 |
春風学寮では毎週日曜日の午前中を、人類不朽の古典である聖書の学びにあって、若人の人生観を陶冶することを目指しています。 創立者道正安治郎氏は聖書の学びを内村鑑三、塚本虎二両氏に師事し、純粋なキリスト教信仰に基づく寮運営を目指しました。 現在でも全く同じ方針によって春風学寮は日々運営されています。 毎週の聖書集会では小舘美彦寮長を中心に、多彩な個性を持つOB諸氏、寮関係者による聖書の講解がなされます。 |
「神の愛の特質と実践」 マタイによる福音書18:10−17 |
日時:2023年1月22日春風学寮日曜集会 |
1.注解
18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
*「小さな者」とはどのような者であったか。それは、神により頼む以外にどうしようもなくなった者のことであった。病や貧困で苦しんでいる者、差別によって社会からはじき出された者、自身の罪や弱さのゆえに苦しんでいる者・・・、そのような神により頼むよりほかに生きる希望がない者、それこそが「小さな者」であった。その象徴は親に捨てられた(あるいは親を失った)子供である。この直前にイエスは、そのような子供を抱き上げて、この子供のように小さな者が天の国で一番偉いと言っていた。一番偉いとは、格上だという意味ではなくて、神様に一番喜んでもらえる、神様に一番愛されているというほどの意味である。神の本質はアガペーであるから、その愛はこの世で最も苦しんでいる者たちに注がれるのである。
・だからこそイエスは言う。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と。イエスの弟子たる者は、神と同様に「小さな者」に最も目を注ぎ、彼らを大切にすべきだと、世の人々のように彼らを軽んじてはいけないと言っているのだ。
*ところで、後半は理解しがたい個所である。「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」とイエスは言う。このようなことは事実であろうか。イエスが本当にこのようなことを言ったのであろうか。多くの学者は事実ではないと言い、これはマタイがユダヤ人に「小さな者」の大切さを教えるためにユダヤ人の天使思想を援用したに過ぎないと述べている。
・ユダヤ人は、意外なことに詳細な天使論を持っており、人間にはそれぞれ守護天使が付いていると考えていた。だから、小さな者の天使たちはいつも神の「御顔を仰いでいる」(=神の御そばに仕えている)と言えば、ユダヤ人は小さな者らを大切にするであろうとマタイは考え、この語句を付け加えたと学者は推測するのである。
・おそらくその通りであろう。しかし、天使がいるかどうかなど話し合っても結論が出るわけではないので、この後半は無視すべきだと思う。
18:11 (†底本に節が欠落 異本訳)人の子は、失われたものを救うために来た。
*「失われたもの」とは「小さな者」と同じであり、次の「迷い出た羊」も「小さな者」の象徴である。これらの言葉によって、「小さな者」の意味は、神により頼む以外にどうしようもなくなった者の意味であるという解釈の正しさが確定する。
・イエスは神の愛に従って、まさしく神により頼む以外にどうしようもなくなった人々を救いにこの世に来たのである。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
*九九匹の羊を放っておいて一匹を探しに行くというのは現代の常識では考えられないことだが、当時のユダヤ人には理解できることであった。その理由は以下の通り。
・ユダヤ人にとって羊はお金と同様に大事な生活の生命線であったので、たいていは村の共有財産であり、数人の羊飼いが村の羊をまとめて高原まで連れて行き草を食べさせた。ところでパレスチナの高原は南北に細長く三キロから五キロの幅で伸びていた。このために、羊はよくその両脇の崖から転落することがあった。だから、もし一匹の羊が行方不明になったなら、羊飼いの一人は他の羊のことは他の者に任せて徹底的に探しまわった。崖から転落したりしていたら一刻も早く救い出さなければならないからである。その探索はときには他の羊が村に戻った後まで続けられた。そして、もしその羊飼いが行方不明の羊を見つけ出して帰ってくるならば、村中の人が喜んで彼と羊を迎えた。つまりユダヤ人たちは、九九匹の羊のことは他者に預けて一匹の羊を探し回るということを日常的に行っていたし、一匹の羊が見つかったためにみんなで大喜びするということも日常的に体験していたのである。
・このようなことが頻繁にあったから、ユダヤ人たちは九九匹の羊をそっちのけにしておいて迷い出た一匹の羊を探しに行くというこのたとえをすぐに理解できた。それは安全を確保されている九九匹のことは放っておいて、危機にさらされている一匹を助けに行くことのたとえだと。
・つまりこのたとえは、「小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」や「人の子は、失われたものを救うために来た」といった言葉を分かりやすく説明するためのたとえなのである。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
*迷い出た羊のように小さな者でさえも神様は見放さずに救おうとしてくださる。これが神様の御心(愛)である。イエスは改めてメッセージを明確に伝える。
18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
*一見「迷い出た羊」のたとえと全く異なる話のようであるが、実はメッセージは同じ(小さな者を大切にせよ)である。ただここでは、「小さな者」を具体的にどのように大切にすべきかというテーマが展開される。
・「兄弟」とは狭義にはイエスに従う者たち、イエスに従って神の御心(愛)を実践しようとする者たちだが、別にそのように限定して解釈する必要はない。同じ組織集団に属する仲間というほどの意味に解釈するのが良い。
