな」、「人前で断食するな」と説いてきた。これらについては夏休み前に学んだところだが、このように並べてみると、この三つの教えは結局のところ共通の一つのことを説いていると理解できる。要するに人目を気にするなということだ。
 イエスが最も伝えたいことの核心は、他者(神と隣人)を愛することこそ最も重要だということである。イエスは、山上の説教においてそのことを何よりも伝えようと思い、そしてその教えは5:44の「敵を愛しなさい」で頂点に達する。その直後に人目を気にするなという教えが続いているのである。これはいったいなぜか。
 それは、人目を気にすることが愛することの大きな妨げになるからである。人目を気にして施しをするならそれは隣人への愛ではない。ただの自己主張である。人目を気にして祈り、断食するならそれは神への愛ではない。祈りと断食は、すでに学んだとおり神との霊的交流を目指すものであるから、本来は神を愛するための行為である。ところが人目を気にして行うなら、それはもはや愛ではなく、ただの自己主張の現われになってしまう。にもかかわらず当時のユダヤ人の中には、人目を気にして施しや祈りや断食を行う者が多かった。自分を認めてもらおうとして愛の実践を見せびらかす者が多かった。これでは愛が自分の名誉を高めるための手段のようなものに堕落してしまう。そうなることを防ぐためにこそ愛の教えの直後に、人目を気にするなという教えが続くのである。
 聖書学の研究によれば、愛の教えの後に人目を気にするなという教えを続けたのは、イエスではなく、この福音書の筆者のマタイである(全てイエスの言葉だがそれを並べたのは筆者のマタイ)。マタイの教会においては、人々が人目を気にして、自分の名誉を高めるために愛を行うことが多かった。彼らは愛を行うことによって人々から認められ、高い地位に就いたり、高い報酬を得たり、しようとした。このような事態を見たマタイは、愛の危機を痛感した。だからこそ愛の教えの直後に人目を気にするなという教えを続けたのだ。しかし、イエスもきっと同じ思いだったと思う。イエスが人目を気にするなという教えを説いたのも、やはり人目を気にすることが愛を行うことの大きな妨げになると考えたからであろう。
 そこで現代を振り返ってみよう。このようなイエスの指摘を受けて即座に思いつくのは、現代におけるSNSの大流行である。人々は先を競ってSNSに写真や動画や意見を投降し、人から評価されようとする。中には人目を引こうとして、明らかな犯罪行為を行い、それを動画に撮って投降する者さえ存在する。この現象は、人目を気にすること(自己を認めてもらいたいという承認欲求)が人間にとっていかに切実なものであるかをはっきりと示す。人は誰かに認められないでは生きていくことができないのである!
 だからこそ、人目を気にすることは、愛の最大の敵なのである。人々は他者から承認されるためなら、愛にもとることを平気でやる。そのために愛を利用するという偽善さえもやる。しかし何よりも問題なのは、関心事の大半が他者から認められることになってしまい、愛にほとんど関心が向けられなくなるということである。人々は異常なほどにSNSに熱中する。自分の余暇時間のほとんどをSNSに費やす人がいる。仕事中でさえ、友人と食事をしているときにさえ、SNSに精を出す人が少なくない。ところが愛についてはどうだ。これほどの時間を愛の実践に費やす人がいるだろうか。もし人々が自分の余暇時間の5パーセントだけでも愛の実践に使ったなら、世界はぐんとよくなるであろう。ところが現実には、自分の時間の1パーセントですら愛の実践に費やさないのである。このような人間の本質に気づけばこそ、イエスは、愛しなさいという教えに加えて、人目を気にするなという教えを語ったのである。
 さてそこで今日の箇所に話を移そう。今日の箇所は、人目を気にするなという三つの教えの後に来るものである。そのような流れに即して読むなら、この箇所を通してイエスが語ろうとしていることが何であるか、推測できる。イエスは、人目を気にすることに匹敵するほど強大な愛の敵について語ろうとしているのだ。
ではそれほどに強大な愛の敵とは何か。以下、探っていこう。

1.天に富を積め
イエスは言う。

 