・その仲間が「あなた」に罪を犯した場合には、自動的にその者は「小さな者」「失われたもの」「迷い出た羊」となる。罪を犯すことは聖書では滅びの道を歩むことであり、崖から転落するようなものなのだから。だから「あなた」は彼を全力で救わなければならないわけだ。では具体的にはどうすればよいのか。
*まずなすべきことは、皆の前でその罪を告発せずに、あるいは他の人にその罪を告げたりせずに、直接彼に伝え、忠告するということである。
・もしその忠告を相手が聞き入れ悔い改めたならば、「あなた」は「兄弟を得たことになる」。つまり「小さな者」を救い出したことになる。たとえて言えば、「迷い出た羊」を見つけ出したことになるのである。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
*二人の対立は、喧嘩両成敗ということわざもあるように、両方が悪いということになりがちである。あるいは二人の個人的な争いであって他者はそれに口出しすべきではないということになりがちである。しかしこの一節は、そのように問題をあやふやにしようという態度を許さない。複数の証人を集め、事実関係を客観的に明らかにすることを求める。
・愛は決して罪をうやむやにして済ませてしまうことではないのである。罪と正面から向き合い、そのうえで悔い改めを導き、赦すことが愛なのである。
18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
*「教会」とは直接的にはキリスト教徒の教会のことであるが、これまたそのように限定的にとらえる必要はない。組織集団一般ととらえてよいだろう。
・証人を集めても相手が罪を認めない場合には、その組織集団全員に訴えて、あるいはその組織集団のリーダーたちに訴えて、悔い改めを求めなさい、というのがこの前半の内容である。
・全員でたった一人を救おうと努力することの大切さをこの前半は物語る。
*後半の「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」という言葉は、要するに彼を組織集団から追放しなさいということである。
・ここに至り、これらの言葉が本当にイエスのものなのかが問題となってくる。そもそもイエスには、追放という発想はない。イエスは「失われたものを救うために来た」のであり、「小さな者」を大切にしろと言い続けてきたのだから。そのようなイエスが間違った者を追放しろというわけがない。
・加えて気になるのは、「教会」という言葉である。イエスの時代にキリスト教の教会はまだ成立していなかった。だからイエスが「教会に申し出なさい」という言葉を使ったとは考えられない。そう思ってみれば、「兄弟」という言葉も怪しい。イエスは確かに「兄弟」という言葉を使うがそれは神の家族の一員という意味であり、その射程はかなり広い。ところがここの「兄弟」はまるで教会内のキリスト教徒だけを指しているかのようだ。
・さらに、この後の21節からはじまるたとえでは、徹底的な赦しの必要が語られる。そこでイエスは無限に相手を赦せとペトロに説く。この言葉と16節の後半は完全に矛盾する。
・これらのことを考え合わせるなら、15〜17節は後の教会の加筆であるとみて間違いない。
*だとしても、これらは教会員たちがイエスの教え「小さな者を大切にしなさい」を完全に実行しようとして奮闘し、その結果イエスの霊から与えられた言葉であろうから、決して軽んじることはできない。
2.メッセージ
ではこれらの個所にはいったいどのようなメッセージが込められているのであろうか。以下探っていこう。
?神の愛の特質
「迷い出た羊」のたとえは単純なようでいて、神の愛が具体的にどのようなものかを意外と詳しく伝えている。以下その特徴を三つほど挙げてみよう。
第一に、神の愛は個(一人一人)を大切にするということだ。神の愛は、集団に対する愛という面もあるが、それはあくまでも一人一人を大切にするということの延長線上に成り立ってくるものであり、その基礎はあくまでも一人一人を大切にするというものである。
次に、神の愛は一人一人の価値に拘泥しない。神にとっては全ての一人一人が等しく絶対的に大切なのであって、誰かが誰かよりも価値があるという発想は神にはない。神の愛は「小さな者」に向かうが、それは「小さな者」(失われたもの)が「大きな者」より価値があるからではなく、「小さな者」が「大きな者」より苦しんでいる者であり、より危険にさらされている者だからである。
第三に、神の愛は一人一人の自由を尊重する形で人に発動される。神は人を守ろうとして囲いの中に入れておくようなことはしない。人間にはある程度のリスクが与えられ、その中で神に従うことも神に逆らうことも選ぶことができる。自分の判断で突き進み、崖から転落することも選ぶことができるのだ。しかし人間がどのように間違った道を歩もうと神は人間を見捨てはしない。神に徹底的に逆らった者さえも神は赦し、救おうとするのである。
第四に、神の愛は積極的に発動される。神は苦しんでいる者がいたら積極的に救おうとする。場合によっては身を犠牲にしてまで救おうとする。待っていて成り行きを見守ったり、楽をして救おうとしたりということは原則としてしない。
そしてイエスは、弟子たちにも以上のような愛を実践するように命じる。一人一人を大切にしろと、その人の価値に従って態度を変えずに苦しんでいる者は誰でも助けよと、間違いを犯し続ける者ですら赦し、積極的に助けよと。これはそのままこの寮の一人一人に向けられた声である。皆さんにもぜひとも実践してほしい。
?対面での説得
では、間違った者を積極的に助けるためにはどうしたらよいのであろうか。生前のイエスはそこまで教えはしなかった。だから、弟子たちは後にそのことで奮闘することとなった。奮闘の挙句にイエスの霊から示されたとされるのが15〜17節である。では、この部分のメッセージをまとめるとどうなるであろうか。対面での説得、事実関係の確認、神への委ねということになろう。
間違った者を積極的に助けるためにはどうしたらよいのであろうか。まずなすべきことは、相手の尊厳を傷つけないために一対一で相手に直接間違いを訴えることであると15節は説く。これは大変に勇気のいることであり、多くの人が避けて通る道である。だからこそ多くの人は他者の間違いを見て見ぬふりをし、その人のいないところでその人の間違いを言いふらすことになる。しかしこれは最悪の結果を生む。間違った人を悔い改めに誘わないばかりか、彼のうちに不信感を生み、かえって反抗的な感情を引き起こしてしまうからだ。
イエスの死後、弟子たちの間ではこのようなことが頻発したであろう。イエスの生前から弟子たちは、自分たちのうちで誰が偉いかと競い合っていた。そうあれば、イエスの死後には自分こそが偉いということを証明しようと思い、他の弟子たちを陰で告発するという事態が生じたのではあるまいか。そうであればこそ、マタイは弟子たちが言い争う記事の後に15〜18節を付け加えざるを得なかったのではあるまいか。
いずれにせよ、私たちが受け止めておくべきことは、相手の尊厳を傷つけないために一対一で相手に直接間違いを訴えることの大切さである。
?事実関係の確認
思い切って対面で間違いを指摘したとしても、相手が取り合わない場合がある。相手が間違っているというのは単なる自分の誤解であることもあるし、あるいは、本当に間違っていたとしても、その背後には思いもよらぬやむを得ぬ理由があることもあるからだ。そのような場合には、事実関係を確認しなければならない。本人が事実を話してくれれば一番良いのだが、間違いを告発された本人が事実を語る可能性は少ない。だからこそ、他者による事実関係の客観的な確認が必要であると16節は言う。調査したうえで、相手が本当に間違っていることが確定したならば、あるいはやむを得ぬ理由がないことを確認したならば、そのときに初めて複数の者と一緒に相手を説得せよと言うのである。
このような事態に陥るのは、刑事告発のようで情けない話であるが、実際問題として、事実関係の把握をなおざりにしたばかりに、誤解や流言が集団を支配してしまい、その集団が破滅に向かっていくことは非常に多い。マタイ自身もそのことを教会で体験したからこそ、この一節が加えられたのであろう。
|
十戒の教え(2)?殺人の禁止、人間の尊厳への配慮、愛の教え |
日時:2022年9月18日 |
講話者:千葉 眞 |
聖書朗読 出エジプト記20章1-17節 |
マタイ福音書22章34-40節 |
序
18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
*「小さな者」とはどのような者であったか。それは、神により頼む以外にどうしようもなくなった者のことであった。病や貧困で苦しんでいる者、差別によって社会からはじき出された者、自身の罪や弱さのゆえに苦しんでいる者・・・、そのような神により頼むよりほかに生きる希望がない者、それこそが「小さな者」であった。その象徴は親に捨てられた(あるいは親を失った)子供である。この直前にイエスは、そのような子供を抱き上げて、この子供のように小さな者が天の国で一番偉いと言っていた。一番偉いとは、格上だという意味ではなくて、神様に一番喜んでもらえる、神様に一番愛されているというほどの意味である。神の本質はアガペーであるから、その愛はこの世で最も苦しんでいる者たちに注がれるのである。
・だからこそイエスは言う。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と。イエスの弟子たる者は、神と同様に「小さな者」に最も目を注ぎ、彼らを大切にすべきだと、世の人々のように彼らを軽んじてはいけないと言っているのだ。
*ところで、後半は理解しがたい個所である。「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」とイエスは言う。このようなことは事実であろうか。イエスが本当にこのようなことを言ったのであろうか。多くの学者は事実ではないと言い、これはマタイがユダヤ人に「小さな者」の大切さを教えるためにユダヤ人の天使思想を援用したに過ぎないと述べている。
・ユダヤ人は、意外なことに詳細な天使論を持っており、人間にはそれぞれ守護天使が付いていると考えていた。だから、小さな者の天使たちはいつも神の「御顔を仰いでいる」(=神の御そばに仕えている)と言えば、ユダヤ人は小さな者らを大切にするであろうとマタイは考え、この語句を付け加えたと学者は推測するのである。
・おそらくその通りであろう。しかし、天使がいるかどうかなど話し合っても結論が出るわけではないので、この後半は無視すべきだと思う。
本論(20章7節ー17節)
(1)7節 第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」
・「みだりに」→ “You shall not take the name of the Lord your God in vain.” “in vain” →「実質の伴わない、むなしい、偽りの」という意味。
・ 違約の禁止。神の名にかけて誓いながら、後に都合がわるくなるとそれを破ることの禁止。例、レビ記19:12,エレミヤ記5:2、マタイ5:33-37など。
・ これは神を利用することである→第一戒と第二戒と同様に、神の主権の擁護→「神は神であり、人間は人間である」、「神は天にあり、人間は地にある」という「神と人間との無限の質的差異」(カール・バルト)を認めた議論。
・ この第三戒→内村鑑三のキリスト教国アメリカの最初の感想を想起させる(松沢弘陽訳『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』第6章)→「神かけて」等、不誠実なヘブライ的表現の過多に失望→第三戒への裏切りと理解した(上掲書、144-5頁)。
(2) 8-11節 第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」