6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」

「地上に富を積む」とはどういうことか。言うまでもなくこの世において富を貯め込むことである。その富が「虫に食われたり、さび付いたり、盗人に盗まれたりする」とはどういうことであろうか。「虫に食われたり、さび付いたりする」とは、価値が失われていくということである。現代で言えば、土地、家屋、有価証券、通貨の価値等が暴落していくことに相当する。財産が「盗人に盗られる」とは、要するに誰かに奪われるということである。つまりイエスは、この世の富というものはすぐに価値がなくなったり、誰かに奪われたりする不安定で当てにならないものだから、そのようなものを貯め込んでもむだだと言っているのである。
返す刀でイエスは言う。

 

6:20 「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」

「天に富を積む」とはどういうことであろうか。今までの流れに目を向けるならすぐにわかる。愛を実践することである。「虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」とは、価値が失われることもなく、誰かに奪われることもないということである。つまりイエスは、自分を犠牲にしてまで他者を大切にしようとする愛の行為は、永遠に価値が失われず、誰かに奪い取られることもないと言っているのだ。言い換えれば、そのような愛の行為は、永遠に神によって記憶され、祝福されるゆえに最も頼りになるものだと言っているのだ。なんだか、愛を実践しようという気にさせる言葉ではないか。
そしてイエスはこう締めくくる。

 

6:21 「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

文字通りの意味は理解できるだろう。「地に富を積もうとするならば、その人の心は地にあることになり、天に富を積もうとするならば、その人の心は天にあることになる」というわけである。しかしこのように言われても、その意味ははっきり理解できないだろう。そこで解説を加えるならば、「心が地にある」とは、心がこの世にとどまり続け、この世のことに束縛され続けるということである。対して「心が天にある」とは心がこの世にいながらにして神の国にあり、この世のことに縛られずにいられるということである。つまりイエスは、「地に富を積もうとするなら、その人の心はこの世にとどまり続け、この世のことに束縛され続けるが、天に富を積もうとするなら(愛を行おうとするなら)、その人の心はこの世にいながらにして神の国にあり、この世のもろもろのことから解放されて自由になることができる」と述べているのだ。
 これは本当であろうか。私は本当であると思う。考えても見て欲しい。もし富を貯め込むなら、ある程度の自由は手に入れられる。好きなものを買うとか、好きなところへ旅行するとか。しかしその富を溜め込むためには、この世のあらゆる人に束縛されることになる。例えば、権力者、資産家、上司、先輩、顧客、消費者、世間様等々、お金をもたらしてくれる可能性のあるあらゆる人々に服従しなければならなくなる。彼らの言うことならいやなことさえも聞かなければならない、ときには犯罪まがいのことすらやらなければならない。財産を溜め込もうとする道は、この世のあらゆる人々に束縛される道であり、本当の意味での自由を失う道なのである。ところが、愛を行う道は全く正反対である。愛を行おうとするなら、従うべきは神様ただ一人、それ以外の存在には一切服従する必要などないのだ。権力者であろうと、資産家でろと、上司であろうと、先輩であろうと、顧客であろうと、消費者であろうと、世間様であろうと、愛に反するならきっぱりNo! と言える。愛を行う道こそこの世のあらゆる人々から解放される、真に自由な道なのである。だからこそイエスは言うのである。「富は、天に積みなさい。・・・あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と。

2.目を濁らすもの
続いてイエスは言う。

 

6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

この文を理解するためには、当時の人々の目に関する考え方を学ぶ必要がある。当時のユダヤ人は、目は体の窓であり、ここを通って光が体の中に入ってくると考えていた。だから、目が澄んでいれば、体の中にたくさん光が入り、体全体が明るくなり健康になる。対して目が濁っていれば、体に光が入りにくくなり、体全体が暗くなり病気になると考えていたのだ(新聖書注解1)。この考えを霊的な光に転用してイエスは言う、「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と。つまり、目が澄んでいるなら、霊的な光があなたの中に入り、あなたの心を健全に保つ。しかし、目が濁っているならば、霊的光はあなたの体に入らず、あなたの心は病んでしまうとイエスは言っているのである。そしてイエスはさらに畳み掛ける。「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」と。すなわち、霊的光が消えてしまったら、あなたの心はどれほど病んでしまうことであろうと。
 さて、そこで考えてみよう。霊的な光とはいったい何であろうか。そしてその霊的な光が私たちの中に入ってくるのを妨げる目の濁りとはいったい何であろうか。これまでの流れから考えるなら、もはや明らかであろう。霊的光とは神の愛のことである。そして目を濁らせるものとは富であり、目の濁りとは富への欲望である。富を貯め込もうとする者は、富こそ最も頼りになるものであると思っている。そのような者に、神はあなたを愛している、神こそ最も頼りになるものであると言ったところで、無意味である。彼は「なーに寝言を言ってんだ。神様なんて頼りになるわけねーだろう。世の中はしょせん金なんだよ」と言い返すに決まっている。このように、富を貯め込もうとする者の心には、神の愛などという考えは一切入っていかない。そしてもし神の愛が心に入っていかないなら、その人は心に空洞を抱え、安定を得ない。神から愛され、認められてこそ人の心は満たされ、安定するからだ。心に空洞を抱えた人は何をやり出すか。その空洞を埋めるためにさらに富を求め、あるいは人から認められようと躍起になる(SNSへの熱中はその例)。これこそ心の病である。このようにして、富を貯め込もうとする者が心に空洞を抱えて病んでいくことを簡単に表そうとして、イエスは「目が・・・濁っていれば、全身が暗い」と言ったのだ。