・ 安息日を守ること→ユダヤ人に由来→天地創造の物語と密接に関連。
・ 元々「社会的、人道主義的法律」、「十戒の中で一番恵み深い律法」(W・バークレー)。
・ だが、ユダヤ教ではこの戒めは律法主義化し形骸化し、恐ろしい規則の体系となった。
・ キリスト教の出現→安息日が日曜日に守られるようになった。
・ 安息日遵守の福音化→イエスに始まる。マタイ12:1-9→「人の子は安息日の主なのである」。パウロ→日や月や季節や年などを守ることに反対した。ガラテヤ書4章、コロサイ書2:16、参照。毎日が聖日であるという考え方→ロマ書14:5-6。
・ 現代における安息日遵守→(1)神との交わりの日、礼拝の日、祈りの日、聖書の学びの日、信仰の仲間たちや友人たちとの交わり(親睦)の日。(2)休息の日、健康増進の日であり、自由の精神でこれを守る。(3)体を動かす日、スポーツの日、自然を楽しみ、自然のなかに遊ぶ日、音楽の日、娯楽の日、家族の日である。(4)安息日を覚えることで、生活や仕事のリズムがつく、時間のけじめがつく、繰り返しの円環的ないし循環的時間ではなく、直線的時間を生きていることを理解する。(5)安息日を守るということは「神に倣う」ということ、神と共に生きるという人生を示しているのではないか。
・ しかし、多忙社会の現在、こうした安息日遵守は不十分なものにとどまっているという反省。
(3) 12節 第五戒「あなたの父母を敬え。」
・父母を敬うという戒めは、父母の側からは子どもを愛し育てるという戒めとワンセットである
・ エフェソ書6:1-14、コロサイ書3:20-21。
・ イエスの教え→マルコ7:8-13。
・ 人々を尊敬する、敬う→「心の習慣」を作る、家庭を作る、共同体を作る、社会を作る、文化を作る、平和を作る。
・ 自分たちの属する家や共同体の精神的伝統や価値を尊ぶということにつながる→自分の家の宗教の尊重、自分の国の尊重、自分の国の精神的伝統や文化の尊重など。
(4) 13節 第六戒「殺してはならない。」
・ 「殺す」(ラーツァハ)という動詞→ 意図的な殺害、意図せざる殺人の双方を意味する。
・ 第六戒→戦争、死刑、自殺、正当防衛、中絶、安楽死など、論争の的であり続けている。
・ この戒め→新約聖書において徹底化されている。
第六戒→徹底平和主義の根本的価値、キリスト者とエクレシアへの世界平和への召命感への論拠。非暴力と非戦の聖書的根拠。内村鑑三→非戦の立場から日露戦争に反対。主戦論(戦争容認論)に傾いた『万朝報』を退職。内村「余は日露非開戦論者であるばかりでない。戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずがない」(「戦争廃止論」[『万朝報』]、明治36(1903年)年6月30日朝刊)。 ]
(5) 14節 第七戒「姦淫してはならない。」
・ 家族と共同体を保護するもう一つの戒め
・ 「姦淫する」という動詞→元来、男性と女性のいずれもが主語として用いられ、結婚している人びと、婚約している人びとに用いられた→しかし、仏教の「不邪淫」の教えのように、すべての結婚外の性行為を禁止するものと理解すべきである。この意味での性道徳→家庭、共同体、社会の平和と健全な秩序を構築し維持するための重要な基盤。
・ イエスと新約聖書において徹底化される→心の内での姦淫を戒める。マタイ5:27-30。
・ 資本主義社会における性の商品化→深刻な問題。第二次世界大戦後の西欧諸国、そして四半世紀遅れて日本社会でも、離婚が急増し、大きな社会問題になって、今日に至っている。
(6) 15節 第八戒「盗んではならない。」
・「盗む」→強盗や誘拐や拉致だけでない、いかなる種類の盗みをも禁止している。
(7) 16節 第九戒「隣人に関して偽証してはならない。」
・第九戒→元来、法廷での偽証の禁止を意図したと理解される。これはその通りだが、それだけでなく個人道徳としては、すべての偽証、欺瞞、中傷、虚言、ゴシップ、噂話などを含むと考えるべきであろう。正当な事実の指摘や批判以外のすべての中傷や虚言は人間関係と共同体と社会において豊かで建設的な実りを生まない。
(7) 17節 第十戒「隣人の家を欲してはならない。」
・「欲する」(ハマード)という動詞→欲する、貪る、情欲を燃やすという意味。
・行為だけでなく、心の内の思いを問題にしている戒め。
おわりに
・ 「偶像崇拝の沃野」(溝口正)としての日本社会という問題。
・ 「無規範/無律法」(アノミー)の時代といわれる今日、人びとは信頼するに足る一連の価値規範を求めている。「救済の手段」としての律法は律法主義になり、人生の活力、自由、生き生きとした日々新鮮な生き方を削ぐ。しかし、「人生を導き照らす光」としての律法は貴重な規範であり、人生を悪から守る避け所でもある。そのような意味で律法を求めていきたい。
・ 十戒→否定形が多いので人間には抑圧的かつ威圧的に響くかもしれない。しかし、人間を悪と罪の奴隷的勢力から解放するもの、肯定的かつ積極的なものを含んでいる。
・ 十戒→外なる律法、良心→前回見たように、「心の内に記された律法」(ローマ書2章14-15節)。これらの価値規範を内面化させ、習慣化させることの重要性。
・ 十戒→その後の「契約の書」が続く(出エジプト記20:22〜32)、その教えは共同体内と外国からの寄る辺なき人たちへの愛の教え。これは後に申命記、ヨシュア記、預言書などに継承。新約に流れていく。Cf.,ミカ書6章8節「人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるのか。それは公正を行い、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。」これらの規範を固く守ることによって神からの平安/平和(シャローム、アイレーネー)と晴朗な確信(パレーシア)を日々に頂戴することができる。
・ 愛こそ律法を完成するもの→十戒は神への愛と隣人への愛の教えのコインの裏、その消極的な側面→十戒を積極的に言い表せば、「最も重要な戒め」になる。すなわち、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、」「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22章37-39節)。
参考文献
1 ウィリアム・バークレー『現代キリスト教倫理双書・十戒 現代倫理入 門』(新教出版社、1980年)
2 ヨゼフ・シュライナー『十戒とイスラエルの民』(酒井一郎・酒井宗代訳、日本基督教団出版局、1992年)
3 大木英夫『信仰と倫理 十戒の現代的意味』(教文館、2003年)
4 T・E・フレットハイム『出エジプト記』(現代聖書注解、小友聡訳、日本基督教団出版局、1995年)
5 H. Richard Niebuhr, Radical Monotheism and Western Culture (New York: Harper & Row Publishers, 1960).
6 Walter J. Harrelson, The Ten Commandments and Human Rights
(Macon, Georgia: Mercer University Press, 1997).
|
「毒麦」のたとえ |
2022年5月22日春風学寮日曜集会 |
マタイによる福音書
◆「毒麦」のたとえ
13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
◆「毒麦」のたとえの説明
13:36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13:37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
13:38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
13:41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
13:42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
13:43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
1.「毒麦」のたとえの元々のメッセージ
13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
・「天の国」とは、この世の歴史の終わりに行われる神の公正な裁きによって成立する神の支配状
態。そこでは正義と愛が日常となる。ただし、この「天の国」は、イエス・キリストを心に受
け入れるとき、人の心の中でも、それを受け入れた人々の間でも成立する。イエスがこのた
とえで伝えようとしているのは、まさにそのような「天の国」である。
・「ある人」はここでは神。「良い種」とは良いもの。「畑」とは世界。つまり、「ある人が良い
種を畑に蒔いた」とは、神がこの世界を素晴らしいもので満たしたということ。
13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
・「敵」はサタン(悪魔、悪霊)、「毒麦」の種は罪、「毒麦」は罪の結果である悪いもの、特に罪に支配される悪い人。だから、「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」とは、人間が気付かない間にサタンがこの世界に罪をばらまいたということ。だから、「芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」とはその結果世界には悪いものや悪人がはびこってしまったということ。つまり神が良いもので満たしたはずの世界に悪がはびこってしまったのだ。サタンが本当にいるのかどうかはわからないが、人間がいくら努力しても、何らかの力によっていつの間にか世界には悪がはびこってしまう。イエスはここでそのことを言っているのである。
13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
・「僕たち」とは神に従おうとする者たち。彼らは言う。『では、行って抜き集めておきましょうか』と。これは、言うまでもなく自らの実力をもって悪を排除しようという提言である。人間としてこれはごく当然の提案であろう。
・ところが主人は言う。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』と。《毒麦と普通の麦との違いは、早い段階ではわからない。だから、毒麦を抜こうとすると普通の麦まで一緒に抜いてしまうことになる。だから刈り入れの時まで、毒麦を放っておきなさい。刈り入れの時に担当者に区別させよう》というのが表面上の意味。しかし、その真意は、《悪いものや悪人を排除しようとすると良いものや良い人まで排除することになりかねないから、人間が自力をもって悪を排除しようとしてはいけない。悪いものや悪人の排除は裁きの日に神の使い(天使)にやってもらおう》ということ。つまり、端的に言えば、《悪人への裁きは神様にお任せして、あなたがたは人を裁くことから手を引きなさい》というのがこのたとえのメッセージ。
・そこで「天の国」に話を戻せば、「天の国」とは、悪人を人間が裁かずに赦し、その裁きを神に委ねることによってこの世に生じる愛の支配のこと。従ってイエスが最も伝えたいメッセージはこうである。《人間が裁きを神に委ねたとき、そこには神の力が働き、愛の支配が成立する》。イエスが最も伝えたいメッセージはこれである。
《私見》