3.兼ね仕えることなどできない
最後にイエスは言う。

 

6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

ここでイエスは、一気に話の核心へと入る。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と。
 ここで先ず注目すべき言葉は「仕える」という言葉である。私たちは普通富を人間の欲望の対象であり、人間の下位にある、自分で手に入れることも手放すことも自由にできる従属的な物であると考えている。ところが、ここでイエスはそれを仕えなければならない主人として表現しているのである。それにあわせて「富」という言葉もここでは変えられている。日本語では全て「富」と訳されているが、原語の古代ギリシア語ではここに「マモン」(富の神)という言葉が使われている。今までイエスは富を表すのに「セーサウロス」(財産)という言葉を使ってきたのだが、ここで突然言葉を「マモン」に変えているのだ。この変化には明らかにイエスの強いメッセージが込められている。すなわち、富というものはあなたがたの下位にある次元の低い存在ではないのだ。あなたがたの上位にあってあなたがたを根源から支配する存在なのだというメッセージが。そうなのだ。富は私たちの自由になる低次元の存在ではない、私たちを支配する神のような存在、まさしく「マモン」(富の神)なのである。そして富を貯め込もうとするなら、私たちは必ず「マモン」に支配されることになる。「マモン」に仕えることになる。だからこそ私たちは、「神と富とに(兼ね)仕えることはできない」のである。
 私たちはしばしば妥協的に考える。半分は富のために生きて、半分は神のために生きれば良いのではないかと。あるいはこうも考える。とりあえずはたくさん富を貯め込んで、その後で神について考えればよいと。さらにずる賢い者はこう考える。神のために使うためにたくさん富を貯め込もうと。しかしそのようなことはほとんど不可能である。なぜなら、「マモン」の力は私たちが想像するよりはるかに強大であるからだ。例えば、半分は富のために生きて、半分は神のために生きるという人は時が経つにつれて富のことばかり考え、神のことは考えなくなっていくだろう。とりあえずはたくさん富を貯め込んで、その後で神について考えようとする人は、一生富のことを考え続け、ついには一度も神については考えないだろう。神のために使うためにたくさん富を貯め込もうとする人は、やがては富を増やすために神を利用するようになるだろう。このように一度「マモン」に仕えたら、「マモン」はそう簡単には私たちを解放してくれない。それほどに「マモン」の力は強い。だからこそイエスは言うのだ、「神と富とに仕えることはできない」と。どちらに仕えるかはっきりしないとひどい目にあうぞと。なんと鋭く、厳しく、それでいて優しい言葉であろうか。

4.まとめ
 というわけで、人目を気にする心に匹敵するほどの強大な愛の敵とは、富への欲望である。筆者のマタイは、自身の教会での体験によって富への欲望がどれほど強力なものであり、愛の実践を妨げるかということを目の当たりにした。だからこそ、愛を妨げるものの二大巨頭として、人目を気にする心とともに富への欲望を上げ、その強大さと危険性について警告したのである。イエスもおそらく同様のことに気づいていたであろう。だからこそイエスもまた、富の強大さと危険性について警告する言葉を残したのである。
 そこで私たちは、改めて考えてみなければならない。富への欲望は本当に愛の妨げになるのかと。そしてさらには、富は本当に頼りにならないものであるか、富は本当に私たちの自由を奪うものであるのか、富の力は本当にそれほど強大なのであろうかと。こういう常識に反する根本的な問いかけを投げかけるからこそ聖書は面白いのだ。