・当時は悪人を自力で排除しようとする人がたくさんいた。例えば、熱心党と呼ばれる人々は、ローマ帝国のユダヤ人支配を自力で排除しようとした。ユダヤ人の指導者たち(律法学者やファリサイ派の人々)は民衆の堕落を自力で排除しようとした。イエスの弟子たちですら、不信仰な人たちを自力で排除しようとした。このことは今も同じである。自分たちの目に悪人と見える人々は自力で排除する、これが人間の常識である。ところがここでイエスは、全く異なるメッセージを発している。悪人は放っておけと。
・その理由は恐らく四つ。これはイエスの他の言葉から推測できる。第一に、悪人はそれ自身の性質によって自滅していく。第二にたとえ自滅しない悪人がいたとしても、その悪人はやがては神によって裁かれる。第三に悪い人と良い人とを人間は区別できない。第四に自力で悪人を排除しても、たいてい結果は悪くなる。だから、悪人を自力で排除してはならないとイエスは言うのであろう。
・悪人を自力で排除しないなら、現実社会は成り立たない。犯罪者を排除しようとする警察、敵国を排除しようとする軍隊。これらは、人間が自力で悪人を排除しようという試みである。しかし、自力による悪人の排除は、本当に社会を良くしているであろうか。警察力によって犯罪者は悔い改めているだろうか。軍事力によって隣国との間に平和がもたらされているだろうか。自力を行使すれば、確かに即効で悪人を排除することができる。しかし、それは事態の本質的な解決であろうか。悪人に対する自力の行使は、長期的に見れば、むしろ悪を増長させるのではないか。例えば、この寮でも誰かが間違ったことをやったときに、それを行った者を強制的に処罰したり、排除したりして何がうまくいくだろうか。まず無理だろう。うまくいくどころか事態はかえって悪化するだろう。その意味で、私は基本的にイエスのメッセージに賛同する。
2.「毒麦」のたとえの説明のメッセージ
13:36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13:37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
13:38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
・イエスが弟子たちだけに、たとえの意味を説明するということはあり得ない。イエスは弟子たちだけを特別扱いしない。それゆえにここから先はマタイによる付加。これは聖書学の通説。
・この説明によれば、「良い種を蒔く人」は「人の子」(=イエス)、畑は「世界」、「良い種」は「御国の子ら」(=キリスト教徒ら)、「毒麦」は「悪い者の子ら」(=悪魔にそそのかされてイエスを信じない者ら)。つまり、筆者のマタイは、良い人(キリスト教徒ら)と悪い人(不信仰者)を区別できることを前提としている。元々のたとえでは、麦は人も含めた被造物全体であり、良いものと悪いものの区別がつかないことが前提であった。
・「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである」という部分は、元のたとえに忠実である。
13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
13:41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
13:42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
13:43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。
・「つまずきとなるものすべてと不法を行う者ども」とは、先ほどの「悪い者の子ら」と同じで、イエスを信じない者たちである。だから、「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」とは、要するに裁きの日にイエスを信じない者らは、地獄の業火で焼かれることになるということである。
・「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」とは、裁きに日には、イエスを信じた者たちは、天の国に迎えられて、永遠の命を与えられることになるということである。
・だとすると、この説明のメッセージは、イエスを信じない者は裁きの日に地獄の業火で焼かれるが、イエスを信じた者は神の国に迎えられて永遠の命を得るというものである。
《私見》
・このように、元のたとえとその説明を比較してみるならば、イエスのたとえとその弟子たちの解釈がいかにかけ離れたものであるかが理解できる。イエスのたとえの重心は、悪いように見えるものも人であれ、物であれ排除してはならないという包括的な愛のメッセージ(人による裁きを禁じるメッセージ)であった。ところがそれを弟子たちは、イエスに忠実な者とそうでない者を区別する裁きと排除のメッセージであると受け止めてしまった。
・いったいなぜこのように誤解してしまったのか。マタイの教会の人々は、日夜激しい迫害にさらされていた。律法を重んじるユダヤ人とキリスト教に否定的なローマとの両方から激しい弾圧を受けていた。イエスを救い主と信じることを止めよと。当然イエスへの信仰を捨てる者も続出した。そのような中にあってイエスの「毒麦」のたとえを思い出したとき、彼らの関心はごく自然に赦しの部分ではなく裁きの部分に集中していったのではないか。イエスを信じ続ける者は救われ、信仰を捨てた者は地獄の業火に焼かれるのだと。推測に過ぎないが。
・では、このような「毒麦」のたとえの説明部分を私たちはどのように読めばよいのであろうか。激しい迫害のさ中で生み出された誤解であると片付けてよいのであろうか。
・もしそのように片づけてしまうならば、今度は私たちがマタイを裁くという罪を犯すことになってしまう。では、この説明個所はどのように読めばよいのであろうか。イエスの教えに立ち戻り、裁きの心を捨てて読めばよいのである。《イエスを信じない者は裁きの日に地獄の業火で焼かれるが、イエスを信じた者は神の国に迎えられて永遠の命を得る》というマタイのメッセージを裁いて捨てずに、覚えておけばよいのである。このマタイのメッセージが毒麦なのか本当の麦なのか、私たちにはわからないのだから。
・聖書には、不信仰者や悪者を糾弾するような言葉がたくさんある。それらはフィクションめいた脅し文句に思われてしまう。しかし、それらが真実かどうか私たちには結局はわからない。わからないことについては、裁かないのが一番である。
・しかし、イエスの元々のたとえのメッセージの方は、真実であると私は確信している。《人間が裁きを神に委ねたとき、そこには神の力が働き、愛の支配が成立する。》このことは、私自身実践して何度も経験したことである。みなさんもぜひとも実践(=実験)して確かめてほしい。
|
「毒麦」のたとえ |
2022年5月22日春風学寮日曜集会 |
マタイによる福音書
◆「毒麦」のたとえ
13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
◆「毒麦」のたとえの説明
13:36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13:37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
13:38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
13:41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
13:42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
13:43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
1.「毒麦」のたとえの元々のメッセージ
13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
・「天の国」とは、この世の歴史の終わりに行われる神の公正な裁きによって成立する神の支配状
態。そこでは正義と愛が日常となる。ただし、この「天の国」は、イエス・キリストを心に受
け入れるとき、人の心の中でも、それを受け入れた人々の間でも成立する。イエスがこのた
とえで伝えようとしているのは、まさにそのような「天の国」である。
・「ある人」はここでは神。「良い種」とは良いもの。「畑」とは世界。つまり、「ある人が良い
種を畑に蒔いた」とは、神がこの世界を素晴らしいもので満たしたということ。
13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
・「敵」はサタン(悪魔、悪霊)、「毒麦」の種は罪、「毒麦」は罪の結果である悪いもの、特に罪に支配される悪い人。だから、「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」とは、人間が気付かない間にサタンがこの世界に罪をばらまいたということ。だから、「芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」とはその結果世界には悪いものや悪人がはびこってしまったということ。つまり神が良いもので満たしたはずの世界に悪がはびこってしまったのだ。サタンが本当にいるのかどうかはわからないが、人間がいくら努力しても、何らかの力によっていつの間にか世界には悪がはびこってしまう。イエスはここでそのことを言っているのである。
13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
・「僕たち」とは神に従おうとする者たち。彼らは言う。『では、行って抜き集めておきましょうか』と。これは、言うまでもなく自らの実力をもって悪を排除しようという提言である。人間としてこれはごく当然の提案であろう。
・ところが主人は言う。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』と。《毒麦と普通の麦との違いは、早い段階ではわからない。だから、毒麦を抜こうとすると普通の麦まで一緒に抜いてしまうことになる。だから刈り入れの時まで、毒麦を放っておきなさい。刈り入れの時に担当者に区別させよう》というのが表面上の意味。しかし、その真意は、《悪いものや悪人を排除しようとすると良いものや良い人まで排除することになりかねないから、人間が自力をもって悪を排除しようとしてはいけない。悪いものや悪人の排除は裁きの日に神の使い(天使)にやってもらおう》ということ。つまり、端的に言えば、《悪人への裁きは神様にお任せして、あなたがたは人を裁くことから手を引きなさい》というのがこのたとえのメッセージ。
・そこで「天の国」に話を戻せば、「天の国」とは、悪人を人間が裁かずに赦し、その裁きを神に委ねることによってこの世に生じる愛の支配のこと。従ってイエスが最も伝えたいメッセージはこうである。《人間が裁きを神に委ねたとき、そこには神の力が働き、愛の支配が成立する》。イエスが最も伝えたいメッセージはこれである。
《私見》
・当時は悪人を自力で排除しようとする人がたくさんいた。例えば、熱心党と呼ばれる人々は、ローマ帝国のユダヤ人支配を自力で排除しようとした。ユダヤ人の指導者たち(律法学者やファリサイ派の人々)は民衆の堕落を自力で排除しようとした。イエスの弟子たちですら、不信仰な人たちを自力で排除しようとした。このことは今も同じである。自分たちの目に悪人と見える人々は自力で排除する、これが人間の常識である。ところがここでイエスは、全く異なるメッセージを発している。悪人は放っておけと。
・その理由は恐らく四つ。これはイエスの他の言葉から推測できる。第一に、悪人はそれ自身の性質によって自滅していく。第二にたとえ自滅しない悪人がいたとしても、その悪人はやがては神によって裁かれる。第三に悪い人と良い人とを人間は区別できない。第四に自力で悪人を排除しても、たいてい結果は悪くなる。だから、悪人を自力で排除してはならないとイエスは言うのであろう。
・悪人を自力で排除しないなら、現実社会は成り立たない。犯罪者を排除しようとする警察、敵国を排除しようとする軍隊。これらは、人間が自力で悪人を排除しようという試みである。しかし、自力による悪人の排除は、本当に社会を良くしているであろうか。警察力によって犯罪者は悔い改めているだろうか。軍事力によって隣国との間に平和がもたらされているだろうか。自力を行使すれば、確かに即効で悪人を排除することができる。しかし、それは事態の本質的な解決であろうか。悪人に対する自力の行使は、長期的に見れば、むしろ悪を増長させるのではないか。例えば、この寮でも誰かが間違ったことをやったときに、それを行った者を強制的に処罰したり、排除したりして何がうまくいくだろうか。まず無理だろう。うまくいくどころか事態はかえって悪化するだろう。その意味で、私は基本的にイエスのメッセージに賛同する。
2.「毒麦」のたとえの説明のメッセージ
13:36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13:37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
13:38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
・イエスが弟子たちだけに、たとえの意味を説明するということはあり得ない。イエスは弟子たちだけを特別扱いしない。それゆえにここから先はマタイによる付加。これは聖書学の通説。
・この説明によれば、「良い種を蒔く人」は「人の子」(=イエス)、畑は「世界」、「良い種」は「御国の子ら」(=キリスト教徒ら)、「毒麦」は「悪い者の子ら」(=悪魔にそそのかされてイエスを信じない者ら)。つまり、筆者のマタイは、良い人(キリスト教徒ら)と悪い人(不信仰者)を区別できることを前提としている。元々のたとえでは、麦は人も含めた被造物全体であり、良いものと悪いものの区別がつかないことが前提であった。
・「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである」という部分は、元のたとえに忠実である。
13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
13:41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
13:42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
13:43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。
・「つまずきとなるものすべてと不法を行う者ども」とは、先ほどの「悪い者の子ら」と同じで、イエスを信じない者たちである。だから、「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」とは、要するに裁きの日にイエスを信じない者らは、地獄の業火で焼かれることになるということである。
・「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」とは、裁きに日には、イエスを信じた者たちは、天の国に迎えられて、永遠の命を与えられることになるということである。
・だとすると、この説明のメッセージは、イエスを信じない者は裁きの日に地獄の業火で焼かれるが、イエスを信じた者は神の国に迎えられて永遠の命を得るというものである。
《私見》
・このように、元のたとえとその説明を比較してみるならば、イエスのたとえとその弟子たちの解釈がいかにかけ離れたものであるかが理解できる。イエスのたとえの重心は、悪いように見えるものも人であれ、物であれ排除してはならないという包括的な愛のメッセージ(人による裁きを禁じるメッセージ)であった。ところがそれを弟子たちは、イエスに忠実な者とそうでない者を区別する裁きと排除のメッセージであると受け止めてしまった。
・いったいなぜこのように誤解してしまったのか。マタイの教会の人々は、日夜激しい迫害にさらされていた。律法を重んじるユダヤ人とキリスト教に否定的なローマとの両方から激しい弾圧を受けていた。イエスを救い主と信じることを止めよと。当然イエスへの信仰を捨てる者も続出した。そのような中にあってイエスの「毒麦」のたとえを思い出したとき、彼らの関心はごく自然に赦しの部分ではなく裁きの部分に集中していったのではないか。イエスを信じ続ける者は救われ、信仰を捨てた者は地獄の業火に焼かれるのだと。推測に過ぎないが。
・では、このような「毒麦」のたとえの説明部分を私たちはどのように読めばよいのであろうか。激しい迫害のさ中で生み出された誤解であると片付けてよいのであろうか。
・もしそのように片づけてしまうならば、今度は私たちがマタイを裁くという罪を犯すことになってしまう。では、この説明個所はどのように読めばよいのであろうか。イエスの教えに立ち戻り、裁きの心を捨てて読めばよいのである。《イエスを信じない者は裁きの日に地獄の業火で焼かれるが、イエスを信じた者は神の国に迎えられて永遠の命を得る》というマタイのメッセージを裁いて捨てずに、覚えておけばよいのである。このマタイのメッセージが毒麦なのか本当の麦なのか、私たちにはわからないのだから。
・聖書には、不信仰者や悪者を糾弾するような言葉がたくさんある。それらはフィクションめいた脅し文句に思われてしまう。しかし、それらが真実かどうか私たちには結局はわからない。わからないことについては、裁かないのが一番である。
・しかし、イエスの元々のたとえのメッセージの方は、真実であると私は確信している。《人間が裁きを神に委ねたとき、そこには神の力が働き、愛の支配が成立する。》このことは、私自身実践して何度も経験したことである。みなさんもぜひとも実践(=実験)して確かめてほしい。
|
|